最悪だ。今の自分は、もしかしたら世界で一番ついていないんじゃないだろうか。二十四時間営業のファミリーレストランの禁煙席。ひんやりと冷たいビニール張りの長いすに座ると聡子は溜息をついた。
「あーもう、旅行社のバカ、ホテルのバカ、…………私のバカ」
ふてくされたように呟いて、テーブルに突っ伏す。何かの樹脂でコーティングされているらしいテーブルの表面はでこぼこしていて、ひんやりと冷たかった。紙のコースターは、水の入ったグラスの表面から垂れる水滴を吸ってふやけている。
テーブルの端にあるボタンを押すと、ベージュの制服を来た店員が営業用の笑顔を浮かべてやってきた。
「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」
「……ドリンクバーください」
「かしこまりました。それでは、ご注文を繰り返させていただきます」
俯きがちに呟いた聡子のぼそりとした声とは対照的に、店員の声は明るい。マニュアルで指示されているのだろう、高いトーンの声でたった一つしかない注文の品物を確認して、厨房の方へと歩いていった。
去っていく店員の後姿を見るとはなしに見ていると、不意にお腹が鳴って、聡子は慌ててうずくまった。
今はまだ時間が早すぎる。もう少し我慢しなくては。
何しろ、この席には明日の朝までいられるようにしなくてはいけないのだ。
寒さも緩んできた二月の終わり、聡子は国公立大の入学試験を受けるために一人東京へとやってきていた。私大の入試は既に済んでいて、残るは国公立大一つだけ。二日かけて行われた試験も今日の午後に終わり、他に受けなければいけない試験はない。まだ合格発表は出ておらず浪人の可能性はあるにせよ、ひとまずは試験の緊張感から開放された聡子は、今頃は安心しきってホテルの部屋でくつろいでいる……はずだった。
入試を受け終えた聡子が、まだ東京に留まっているのには理由があった。国公立大の入試の次の日に、私大の合格発表が行われることになっていたからだ。地元に戻ってインターネットで確認しても良かったのだが、やはり学内に大きく張り出された合格番号を自分の目で確認したい。四月からの下宿も今から探しておいたほうがいいだろうということで、滞在期間を一日延ばしたのだ。
しかし、それがいけなかった。
空室状況の関係で、試験が終わった日、つまり今日の晩の宿泊だけはそれまで泊まっていたホテルとは別のホテルに予約をしていた。聡子はそのつもりだったし、学校に来ていた旅行代理店の担当者も確かにそう言っていた。
しかし、試験を終え、荷物を抱えてその日泊まる予定だったホテルに向かった聡子を待っていたのは、フロントの「ご予約は承っておりません」という非情な言葉。何らかの手違いで予約がなされていなかったらしい。その場で部屋を取ろうにも、飛び込みでやってきた女子高生を簡単に泊めてくれるホテルなどなく、聡子は途方に暮れた。
ホテルが無理なら人の家だ、と東京に下宿している知り合いにもずいぶん電話をかけたがこちらもあっけなく全滅した。一つ年上の従姉妹には「彼氏が来るから」と断られ、部活の先輩はことごとく実家に帰省中。全く、世間は厳しい。
東京在住の知り合いには、ほとんど当たってそのたびに砕けたのだが、全ての人に電話したというわけではない。携帯電話に表示した番号を見て、聡子は小さく溜息をついた。
「…………やっぱやめようかな」
画面に表示されているのは、あの男の電話番号とメールアドレス。いつでも連絡していいよ、と教えてもらった番号だけれど、さっきからどうしてもかけることができずにいる。
あの男……「山田次郎」こと倉田慎二は、今若者の間で人気の五人組バンドのボーカルだ。昨年末には紅白に出場し、今月初めに発売したシングルはヒットチャートの上位にランクインされている。そんな全国的な知名度を持つ彼に電話をかけるというのは、聡子にとって相当な勇気を必要とすることだった。その上「今夜一晩泊めてくれ」なんて言えるわけがない。慎二は優しいから、聡子の頼みを無下には断らないだろう。けれど、きっと困るはずだ。慎二を困らせるようなことを聡子は言いたくなかったし、彼の部屋に泊まったなどということが誰かに知られればどんな騒ぎになるか、考えないほど馬鹿にもなれない。
慎二に電話をかけるのは気が引ける。無理に泊めてもらって、彼の迷惑になりたくない。けれど、彼に甘えたい気持ちも確かにある。矛盾する感情の間で、聡子の心は揺れていた。
「一回……だけ」
一回だけかけてみよう。十コール待って出なければ切ればいい。いつも忙しい彼だから、きっと一度かけたくらいでは繋がらない。もしも折り返しかかってきたら、平気な声で「なんでもない」と言えばいいのだ。
聡子はそう自分で自分を納得させると、携帯電話の通話ボタンを押した。背中を丸めて両手で受話器を握り締め、コール音を数える。
一、二、三、四……。
やっぱり出ない。きっと今は仕事中なのだろう。そう考えて安堵と落胆の入り混じった溜息をついたとき、プッと電話の向こうで音がした。
「もしもし?聡子ちゃん?」
「……嘘」
まさか本当に出るなんて。予想外の展開に、聡子は小声でそう呟いた。その間にも電話機の向こう側からは慎二の低い声が聞こえてくる。
「もしもし?どうかした?」
いつもよりも少しだけ早口で、慎二が聡子の名前を呼ぶ。
聡子が携帯電話を持ち始めてからもうすぐ一年経つが、慎二の携帯電話に聡子の方から電話をかけたことはこれまでに一度もない。彼も戸惑っているのだろうということは、容易に想像できた。
いつもは電話をかけるどころかメールを出すこともろくにしない聡子が、何の前触れもなく慎二に電話をかけたのだ。「何でもない」などというごまかしは通用しないだろう。
「そういえば入試、今日だったよね?まだこっちにいるの?」
今仕事が終わったところだから、時間あるなら食事でもしよう、という慎二の声はいつもと変わらず優しい。彼の言葉に背中を押されるように、言葉が口を突いて出た。
「あの、山田」
携帯電話を当てた右耳に、全ての意識が集中する。テーブルの上に置いた左手を硬く握り締めて聡子は言った。
「今晩、泊めて」
「トイレはそっち、風呂はこっち。冷蔵庫にお茶と牛乳とミネラルウォーターがあるから、どれでも好きに飲んでいいよ」
真っ暗で冷え切った部屋の中、電気を点けながらそう言うと、背後で聡子がこっくりと頷く気配がした。
「……ありがとう」
ゴザイマス、と後に続きそうなほど改まった口調。ファミリーレストランの出入り口で落ち合ってから今まで、聡子はまるで借りてきた猫のようにおとなしい。慎二は、やれやれと溜息をついた。
「今晩、泊めて」
聡子が消え入りそうな声でそう言ったとき、慎二は思わず自分の耳を疑った。常日頃からいつかはと思っていたが、まさか本当に聡子の口からそんな言葉が飛び出すとは。ちょうど一年ほど前に聡子と再会して以来、日に日に大きくなっていくどうしようもなく情けない願望と妄想のせいで、幻聴を聞いたのかと思ったほどだ。
「え?」
とっさに聞き返すと、聡子は慌てた声でやっぱりいい、と言ったばかりの言葉を撤回しだした。
「手違いで、予約してたホテルに泊まれなくなっちゃって、従姉妹や先輩に頼んだけど泊めてくれる人誰もいなくて……山田だっていきなり迷惑よね。ごめん」
一息に言い切って電話を切ろうとする聡子を、慎二は慌てて引きとめた。半ば無理やりに居場所を聞きだして、何事かと怪訝な顔をする仲間を尻目に仕事場を飛び出した。可愛い彼女、それも高校生の女の子を一晩ファミレスにたった一人で置いておくなんて、冗談じゃない。
仕事場の前でタクシーをつかまえて聡子を迎えに行ったのだが、慎二の自宅へ向かうタクシーの中でも、聡子は始終無言だった。ときどきそわそわと窓の外に目をやるので、慎二は彼女が今にも「もう降りる」と言い出すのではないかと気が気ではなかった。ルームミラー越しにちらちらとこちらを盗み見てくる運転手まで巻き込んで喋るほど饒舌だったのは、聡子に「帰る」と言う隙を与えないための悪あがきだ。
(連れてきたはいいけど……)
慎二は湯沸かしポットに水を入れながら、いまだにドアの近くから動こうとしない聡子をちらりと見た。慎二に電話をかけたことを後悔しているといった顔で、大きなスポーツバッグを胸に押し付けるようにして抱えて所在なさげに立っている。
「そんなに怯えなくても……取って食うわけじゃないのに」
思わず漏れた呟きは、聡子の耳にも届いたらしい。彼女は目に見えるほど肩をびくりと震わせて、慎二の方を振り返った。ほんのりと赤くなったその顔は、今にも泣き出しそうだ。
「違っ……そんなんじゃ」
「分かってるよ」
家でも学校でも優等生として通っているらしい聡子は、規範意識が人一倍強い。そんな彼女にとって、「一人暮らしの男の部屋に無断外泊する」というのは恐らくとんでもなく「ふしだらなこと」なのだろう。やんわりとそれを指摘すると、聡子は気まずそうに視線をそらしてうな垂れた。
今時、女子高生の外泊なんて珍しいことでも何でもないというのに、ただ寝床を借りにきただけでここまでうろたえるとは。聡子の真っ直ぐさを愛しく思いながら、慎二は彼女の頭に手を伸ばした。カラーもパーマも入っていない柔らかな黒髪をくしゃりと撫でる。
「あのままファミレスにいたほうが危ないよ。これからの時間は危険な連中も多いんだから、俺に電話した聡子ちゃんの判断は正解。何にもやましく思うことはないんだよ」
そう言って笑いかけると、聡子の肩から少しだけ力が抜けたようだった。張り詰めた表情を緩めて顔を上げた聡子に、慎二は湯気の立ち上るマグカップを差し出した。
「あっちに行ってコーヒーでも飲もう。いつまでもこんなとこに立ってると風邪ひくよ」
取って食うわけじゃない、という言葉に嘘はない。けれど、何も期待していないわけじゃない。
慎二はコーヒーを飲みながら、隣に座る聡子の顔をちらりと見た。インスタントコーヒーで作ったカフェオレの入ったマグカップを両手で包み込むようにして持つ彼女に何気ない口調で話しかける。
「試験はうまくいった?」
「分からない。とにかく時間いっぱいまで頑張ったけど……受かるといいなという感じ」
そう答えてカフェオレを飲む聡子の口調は、先ほどよりもだいぶ落ち着いていた。きっと、受験自体は満足のいくものだったのだろう。慎二はコーヒーを飲み干すと、空になったマグカップをローテーブルの上に置いた。
「受かるといいね」
「うん、ありがと……」
「そうしたら、今よりもっと聡子ちゃんと会えるかな?」
身体ごと聡子の方に向けて何気ない口調でそう言うと、白いブラウスから出た首筋が一瞬ぴくりと震えた。言葉の真意を問うようにこちらを見上げてくる聡子の目を、慎二はじっと覗きこむ。
「今よりたくさん色んな所に出かけて、今よりもっと電話して、聡子ちゃんがここに来ることも多くなって」
慎二は聡子の手を取り、マグカップを取り上げた。温くなったカフェオレが、カップの中で小さな波を立てる。
「そうしたら、聡子ちゃんは俺のこと、少しは近くに思ってくれるかな?」
聡子がこの部屋に泊まることをためらっていたのは、規範意識のせいだけではない、と慎二は感じていた。彼女はいつも自分に遠慮している。
例えば携帯電話。番号とアドレスを教えているにも関わらず、聡子は自分の方からは決して慎二に連絡を取ろうとしない。そういう性分なのかもしれないが、遠慮しているという部分も大きいだろう。
今日のことだってそうだ、と慎二は苦々しく考える。聡子は最後の最後、他の誰にも頼ることができないのだと分かるまで自分に連絡しようとしなかった。まかりなりにも恋人同士なのだから、真っ先に頼って欲しいと思うのに。慎二自身は、聡子の望みならどんなことでも叶えようと思っているというのに。
なかなか自分の弱みを見せたがらないというのが聡子の性格だということは分かってはいるが、肝心なときに頼りにされないというのは結構痛い。彼女が自分との間に距離を置こうとしているのではないか、そんなことまで考えてしまう。
聡子との間にある、目に見えない壁を取り払ってしまいたい。彼女を近くに感じたい。彼女に自分の存在を刻み込んでしまいたい。
この意地っ張りな恋人がこの先、自分なしではいられなくなってしまうように。
「聡子ちゃん、卒業式って何日だっけ?」
聡子が高校生のうちは……せめて卒業式が終わるまでは、手を出すまいと決めていた。数日のフライングは許されるだろうか?
慎二は聡子の肩を掴むと、ゆっくりと彼女に覆いかぶさった。唇が重なるその一瞬前、陽気な響きの電子音が部屋の中に響き渡る。慎二たちのバンドの曲をモチーフにした着信メロディだ。
「…………っ、ごめん、ちょっと」
私の携帯だ、と言いながら立ち上がる聡子に押しのけられて、慎二はソファの上にひっくり返った。慌てて体勢を整える彼の隣で、聡子は鞄の中から取り出した携帯電話を耳に当てている。
「……もしもし」
見たことのない番号からの電話なのだろうか、聡子の声はいつもよりも硬かった。知らない番号からの電話になんてでなければいいのに。せっかくのいい雰囲気をぶち壊しにした、電話の相手の間の悪さが恨めしい。
「えっ……あ、お久しぶりです。はい……でもどうして?」
聡子が、電話の相手と話しながらちらちらとこちらへ視線を送ってくる。それに気づいた慎二が慌てて表情をつくろい聡子の側に行くと、突然携帯電話を差し出された。
「葦原さんたちから。山田に替わって、だって」
よりにもよってこんな時に。しかも、何で聡子の携帯に掛かってくるのか。いつの間に番号を聞きだしたのだろう。
本当ならば一言も喋らずに叩き切ってやりたいところだが、聡子のいる手前それはできない。慎二は受け取った携帯電話を嫌々耳に当てた。
『よう、条例違反者』
電話に出るなり聞こえてきた陽平の笑い混じりの声に、慎二はげんなりと肩を落とした。この妙なテンションの高さ、こいつは絶対に酔っている。
「誰がだよ」
邪魔した奴らが何を言うか、と慎二はやさぐれた声でつぶやいた。
「そもそも、何でお前らが聡子ちゃんの携帯にかけるんだ?」
俺に用があるなら俺に掛けろよ、と不機嫌さを隠そうともせずに言うと、電話の向こうから派手な笑い声が上がった。どうやら四人で飲んでいるらしい。
『あれ?嫉妬―?ごめんね、コジマンと俺ら、メル友だから』
慎の携帯にかけてもどうせ無視するだろうと、横から武人が妙に冷静な声で指摘するのが聞こえる。
『ごめんねー、お楽しみのところ。コジマンにでれでれしてる慎の声が聞きたくてさあ』
「……だから、そんなんじゃないって」
これ以上酔っ払いの戯言に付き合っている暇はない。うんざりした声でもう切るぞ、と言って、慎二は通話終了のボタンを押した。携帯電話を畳んで聡子に返すと、彼女が気遣わしげに慎二の顔を見上げてくる。きっと、電話で話す慎二の声が不機嫌そうだったのを気にしているのだろう。
「葦原さん、何て?」
「特に用事はなかったみたいだよ。聡子ちゃんと無事に会えたか気になったんだって」
慎二は軽く笑いながら聡子を抱き寄せると、化粧をしていないつるりとした頬に口づけた。
「やっ山田!?」
かわいいなあ、もう。頬を押さえて真っ赤になる聡子を腕の中に閉じ込めて、慎二は溜息混じりに苦笑した。
頬へのキスだけでここまでうろたえるなんて、やっぱり当分手は出せそうにない。
「もう少しこのままでもいいか」
強引になりきれない情けない男でいるのも悪くない、と慎二は負け惜しみではなく考えた。時間はたっぷりあるのだから、焦る必要はない。
「ベッドは聡子ちゃんが使っていいよ。俺はソファを使うから」
そのうち一緒に寝ようね、と心の中で呟きながら、慎二は聡子を抱きしめた。
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