不意に頬に感じたひんやりとした風に、聡子は窓の外を見た。先ほどまで赤とオレンジのグラデーションが広がっていた空は、今はすっかり群青色に染まっている。少し前までは、この時間帯はまだ明るかったはずなのに、九月になってからというもの、暗くなるのがどんどん早くなっていっている気がする。秋の日はつるべ落とし、とはよく言ったものだ。実際につるべが落ちるところなんて、見たことはないけれど。
夏の名残のように窓辺にぽつんと吊るされた風鈴が、時折澄んだ音を立てる。夕闇の中で響くちりん、という季節外れに涼やかな音はなぜか妙に物寂しくて、聡子は思わず溜息をついた。今年の夏も終わってしまった、と一人感傷に浸っていると、隣からからかい混じりの声が飛んできた。
「聡子ちゃん、グラス空いてるよ」
ビールでいいよね?という言葉に、聡子は手元のグラスを勢いよく突き出した。銀色の缶を傾ける慎二の顔を挑むように見上げて、注がれたビールに口を付ける。
今年の夏は暑く、そして長かった。九月になっても猛暑の日が続いたのだからたまらない。彼岸を過ぎてから幾分涼しくなってはきたが、まだまだ昼間は汗ばむほどの暑さで、よく冷えたビールは美味しく感じられた。テーブルの上にあるのが塩辛い乾き物ばかりならばなおさらだ。
聡子は喉を鳴らしてビールを飲み干すと、面白そうにこちらを見下ろす慎二に向かって不適な笑みを浮べて言った。
「山田こそ、まだまだ飲み足りないんじゃない?」
この程度の飲みで自分に勝てると思ったら大間違いだ。
いつまでも子どもだと思わないで、と聡子は心の中で呟いた。
聡子と慎二が飲み比べなどというばかげた競争をすることになる数時間前、彼らは、慎二の所属するバンドのメンバーの一人、瑛太の家にいた。三ヵ月に渡って続いたライブツアーが終わり、つかの間の休暇に入った週末に、慎二たちバンドのメンバーとその近しい友人たちとで宴会が開かれたのだ。
慎二の声の恩人であり年の離れた恋人、という触れ込みで慎二の仲間の間ではちょっとした有名人である聡子も招かれ、慎二の仲間やその恋人、友人たちと楽しい時間を過ごす……はずだった。
けれど
「俺が飲むよ。聡子ちゃんにはあんまりお酒は飲ませないで」
酒がグラスに注がれるたびに慎二に横取りされて大好きな焼酎も飲ませてもらえず
「それはまだ焼けてないよ。こっちがちょうどいいからこっちを食べなよ」
「野菜もちゃんと食べようね」
食べるものに口を出され
「あーっっっ、そういう話は聡子ちゃんは聞かなくていい!」
話の最中に突然耳を塞がれて会話から締め出された挙句
「もう五時だ。聡子ちゃん、送ってあげるから帰ろう」
と、強制退場させられたのだ。
おまけに、慎二が絶えず聡子に話しかけていたせいで、宴会が始まってから帰るまでの三時間半、聡子はほとんど慎二以外の人間と話すことができなかった。瑛太や武人に、自分の知らない慎二の話を聞いたり、彼らの恋人と話をするのを楽しみにしていた聡子の不満は、帰りのタクシーの中で爆発した。
「もっとみんなと話したかったのに!邪魔ばかりしてそんなに楽しい?」
陽平の恋人は聡子と同じ一般人で、元は高校の同級生なのだと言っていた。普段、友達には話すことのできない、有名人と付き合うことの悩みや心得について、話を聞きたいと思っていたのに、慎二のせいで台無しだ。
「何で耳を塞いだりしたわけ!?お陰で何話してるか全然分からなくなったじゃない!」
聡子が詰め寄ると、慎二は気まずそうに視線を明後日の方向に向けた。
「いや……あれは、ホラ、聡子ちゃんには教育上よろしくないと思ってさあ」
何かあったら、ご両親に顔向けできないじゃないか。酒のことにしろ、帰宅時間のことにしろ。
慎二の取ってつけたような言葉は、聡子の怒りのスイッチを本格的に押してしまったらしい。ますます激昂した聡子は、キッと顔を上げると更に声を張り上げた。
「何それ?あんた私の保護者のつもり?いい加減にしてよ!」
普段はそんなこと気にも留めてないとばかりに、親に顔向けできないようなことばかりしてくるくせに、こんなときだけ良識ある大人の顔をするなんてずるい。
「私、もうすぐ二十一よ?都合のいいときだけ子ども扱いしないで。山田に心配されなくたって、お酒くらいちゃんと飲める!」
ありったけの憤りを込めてそう言うと、聡子は慎二の鼻先に人差し指を突きつけた。
「その気になればあんたよりたくさん飲めるんだから!勝負よ、山田!」
妙な展開になった、と思いながら、慎二は冷凍庫の扉を開けた。グラスに氷を入れると、酒で火照った額に当てる。
「こりゃ少し飲み過ぎたかな……」
ポテトチップスの袋やビールの空き缶が転がる居間の方を振り返って、慎二は髪をくしゃりとかきあげると小声でぼやいた。
瑛太の家でのことは、確かに自分が悪かったと思う。聡子のことが心配だからだ、と偉そうなことを言ったが、実際にあの場で聡子に張り付いていた時に慎二の頭の中にあったのは、子どもじみた独占欲だった。
そもそも、慎二は聡子をあの宴会に連れて行くことに乗り気ではなかった。昔からの友人も多く集まる会だから、きっと慎二の女性遍歴も聡子の耳に入るだろう。今の恋人の前で昔付き合った女の話を面白おかしく語られるなんて冗談じゃない。
聡子と出会う前の自分がどこで何をしていたか、彼女に聞かれたくなくて、話題が自分のことに及ぶと思わず聡子の耳を塞いでしまった。それが聡子にはひどく不満だったようだけれど、仕方がない。彼女の前では、なるべく格好よく誠実な好青年でいたいのだ。
酒を飲ませなかったのは、酔った聡子を他の人間に見せたくなかったから。始終話しかけていたのは、もっと自分に構って欲しかったから。
知り合い全員に聡子を紹介して見せびらかしたい気持ちも確かにあるけれど、本当の本当は誰の目にも触れさせたくない、自分一人だけを見ていて欲しい。そんなことは不可能だと分かってはいるけれど、願ってしまう自分はばかだ。
「……あー、かっこ悪」
こんな子どもっぽい自分は、聡子には絶対に知られたくないと思いながら、慎二は居間に戻った。
氷を入れてくる、と言って立ち上がった慎二の背中が不意にかすんで、聡子は軽く頭を振った。グラスの底に残った焼酎のお湯割りはすっかり温くなっていた。口に含むと僅かなえぐみが口の中に広がる。
「……あー」
体がふわふわする。ぬるま湯に浸かっているような、雲の中を漂っているような心地よい、けれども心もとない感覚。
「何杯飲んだっけ……」
慎二と二人で五百ミリリットル入りのビール缶を三本空けて、焼酎に移って、途中少し日本酒も飲んで……。最近聡子が気に入っているトマト味のカクテルの空き缶も目の前に転がっているのだが、いつ飲んだのか全く記憶がない。
ああ、私、酔っ払っている、と聡子はふやけた頭でぼんやりと考えた。こんなんじゃあ山田に勝てやしない。……勝つ?何に?そもそもどうしてこんなに意地になって酒を飲んでいたんだっけ?
聡子は、思うように力の入らない身体を持て余すように頭を垂れた。少しだけ首を前に倒しただけのつもりなのに、身体全体が勢いよく前に倒れていく。もう少しでテーブルに頭がぶつかるというところで、力強い腕に抱きとめられた。
「危ない。聡子ちゃん、もうやめとこう」
耳元で聞こえる声。困ったような、聞き分けのない子どもをなだめるような響きが無性に気に障る。
身体を支える腕を、悪態をつきながら振り解こうとしたとき、聡子の意識は一瞬途切れた。
「うるさい、ばかに……」
と言ったきり、ぐったりとして動かなくなってしまった聡子の顔を、慎二は慌てて覗き込んだ。
「……聡子ちゃん!…………って、寝てる?」
てっきり気分でも悪くなったのかと思ったが、腕の中の聡子は気持ち良さそうに寝息を立てている。慎二は安堵と困惑の入り混じった溜息をついた。
自分に対抗して必死になって杯を空ける姿が面白くて可愛くて、次から次へと酒を勧めてしまったが、どうやら少し……いや、かなり飲ませすぎてしまったらしい。保護者気取りが聞いて呆れる。
「何やってんだ、俺。……にしても、随分飲んだなあ」
テーブルや床の上に散乱する空き瓶や空き缶を見て、慎二は呟いた。よくもまあ、これだけの量をたった二人で飲んだものだ。仲間内の飲み会でも最後まで潰れずに飲んでいることの多い慎二は、自分のことを酒が強い方だと思っていたが、その彼と飲み比べのためとはいえほとんど同じペースで飲んできた聡子も相当な酒豪だ。
明日の朝、彼女が二日酔いに苦しまないことを祈りながら、慎二は聡子の膝の裏に手を差し入れた。
「ほら、聡子ちゃん。寝るならベッドで寝よう」
明日ちゃんと送っていくから泊まっていきな、と言いながら、ふにゃりと力の抜けた身体を抱え上げると、聡子はむずがるように身じろぎをした。
「山田ぁ」
不機嫌そうな、けれども甘えるような声で慎二を呼び、肩口に額を擦り付ける。普段ならばありえない聡子の様子に、こりゃあ相当酔っているな、と慎二は苦笑した。
慎二は聡子の背中をあやすように軽く叩きながら寝室に入ると、ベッドの上に聡子を下ろした。
「おやすみ、気分が悪くなったら言うんだよ」
そう言いながら慎二が身体を離そうとしたとき、首に回されていた聡子の腕に、急に力が入った。
「やだ」
「わっ?」
突然のことにバランスを崩した慎二は、聡子に覆いかぶさるようにベッドの上に倒れこむ。慌ててマットレスの上に両手をつくと、こちらをじっと見つめる聡子と目が合った。怒るでもなく、笑うでもなく、ただ静かに慎二を見る聡子の表情には、どこか切迫したものがあった。酒のせいか、いつになく潤んだその瞳に、慎二の呼吸は一瞬止まる。
「……聡子ちゃん?」
「どこ行くの?」
行っちゃやだ、と言いながら、聡子は慎二の首を更に引き寄せようとした。
「ちょっと、聡子ちゃん……」
居間を片付けに行くだけだから、と言っても聡子は慎二の首に回した腕を解こうとはしなかった。幼い子どもがだだをこねるようにかぶりを振って、慎二にすがりつく。
「嫌だ、ここにいて」
「えっ?……いや、でも……」
首筋に感じる二の腕の柔らかな感触と、慎二よりも少しだけ高い体温。透かし編みのカーディガンの襟元から覗く華奢な鎖骨に思わず手を伸ばしそうになる。真っ白な首筋からやっとのことで目を逸らした慎二の瞳を半ば無理やりに覗き込んで、聡子は言った。
「ねえ、山田……一緒に寝よう?」
素面の状態の聡子ならば口が裂けても言わないであろうこの一言は、ぎりぎりのところで保たれていた慎二の理性を崩すのに十分すぎるほどの威力を持っていた。
「…………っ」
いつもは慎二が迫っても消極的な態度しか見せない聡子が、自分からこんなことを言うなんて。酔った相手をどうこうするのは感心できることではないが、この際見逃してもらおう。酔った勢いだろうが、酒の席での過ちだろうが何でもいい、今を逃せばこんな機会、もう二度とやってこないかもしれないのだから。
「聡子ちゃん」
慎二は見えない何かに突き動かされるように、聡子の背中に腕を回してその身体を思いきり抱きしめた。いつもならばじたばたともがくはずの聡子は、今日は何の抵抗もせずに慎二の腕の中に納まった。引き寄せた力が強すぎたのか、反動で聡子の首がこてんと後ろに仰け反る。
「…………え?」
余りに勢いよく首を反らせた聡子に驚いた慎二が身体を離すと、先ほどまで慎二の首に回されていた二本の白い腕が力なくマットレスの上に落ちた。聡子を再びベッドの上に寝かせ、顔を覗き込んだ慎二が見たのは…………すうすうと規則正しい寝息を立てる聡子の寝顔だった。
「まさか……寝オチ?」
やられた……と、慎二はがっくりと肩を落とすとマットレスの上に突っ伏した。
「くそう、そんなのありかよ」
こんな所で止められるなんて生殺しもいいところだ。
慎二は大きな溜息をつきながらのろのろと立ち上がった。居間に戻ろうと踵を返した彼の服の端を、聡子の手が掴む。
「山田ぁ」
一体どんな夢を見ているのだろうか、寝言で自分を呼びながら服の端を掴む聡子の手を、慎二は両手で包み込んだ。
「心配しなくても、俺はここにいるよ……それにしても」
きっついよなあ。
肺の中の空気を全て出し切るほどの長い溜息をついた後で、慎二は再び聡子の枕元に腰を下ろした。額に落ちた髪を払ってやると、くすぐったそうな笑みを浮べる聡子は、何て可愛くて無邪気で……凶悪なのだろう。けれど、好きなのだから仕方がない。
カーテンの隙間から差し込む月明かりの下、慎二は、幸せそうに眠る聡子を見守りながら、こみ上げてくる涙をシーツでそっと拭うのだった。
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