「この間はごめんね」
『だんまり勝負』の最中にだまし討ちをかけてきた慎二を蹴り飛ばしてから二週間。久しぶりに慎二の家を訪れた聡子に向かって、彼は開口一番そう言った。
「つい調子に乗りすぎたよ。嫌な思いしただろう?」
もう会ってもらえないかと思った、と肩を落としてうな垂れる姿は、まるで叱られた犬のようだった。聡子よりも頭一つ分以上大きな体が、今日はいつもよりも小さく見える。
「いや、私こそ……」
元はといえば、聡子があんな勝負を仕掛けたのがいけないのだ。声を出すことが生きがいである慎二に喋るなとは、随分酷なことを言った、と反省していた聡子は、彼の言葉に困惑した。確かに、慎二が「勝負に勝つ」ためにあんな方法を使ったことに腹は立ったが、蹴り飛ばすことはなかったと今では思う。
「私こそ、ごめん。変な勝負吹っかけて、挙句の果てに蹴り入れて……お腹、痣になってない?」
そう言って慎二の顔を覗き込むと、彼は大丈夫、と言って安心したように微笑んだ。
「何ともなってないよ……聡子ちゃん、許してくれるの?」
真面目な顔で問いかけられて、聡子はこくりと小さく頷いた。
「……私も、許してくれる?」
「許すも許さないも」
そう言いながら覆いかぶさってきた慎二に、聡子はすっぽりと抱きこまれた。左肩に乗せられた慎二の顎の重みに、何だか少しほっとする。
「俺は怒ってないよ」
聡子ちゃんに腹を立てるなんてとんでもない、という慎二の言葉に、聡子は声を立てて笑った。僅かに体を動かして慎二の背中に腕を回し、しっかりとした胸元に額を押し付ける。久しぶりに触れる慎二からは、微かな柑橘系の匂いがした。
しばらくそのまま慎二の腕の中でじっとしていると、慎二のさて、という呟きが頭上から降ってきた。
「仲直りしたことだし、記念にデートしようか」
「え?」
てっきりいつものように家で過ごすものだと思っていたのに。きょとんとした顔をする聡子に、慎二はにっこりと笑いかけた。
「ずっと考えてたんだ。聡子ちゃん、見たい映画があるって言ってたよね?」
映画見て、食事して、ちょっとドライブしよう。これ以上ないほどオーソドックスなデートの計画を、慎二はまるで歌うように口にする。
「それから」
慎二は言いながら、聡子の前髪を一房、指先でそっとすくった。
「プレゼントもあるんだ」
大学は制服がないから毎日着て行くものを考えるの、大変だろう。そろそろ半袖も必要になる頃だからね。
そう言う慎二に連れられてやってきた店の前で、聡子は思わず顔を強張らせた。
「……ここ?」
「うん。どう?若い女の子にすごく人気のブランドらしいんだ」
ファッション雑誌の編集者に聞いたから間違いない、と得意げに胸を張る慎二に聡子は、そりゃあそうだろうよと心の中で呟いた。男が選んだのは最近雑誌やテレビで引っ張りだこの人気モデルがよく着ているブランドの直営店だったのだから。
ショーウインドウに並ぶマーメイドラインのスカートや、シンプルで上品なワンピースは、確かに聡子も可愛いと思う。友達と買い物をしているときにふらりと店内を覗いてみたこともある。けれど、聡子にとって「見て可愛い服」と「着て可愛い服」は全くの別物だ。
(……絶対似合わない!こんなに丈の短い服、どうやって着ろと?)
ミニスカートが主流のこのブランドのスカートはどれも、膝上10センチ以上と短い。屈んだら下着が見えそうだし、何より聡子には自分の太腿や二の腕を堂々と世間に晒せるだけの勇気も、自分のプロポーションへの自信もない。
(こういう服は海老ちゃんが着るから可愛いのであって……やっぱり無理!絶対無理!)
特に山田の前でだけは着たくない、と聡子は両手を胸の前で握り締めた。
芸能人の端くれである慎二はモデルや女優など、こういう服が似合う女性と顔を合わせる機会も多くあるだろう。現に、慎二の所属するバンドのCDのプロモーション映像で、慎二と最近売り出し中の若手女優が共演しているのをみたことがある。テレビの画面の向こう側で、微笑みながら慎二の背中に寄りかかっていた彼女は、すらりと伸びたきれいな脚を床の上に投げ出していた。
あんなに完璧な手足を日常的に目にしている慎二の前でミニスカートをはくなんて、拷問以外の何物でもない。雑誌やカタログの中のモデルとは似ても似つかない自分のワンピース姿を見たら、慎二はきっと気まずそうな顔をするだろう。試着室から出てきた聡子から目を逸らしながら言葉を濁す慎二の声までありありと想像できて、聡子は泣きたくなった。
慎二に生足を晒すなんて冗談じゃない、どうにかしてこの店から離れなければ。聡子は引きつった笑いを浮かべながら、慎二の顔を見上げた。
「あの……山田。私、できたら別のお店のほうが」
「何で?嫌い?」
邪気のない瞳で問いかけられて、聡子はうっと言葉に詰まった。普段から聡子の私服を見ている慎二は、彼女の服の好みを知っている。聡子がこの店の服の雰囲気を、実はとても気に入っているということも、お見通しに違いない。
「いや……嫌いじゃないんだけど」
脚に自信がないからミニスカートをはきたくない、とは言えなかった。
「ほら、ここの服、高いし……」
言い訳がましく口ごもりながら言うと、慎二は、なんだそんなことか、と声を立てて笑った。
「心配しなくていいよ。この前給料もらったばっかりだし。聡子ちゃんは、そんなこと気にしなくていいの」
そう言って聡子の手を掴み、入り口へ向かってずんずんと歩いていく。
「えっ!?いや……ちょっと!!」
どうして素直に本当のことを言わなかったのか。下らない意地を張ったことを後悔する暇もなく、聡子は慎二と店内にいた華やかな店員たちの手によって店の奥にある試着室の中へ放り込まれた。
さっきはいたスカートは、裾が短すぎた。その前に着たニットアンサンブルは、ウエストの形がくっきり見えてしまうほど細身だった。もう随分と色々な服をとっかえひっかえ試着しているが、安心して着ることのできる服はまだ一着も見つからない。
「もう……絶対無理」
試着室の鏡の前で、聡子はむき出しになった腕をぎゅうときつく抱きしめた。下にはいたパニエのせいでふんわりと膨らんだ紺のワンピースの裾は、普段聡子が履いているスカートよりもだいぶ短かった。太ももはすうすうと頼りなく、他に見ている人間がいるわけでもないのに恥ずかしくてたまらなくなる。
「しかも、ものすごく胸開いてるし……」
襟ぐりが大きくとってある服を着ると、首元がきれいに見えるのだということは聡子にもよく分かっている。けれど、いくらなんでもこれはやりすぎだ。レースや刺繍のあしらわれた襟元は胸元ぎりぎりまで開いていて、肩の部分も数センチしかない。一体何が悲しくて、貧相な胸や太い二の腕をこうも大胆に晒さなくてはいけないのか。
カーテンの外側から、いかがですかお客様、と店員が気遣うように呼びかけてくる。もう少し待ってください、と声を張り上げて、聡子はげんなりと溜息をついた。
「……こんなの着れるわけないじゃない。早くこの店でなきゃ……」
着てみると雰囲気が違ったとか適当に言い訳して返してしまえばいい、とにかく早く脱いでしまおうと胸元のリボンに手をかけたとき、聡子の背後にある淡いピンク色のカーテンが大きく揺れた。
「聡子ちゃん、まだ?」
「おっお客様!?」
「ひっ……!ちょっと何してんのよ!バカ山田!!」
聡子はカーテンの端から覗いた骨ばった手をぴしりと叩いて試着室の壁にはりついた。背中とお尻でカーテンの裾をしっかりと押さえ、外から開けられないようにする。
ピンク色の布の揺れるすぐ向こう側で、参ったなあとぼやく慎二の声がした。
「さっきから『違う』って言ってばかりで試着室から出てきてくれないじゃないか。俺だって聡子ちゃんが試着したところ見たいよ」
一人で鏡を見てたって、似合っているかどうかなんて分からないよ。だからここを開けてごらん。
宥めすかすような慎二の言葉にも、聡子は思いきり首を振った。もちろん、試着室のカーテンの端はしっかりと押さえたままだ。
「やだ!ぜっっッたいに開けない!」
「何がそんなに嫌なの」
間近で聞こえた慎二の溜息は呆れたような響きをしていて、聡子はきつく目を閉じた。目の奥が熱くなってくる。店の中で喚いて悪態ついて泣くなんて、まるで小さな子どものようだ。
「やだったらやだ!私は海老ちゃんとは違うんだから!」
思わずそう叫んだとき、試着室の外が一瞬急に静かになった。それまで大きく波打っていたカーテンの揺れが、だんだん小さくなってくる。
(山田……帰ったんだろうか)
無理もない。自分の子どもじみた言動に、愛想を尽かしてしまったのかもしれないと視線を床に落としたとき、小さな笑い声がした。
「なんだ、そんなことか」
「きゃっ」
小さな呟きと共に勢いよくカーテンを引かれて、バランスを崩した聡子はその場にしゃがみこんだ。目に飛び込んでくる蛍光灯の真っ白な明かりに思わず目を細めると、大きな手がぽん、と頭の上に載せられる。
「何だ、普通に着られてるじゃないか」
屈託のない慎二の声に、聡子の顔から血の気が引く。見ないでとおもいきり体を丸めると慎二は不満そうな顔をした。
「どうして?似合ってるのにもったいない」
もっとよく見せてよ、と両腕を掴まれて聡子はのろのろと立ち上がった。似合っていないことは自分でよく分かっているのに、どうして彼はそんな見え透いたお世辞を言うのだろう。上目遣いで慎二の顔を睨むと、彼はやれやれというように首を振った。
「疑り深いなあ……。店員さん。彼女、似合ってますよねえ?」
慎二が脇にいた店員に同意を求めると、彼女は温和そうな笑みを浮かべて何度も頷いた。
「ええ、すごく。首筋がとってもきれいに見えますよ。色がお白いから、紺色がよく映えますね」
アクセサリーはどんなものがいいかと店内を探す店員をよそに、慎二は腰を屈めて聡子の顔を覗き込んだ。
「ほらね?これで自信持てた?」
「でも、私、海老ちゃんみたいに細くないから」
だから、こういうミニワンピースは着たくない。
消え入りそうな声でそういうと、慎二は一瞬きょとんとした顔をして、それから大声で笑った。
「何それ。聡子ちゃんそんなこと気にしてたの!?」
あの人たちは特殊なんだから、張り合うことはないんだよ、と言いながら、慎二は聡子の背中に腕を回した。
「ちょっ……山田!」
「聡子ちゃんが一番だよ。一番可愛いし、スタイルもいい。他の誰よりも、俺は君がいいんだ」
だから、俺のためにこのワンピース着てよ。
耳元で響く声はどこまでも甘く心地よく、聡子の思考力を少しずつ麻痺させていく。ねえ聡子ちゃん、と誘うように囁かれて、聡子は思わず慎二の肩に顔を埋めたまま頷いてしまった。
(は、嵌められた……っっ!!)
慎二の甘い囁きに乗せられてミニワンピースを着ることに同意した聡子だったが、店を出てから五分もしないうちに自分の考えの足りなさを深く後悔していた。
慎二も店員も似合うだの短くないだのと調子のいいことを言っていたが、膝上十五センチのミニワンピースはやはり短く、心もとなかった。しかも、初夏とはいえ普段の休日の街角に、こんな結婚式の参列者か何かのような浮世離れした格好をしてやってくる人間は聡子のほかにはいない。
聡子は居心地が悪そうに身をすくませると、ワンピースの上に羽織った薄手のボレロをかきあわせた。鼻歌まで歌ってすっかりご機嫌な様子で歩く慎二を横目で恨めしそうに見上げる。
お詫びのプレゼントなんて調子のいいこと言って。本当は仕返しの罰ゲームだったんじゃないの?
「……それにまんまと乗せられた私もバカだったんだけどね」
すっかり投げやりな調子でそう呟いた聡子の目は、ふと前方にある店の軒先に下がっていたTシャツで止まった。
真っ黒なそのTシャツ背中の部分には、何やら文字が書かれている。
『せからしか男ですけん』と白抜きでプリントされた馴染み深い地元の方言が風に翻っているのを見たとき、聡子の頭の中で何かがひらめいた。
(……これだ!)
「ねえ、山田。あのTシャツ、山田に似合うと思わない?」
自分だけが恥ずかしい格好をするなんて冗談じゃない。慎二にもしっかり恥ずかしがってもらわなければ。
そんな思いを心の中に隠しながら、聡子は慎二に向かって極上の笑顔を浮かべてみせたのだった。
「いや〜。これイケてるよね〜。こんないいもの見つけるなんて、さすが聡子ちゃん」
Tシャツを見つけてから二十分後、大喜びでそう話す慎二の背中には、『せからしか男ですけん』の文字。よほどこのTシャツが気に入ったのか、手に提げた紙袋の中には別の方言が書かれたTシャツが三着も入っている。どうやら、慎二にとってこの自己主張の塊のようなTシャツは恥ずかしくも何ともないものだったらしい。
(……負けた)
Tシャツを手にした途端にうろたえて「こんなの着れないよ」と言うと思ったのに!普段着慣れないものを着るのがどれだけ恥ずかしいかを味わわせて、「そのワンピースももう脱いでいいよ」と言わせようと思っていたのに!!
自分の目論見が外れたことに落胆した聡子は、意気揚々と胸を張る慎二の後ろへと隠れるようにしてとぼとぼと休日の街を歩いたのだった。
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