『今、ヒマ?』
突然届いた五文字のメールに、聡子はげっと小さなうめき声を漏らした。
送信者の欄には「山田」の二文字。寝る間もないほど忙しい毎日を送っているはずの男は、こんな意味のないメールを一日のうちに何通も送ってくる。気にかけてくれるのは嬉しいが、男の暑苦しいほどの愛情は、正直たまにうっとおしい。
「釣った魚には餌はやらない」というタイプの恋人に寂しい思いをする女性も多い中、こんな風に思う自分は贅沢なのだろうか、と思いながら、聡子は素早く返事を携帯に打ち込んだ。
『忙しい』
たった三文字の、絵文字も顔文字も付いていない文はそっけないこと限りない。聡子はあて先を確認すると、ためらうことなく送信ボタンを押した。送信完了の画面をちらりと見て携帯を閉じ、鞄の中にしまう。
いつも唐突にメールを送りつけたり電話を掛けてきたりする男だが、相手の都合というものも一応は考慮しているようで、本格的に会話を始める前に必ず聡子の都合を確認し、彼女が「忙しい」と言えば「じゃあまた後で」とあっさりと引き下がる。「大人の男」の余裕すら感じられるこの引き際の良さは、男の長所の一つだと聡子は常々思っている。本人には絶対に言わないけれど。
聡子の都合が悪いとき、男は絶対にそれ以上メールや電話をしようとしてこない。だから、これでおしまいだと思ったのだ。あと一通メールが届くかもしれないが、それは挨拶程度のものだろう。特に返信をする必要はないはずだ。
メールはこれでおしまい。返信はしない。それで何の問題もないはずだった。しかし、鞄の中に入れた瞬間にまるで抗議するかのように震えだした携帯電話に、聡子は嫌な予感を覚えた。再び携帯を取り出すと、背面ディスプレイにはメールのサインが表示されていた。送信者は、言うまでもなくあの男だ。
「全く、何なのよ」
挨拶だったらいいのに、と言いながら携帯を操作し、メールボックスを開く。画面に本文が表示された瞬間、聡子は思わず自分の目を疑った。あれだけの短い時間でよくもここまでと感心するほどゴテゴテと飾り付けられたメールには、かわいらしいペンギンのイラストが配置されていた。手足をバタバタさせているペンギンの横にある吹き出しに、ピンク色の文字で短い文が書いてある。
『俺はヒマ』
大人の男の威厳など微塵も感じさせない、どこの幼稚園児の絵手紙かと思うような装飾と、身勝手な一言に、聡子の携帯を持つ手に力が入った。
「大人の男の余裕は!?思いやりは!?」
まさか、何か悪いものでも食べたのか、などとブツブツと呟く聡子の顔を、隣にいた友人が覗き込んだ。
「何?聡子。さっきから変な声出して」
「なっ、何でもない!」
怪訝そうな顔をする友人に、聡子は慌てて笑顔を作った。とっさに携帯を後ろ手に隠してしまったのは、少し挙動不振だったかもしれない。
「迷惑メール?」
そう問いかけられて、聡子は即座に首を縦に振った。確かに、迷惑メールには違いない。メールでは「ヒマだ」ということだけが主張されていて、特にそれといった用はないようだ。放っておこうと携帯を畳んだとき、再び背面ディスプレイが青く点滅した。ブーンと低く振動するそれを三度開いて操作する。新着メールは、またしてもあの男からのものだった。
『今何してるの?』
「何なのよ、もう」
数合わせのために半ば無理やり引っ張りだされた合コンとはいえ、飲み会の席で携帯電話とにらめっこ……というのはかなり感じが悪い。はっきり言ってマナー違反だ。周囲の視線を気にしつつ、聡子は素早く返事を打った。
『友達と飲んでる』
常に自分勝手で究極の楽天家、傍若無人を絵に描いたようなあの男でも、聡子の友人との用事を邪魔しようということはないはずだ。
……友人ではない人間も若干混じってはいるが、まあ誤差の範囲内だろう。
これでもうメールは来ないはずだ。そう思いながら送信完了の画面を眺めていると、聡子の隣の空席に誰かが腰を下ろした。ビールが半分ほど入ったジョッキが、カタンと音を立ててテーブルの上に置かれる。
「隣、いい?」
「ああ、どうぞ……」
グラスや皿を自分の方へ寄せながら顔を上げると、知らない男性が温和そうな微笑みを浮かべてこちらを見ていた。
会費はタダでいいからとにかく来い、と言われて参加した聡子にとって、この飲み会の目的は素敵な男性との出会いなどではない。そんな非戦闘員に声を掛けて一体どうしようというのか。時間の無駄以外の何者でもないだろう。どうにかしてうまくはぐらかしたいと思いながら、男性とは反対側の隣にいる友人に助けを求めた。けれど、彼女は別の男性とのお喋りに夢中で聡子の方など見向きもしない。
「座ってるだけでいいって言ったのに……」
話しかけられるなんて聞いてない。そう小声で毒づいたのが聞こえたのか、隣に座った男性が声を立てて笑った。
「いいよ、そんなに困らなくても」
俺もどうせ頭数合わせで来てるだけだから、といいながら、男性は聡子に飲み物の品書きを差し出してきた。
「何か飲む?」
なんだ、この人もやる気のない人なんだ。自分と同じ非戦闘要員であるらしい目の前の相手に安心感と親近感を感じながら聡子がメニューを手に取ったとき、膝の上に置いた携帯電話がまたしても震えた。
『飲み会?サークルの?』
『そう』
正確に言えば「サークルの友達が企画した他大の男子との合コン」なのだが、余計なことを言って話をややこしくすることもない。これも誤差の範囲内だ。
送信ボタンを押して携帯を畳み、飲み物を注文する。焼酎のお湯割りを頼むと、男性は少し驚いた顔をしていた。
「小島さん……だよね。俺の名前、覚えてる?」
「あー……っと……すみません、何でしたっけ?」
そういえば自己紹介の時間があったが、あまり真剣に聞いていなかった。目を泳がせながら返事をすると、相手は少し落胆した顔をした。
「俺は古谷健史。経済学部の三年」
「小島です、よろしく」
古谷というより、三谷だわ。真面目そうな眼鏡顔は、最近CMに出ている喜劇脚本家に似ていると思いながら、聡子は頭を下げた。注文したお湯割りを店員から受け取り、ミタニとグラスを合わせたとき、またもや携帯が震えた。
「彼氏?」
「ええ、まあ……」
まったく、ゆっくりお酒も飲めやしない。そう思いながらも携帯を開いてしまうのは惚れた弱みというやつだろうか。
『俺は移動で、ずーーーーっと新幹線の中だよ。ヒーマーだー』
音楽を仕事にしている男は、新曲のキャンペーンで全国各地を回っていた。そういえば、今日は東京に戻ってくる日だって言ってたっけ。
『こっちに戻ってきたらすぐ仕事なんでしょう、大変ね』
だから、車中では眠っておいたほうがいい、という気持ちを込めてメールを送る。けれども、男からの返事はそんな聡子の思いやりなどまるで伝わっていませんと言わんばかりのものだった。
『そうなんだ。だからね、聡子ちゃん。俺を元気づけて』
一体どうやって?『頑張って【ハート】』と絵文字入りのメールでも送ればいいのだろうか。首を傾げた聡子の視線の先で、携帯電話が新着メールを受信した。
『ゲームをしよう(≧∀≦)ゝ』
思い切りはしゃいだ文面に聡子はため息をつき、焼酎お湯割りの入ったぐい飲みを口につけた。テレビの中では澄ました顔して歌っている癖に。メールだけ見たら、まるで小学生と話をしているみたいだ。
『相手からのメールが届いてから一分以内に返信すること!返信できなかったら聡子ちゃんの負けで罰ゲーム(‘ - ^*)』
「しないわよ、そんなゲーム」
大体どうして、自分が負けることになっているのか。聡子の突っ込みを先読みしていたかのように、メールの最後には
『ちなみに、俺は聡子ちゃんからのメールには真っ先に返信するから、俺が負けることはありません☆』
という何とも腹立たしい言葉が添えられていた。
自らを「神の親指の持ち主」と豪語する男は、普段から人並み外れた速さで携帯電話を操作する。けれど聡子だって、メールを打つ速度は決して遅いほうではない。
「やってやろうじゃない」
男が「自分は絶対負けない」と言うのなら、コンマ五秒で返信してぎゃふんと言わせてやろうではないか。この際だから、あの男が答えにくい質問をしてやるというのもいいかもしれない。昔付き合った女の人数とか。
そんなことを考えながら返信ボタンに指を置いたとき、聡子ははっと我に返った。付き合い始めて数年になるこの男は、聡子の性格を知り尽くしている。自分の言動に対する聡子の反応を予測することくらい男にとっては造作もないことなのだ。
「危ない危ない」
こんな挑発に乗って返信したら、また男の思うツボだ。早く気づいて良かったと思いながら、聡子は携帯を畳み、鞄の外側のポケットにしまった。
「いいの?返事打たなくて」
俺なら気にしなくていいよ、と言うミタニに、聡子は笑って首を振った。
「いいんです、そんなに大した用事じゃないし」
聡子はそう言いながら取り皿を片手に、唐揚げの載った大皿に箸を伸ばした。店の自慢の一品だという唐揚げを一口齧ったとき、鞄のポケットが小さく震えた。
どうせまたメールだろう。今度は絶対に見るもんかとばかりに鞄の方は見ないようにして食事を続けたが、携帯電話の振動は、いつまで経っても止む気配がなかった。メールにしてはやけに長い。
「……すみません、ちょっと失礼します」
聡子はミタニに軽く会釈をして、個室の外に出た。できるだけ目立たないように気をつけながら廊下の隅まで小走りで移動し、携帯電話の通話ボタンを押す。
「あ、ごめん。もしかして食事中?」
「もしかしなくても食事中」
最初にそう送ったじゃない、と不機嫌さ隠そうともせずに言った聡子に、男は電話機の向こうで軽い笑い声を立てた。
「そういえばそうだったね。ところで聡子ちゃん、もう一分経ったよ?」
おどけた声で、もうギブアップ?などと言っている。あのばかげたゲームの話だ。
「残念でした。そんなゲームやってる暇ないの」
そのまま電話を切ろうとすると、男の笑い混じりの声がした。
「そんなこと言っちゃっていいの?」
含みのある声。これは、何かを企んでいるときの声だ。聞いてはいけないと分かっているのに、耳から電話機を放すことができない。
「三十秒以内に返せなかったら罰ゲーム。俺が聡子ちゃんに電話をかけます」
しかも、テレビ電話。
そういえばそんな機能もあったなあと考えながら、聡子はほっと安堵のため息をついた。テレビ電話なんて、出なければいいだけのことだ。
「電話に出なかった場合……」
男はなおも電話の向こうで話し続ける。聡子の考えていることなど、全てお見通しだとでも言うように。
「伝言メモに大声でメッセージを吹き込むよ。聡子ちゃんの秘密とか」
話されて困るようなことなんてあったっけ、ぼんやり考えた聡子の耳に、男の囁き声が届いた。
「例えば、聡子ちゃんの右の肩甲骨の……」
「ストップ」
何を言い出すかと思えばそっちか。側を通っていた別の客が振り返るほどの大声で叫んだあとで、聡子は慌てて口を押さえた。
「伝言メモって、声量によっては音が外に駄々漏れなんだよねー。俺、結構地声大きいから、周りに聞こえちゃうかも」
男の言葉に、聡子は個室の方を振り返った。二十人余りの人間が好き勝手に話している個室の中は騒がしく、たとえ男が電話越しに力いっぱい叫んだとしても、全員の耳に届くことはないだろう。けれど、近くにいる何人かには確実に聞かれてしまうはずだ。
それに、現在移動中だという男の周りにも人が大勢いるだろう。男が喋ったことは、彼らにも筒抜けになってしまう。男の仲間の一人の、嫌味そうな目をした男の顔を思い出して、聡子は身震いをした。あいつにだけは、絶対に聞かれたくない。
「鬼、悪魔」
「うーん、近いけどハズレ」
俺は恐怖の大魔王でーす、と言う男の陽気な声に、聡子はがっくりと肩を落とした。前から変なやつだとは思っていたが、今日の男はいつにもましておかしい。やっぱり、旅先で変なものでも食べたり飲んだりしたのだろうか。
「で、どうする?」
ここでギブアップ?俺、テレビ電話掛けてもいい?
低い囁き声で、男が問いかける。頭がくらくらしそうなほどの、甘く心地よい響きに聡子は顔をしかめた。聡子がこの声に弱いというのを、男は知っているに違いない。自分ばかり男にいいように振り回されているのが悔しくて、聡子は大きく息を吸った。
「……わかったわよ」
悪ふざけも策略も、いつも男の方が一枚上手。どこまでも奔放に振舞う男とそれに翻弄される聡子という構図は、出会った頃から変わらない。ならば、自分から男の企みに飛び込んで主導権を奪う機会を待ってみるのもいいだろう。
絶対に負けない、と心に誓って、聡子は携帯電話を畳んだ。
一分間で返事を書くというのは、やってみると非常に大変だった。何しろ、相手からきたメールを読んで、それに応えたメールを打たなくてはいけないのだ。メールを読む時間も一分のうちに入るから、文面を考える時間は長くて四十秒ほどしかないことになる。作り置きをしておこうにも、男からのメールには少なくとも一つは聡子への質問が書かれているので、必ず送信前に文面を修正しなければいけないことになる。
休むことなく繰り返さなければならない作業のあまりの忙しさに、聡子は最初の数通で、こんな下らないゲームに乗ったことを後悔していた。
『今何食べてるの?』
『山芋鉄板。山田は?』
『さっき幕の内食べたよ。飲み物は何飲んでる?』
短いメールのやり取りの合間を縫って食事をし、目の前にいるミタニと喋る。ああ、本当に忙しい。しなければいけないことが多すぎて、頭の中が混乱しそうだ。無意識のうちにぐい飲みの中に突っ込みかけた割り箸を、聡子は慌てて引っ込めた。まずい、少し酔っているのかもしれない。
聡子の切羽詰った状況を知ってか知らずか、ミタニは席を移動しようとはしなかった。時折ビールジョッキを傾けながら、のんびりとした口調で話しかけてくる。
「小島さんは何県出身?」
「焼酎お湯割り!」
勢いよく口に出したあとで、聡子はがばりと顔を上げた。しまった、これはメールの返信の内容だった。
「……何でもないです、すみません。で、何の話でしたっけ?」
「ああ……いや、出身はどこかなあって」
答えようとした瞬間、まるで聡子が口を開きかけるのを待っていたかのような見事なタイミングで携帯電話が振動した。
ごめん、ミタニ。聡子は心の中で謝りながら、携帯電話のメールボックスを開いた。
飲み会は開始から二時間後、ほぼ予定通りの時間にお開きとなった。
聡子は男へのメールを送信すると、首に巻いたマフラーを直した。久しぶりに飲んだ酒で火照った頬に、冷たい夜風が心地よい。
「みんな二次会行くって言ってるけど、小島さんはどうする?行かない?」
カラオケだボーリングだと盛り上がる一段を目線で示しながらのミタニの誘いに、聡子は首を横に振った。二時間の間続けられた男とのメールのやり取りで、頭も指も疲れきっていた。一刻も早く、家に帰って休みたい。
「あー……、私はいいです」
やらなきゃいけない課題があるから、と断ると、ミタニは一瞬残念そうな顔をしたがすぐに笑顔に戻って言った。
「じゃあ、俺もいいや。家まで送ってくよ」
善意の塊のような顔と口調で言われて、聡子は戸惑いの笑みを浮かべた。特に送ってもらう義理も必要もないが、断る理由も見つからない。
さて、どうやって断ろうかと視線を宙に彷徨わせたとき、聡子は一瞬息を止めた。そのままある一点から目を離すことができなくなる。
聡子の視線の先には黒いコートを着た男の姿。たった今メールを送ったばかりの相手が、満面の笑みを浮かべてこっちにおいでと言わんばかりに手招きをしていた。
地方での仕事が思いのほか早く終わり、予定よりも早い時間の新幹線に乗ることができた慎二は、家に帰る途中の道で聡子の姿を見つけ、慌ててタクシーを降りた。
彼自身も何度か行ったことのある居酒屋の、入り口近くに立っていた聡子は友人らしき学生たちと一緒だった。男女比が同じくらいのように見えるのが妙に引っかかる。
近くにいることを知らせようと街路樹の陰で携帯電話を開いたとき、眼鏡をかけた男子学生が聡子に話しかけているのが見えた。遠めにも馴れ馴れしいその横顔にむっとして、慎二が足を一歩前に踏み出したとき、聡子がこちらを振り向いた。
目が合った、と思うより先に作った笑顔は慎二の意地と見栄の賜物だ。名前も知らない大学生相手に嫉妬したなんて、彼女には絶対に知られたくない。
おいでおいでと手招きをすると、聡子の表情はみるみるうちに驚きの色を帯びる。慎二の姿を見つけてからの聡子の行動は実に素早かった。眼鏡顔の男子学生や幹事らしき女子学生への挨拶もそこそこに慎二の元へ一直線にやってくると、彼の腕を掴むや否やその場離れるべく歩き出す。まるで競歩選手のような勢いで黙々と歩く聡子の、慌てたような怒ったような顔を見下ろして、慎二は思わず口元を緩めた。
「どうしてあんなところにいたの?」
居酒屋から離れてしばらく歩いた頃、聡子はようやく慎二の腕を開放した。聡子には真夜中にこちらに到着するという当初の予定を伝えてあったから、あの場に慎二が現れたことが不思議で仕方ないのだろう。慎二はコートの袖に付いた皺を伸ばしながら言った。
「仕事が予定よりも早く終わったんだ。聡子ちゃんの顔を見たいなと思っていたけど、まさかあんなところで会えるとは思わなかったよ」
これってやっぱり愛の力?と小首をかしげて微笑むと、聡子は彼の視線から逃れようとするかのように顔を背けた。街灯に照らされたその横顔はほんのりと赤い。半月前にパーマをかけたのだというセミロングの髪を指で弄びながら、慎二は聡子ちゃん、と呼び掛けた。
「一つ聞いておきたいことがあるんだけど」
「何?」
首を傾げる聡子をちらりと見て慎二は軽く咳払いをした。焼きもち焼きのバカな男とは思われたくないが、これだけはどうしても確認しておかなければ。
「ねえ聡子ちゃん、あれ、合コンだよね?」
穏やかな声で問いかける慎二の笑顔に、聡子は一瞬固まった。
「違うけど」
「合コンだよね」
断定するように言うと、聡子は視線を僅かに泳がせた。何もないとは信じているが、こうも挙動不審な態度を取られると少しだけ不安になってしまう。
「……ほとんどただの飲み会よ。今日になって一人欠席の子が出て、代わりに連れて来られただけ」
同じく人数合わせで来てた男の子と話はしたけど、それだけよ。
聡子の言葉を吟味するかのように、慎二は目線を上に向けた。
「それって、あの眼鏡の?」
「そう、飛行機のCMに出てくる人に似てない?」
そういえば名前何だったっけ、と考え込む聡子を見下ろして、慎二は片手で顔を覆った。聡子はああ言ってはいたが、恐らくはあの男子学生は「人数合わせの非戦闘要員」などではなかったのだろう。気の毒だと思う反面、顔がにやけてしまうのを押さえることができない。名前も覚えられていなかったくらいだから、あの男子学生は飲み会の始めから最後まで、聡子の眼中には全く入っていなかったに違いない。
声を掛けた相手が悪かったね。彼女はそう簡単には落ちないよ。
何たって、俺がいるんだから。
「かわいそうに……」
「え?何?」
見上げる聡子に何でもないよ、と微笑んで、慎二は聡子の肩に手を回した。そのまま彼女の体を引き寄せて、歌うように言う。
「聡子ちゃん、今から俺と合コンしようか」
「たった二人で?」
何でそんな意味のないことを、という聡子の声は聞こえない振りをして、慎二は夜空を仰いだ。街灯やビルの明かりに彩られた都会の夜空はぼんやりと明るく、星は見えない。
「お互いに自己紹介して、ゲームして、食事して、酒飲んで」
慎二は身を屈めると、聡子の耳元で楽しそうに囁いた。
「で、最後は俺が聡子ちゃんをお持ち帰り」
「却下!!!」
鼻歌交じりの言葉に、聡子は慌てて慎二の腕を振り解いた。荒々しい足音を響かせながら、慎二よりも数歩前に出る。
「えー、それが合コンの醍醐味なのに」
「何それ、意味わかんない!あんた一体、どんな生活してたのよ!」
「……まあ、それはそれとして」
図らずも掘ってしまった墓穴を無理やり埋めながら、慎二は聡子に追いつくべく歩幅を広げた。跳ぶように数歩歩いて聡子の隣に立つと、にやりと笑って彼女を見下ろす。
「あれ?聡子ちゃん。もしかして、照れてる?」
下から覗き込むようにして近づくと、聡子は両手で顔を覆いながら顔を背けた。
「そんなことない!」
「照れてる。顔が真っ赤だよ」
逃げられないように肩を抱こうとする慎二の腕から逃げようと、聡子は顔を必死で身をよじる。その慌てた仕草に、慎二は思わず吹き出した。
「そんなに恥ずかしがらなくていいのに。だってあれだけ……」
「きゃーーーーー、やめて言わないで!!言いたいことは分かったから!」
何でここでそんなこと言おうとするわけ?信じられない!
両手で耳を塞いで怒る聡子を宥めるように、慎二は彼女の肩に両手を下ろした。そのまま聡子に覆いかぶさるようにして歩き出す。
「ちょっと!離れてよ!重い!人が見る!」
「誰もいないよ。見ても絶対に分かんないって」
上機嫌で言いながら、街灯の白い明かりの下を体を左右に揺らして歩く。
ああ、全く愉快だ。くるくるとよく変わる表情も、真っ赤な耳も、怒ったような声も。彼女は全く、見ていて飽きることがない。
彼女と過ごす時間の中に、「退屈」という言葉は存在しないんじゃないだろうか。
心地よい温もりを抱きしめる慎二の頭上で、夜は静かに更けていった。
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