聡子は怒っていた。もともと、慎二といるときには怒るか怒鳴るかしていることの多い彼女だが、その日は特別に怒っていた。
「もう!何だってあんなところで大声で呼ぶのよ!」
怒りの原因は、今から一時間ほど前に起こった出来事だ。講義を終えた聡子は大学から一駅ほど離れた場所にある寮に戻ろうと駅へ向かう途中、道の真ん中で呼び止められた。その場を歩いていた人全員が振り返るほどの大声を張り上げて聡子の名前を連呼していたのは、倉田慎二。彼女にとって最近は親よりも大切になりつつある人物だ。
満面の笑顔でぶんぶんと手を振る慎二の姿を見止めたとき、聡子の顔から血の気が引いた。頭の血が一気に足のほうに下りていく音が聞こえたような気さえしたものだ。
「何でって……そこに聡子ちゃんがいたから?」
全く悪びれる様子も見せずにあたりまえじゃん、と言った慎二に、聡子の苛立ちはますます加速する。
「当たり前なんかじゃないっ!!周り見てみなさいよ!誰も知り合い見つけたからって半径五十メートル範囲内にいる人立ち止まらせるほどの大声で叫んでなんかないでしょうが!」
百歩譲ってそんな人間がいたとしても、普通の人間ならば「やあね、あの人ちょっと変」と笑われるくらいで済む。けれど、慎二は全国的に有名なロックバンドのボーカリストなのだ。映像での露出はそれほど多くないとはいえ、彼の風貌を知っている人間がその場に一人もいないという保障はどこにもない。
誰かに気づかれたらどうするつもりだったのか、という聡子の問いに、慎二は極上の笑顔を浮かべて即答した。
「んー、とりあえず、記者会見?聡子ちゃん、左手の見せ方練習しといてね」
「何の会見するつもりよ!!」
ふざけるのもいい加減にして、と聡子は手に持っていたトートバッグを慎二に向かって投げつけた。慎二の肩に当たったそれは、逆さまになって床に落ちた。講義で配られたプリントがクリアファイルから飛び出して黒いラグの上に散らばる。
「痛っ」
抗議の声を上げる慎二の方は見ないようにして、聡子はごめんとぼそりと呟いた。プリントを拾い集めようと、身を屈める。
「ごめん、山田。でも本当に、人のいるところではもう少し行動に気をつけて」
慎二に悪気があったわけではないのに、少し怒りすぎただろうかと聡子の胸を罪悪感がよぎる。これ以上ひどいことを言ってしまわないうちに帰ろうと思いながらプリントに手を伸ばしたとき、慎二が言った。
「ごめんね、聡子ちゃん。そんなに気にしてるとは思わなかった」
慎二は床に散らばったプリントを手早く拾い集めて聡子に差し出した。
「仲間や事務所のスタッフからも、自覚が足りないってよく言われるんだ。もう少し静かにするように気をつけるよ」
俺が騒いだせいで聡子ちゃんにテレビカメラが殺到したらかわいそうだもんね。
いつもと同じ、聡子を甘やかすような穏やかで低い声。大きな手にそっと髪を撫でられて、聡子は僅かに俯いた。普段はまるで小学生のような言動で聡子を呆れさせる慎二だが、聡子の言い分を軽んじたことはこれまで一度もなかった。ごめん、と謝るときの顔はまるで分別のある大人のようで、聡子はいつも少しだけ悔しくなる。間違ったことを主張しているつもりはないのに、怒っている自分の方が子どもであるような気がしてしまうのだ。
「じゃあ」
慎二の言葉にあっさり頷いてしまいたくなくて、聡子は言った。ふてくされたような声は意地を張っているしるしだ。
「今から練習してみてよ。私も付き合うから」
今から二時間、声を出して喋らないこと。もしも声を出してしまったら、相手の言うことを何でも一つ聞くこと。
聡子が提案した「練習」はひどく簡単なもので、慎二はなんだそんなことかと心の中で呟いた。一体どんなスパルタトレーニングをやらされるかと思ったが、それなら楽勝だ。
「いいよ。でも」
余裕たっぷりの笑みを浮かべて、慎二は床の上に膝をついた。聡子の顔を下から覗き込むようにして視線を合わせる。
「俺が勝ったら、本当に何でも言うこと聞いてもらうからね」
一見しっかり者のように見える彼女だが、実は恐ろしく詰めが甘いということは、出会ったときから知っている。今回もきっと、ふとした拍子に声を出してしまうだろう。自分はそれを聞き逃さないようにすればいいだけだ。
二時間なんて、あっという間だ。
勝ったら何をしてもらおうか……などという良からぬ考えに締まりなく下がった口元を、慎二は慌てて持ち上げた。
二時間黙っているだけでいいなんて、楽勝だと思っていた。「練習」終了後に相手を思うようにしているのは自分だと根拠のない自信を持っていた。けれどそれは、最初の十分が過ぎるまでの話だ。
「………………」
口を閉ざし始めてから三十分後、慎二は大きなため息と共に肩を落とした。さっきから一体何度時計を確認しただろう、一向に動かない長針を恨みがましい目で見上げる。話し好きで快活な性格の慎二は、仕事や移動の最中にも絶えず誰かと喋っている。時には独り言を言うこともあるため、眠っているとき以外は常に口を動かしていると言っても過言ではない。そんな彼にとって、二時間一言も喋らないというのは思った以上に苦しいことだった。慣れない沈黙が、肩に重くのしかかってくる。隣にいる聡子の方を振り向くと、床に座った彼女はソファに背を預け平気な顔をして持参したらしい文庫本を読んでいた。
「……………………」
一体何を読んでいるのだろう。恋愛小説?推理小説?少し前に話していた、コミカルな作風が面白いというあの作家の本かもしれない。真剣な目で活字を追う彼女の横顔を、慎二は密かに観察する。いつだったか広いのが嫌だと言っていた額、くっきりとした眉毛。小さめの鼻は横から見るととてもきれいなカーブを描いていて、いい形だと慎二は思った。そんなマニアックな部位が好きだなんて、聡子に知られたら一週間くらい口を聞いてもらえなくなりそうだ、と想像して声を出さずに笑う。白い頬に目を落としてすべすべとした感触を思い出す。鎖骨の辺りに掛かった、生まれてから今まで一度も染めたことがないという真っ黒な髪。つやつやとして柔らかそうなそれを触ろうと手を伸ばしたとき、文庫から顔を上げた聡子と目が合った。
「……………………………………」
アーモンド型の瞳にいぶかしげに見つめられて、慎二はぎくしゃくと微笑んだ。中途半端な位置で止まった手を、慌てて左右に振る。目の前で無意味に手を振られた聡子は、しばらく困惑の表情を浮かべていたが、やがて首を傾げながら文庫本に視線を戻した。聡子の関心が自分から逸れた瞬間、慎二は肺の空気を全て出し切るような大きなため息をついてその場に崩れ落ちた。
自分はただ見ていただけだ。それなのに、この気まずさは何だろう。
早く時間が過ぎて欲しい。懇願するのにも似た気持ちで壁に掛かった時計を見上げた慎二は、残された時間のあまりの長さに再びがっくりと項垂れたのだった。
彼女といるとき、いつも時間が飛ぶように過ぎると感じていた。けれど、一言も喋らないで過ごす二時間はとてつもなく長い。
慎二はソファの上で膝を抱え、何十回目かの溜息をついた。とにかく暇だ。話してはいけないと言われると話したくて仕方がなくなるのはなぜだろう。
CDをかければ一緒に歌いだしそうになるし、テレビを点ければ放送されている内容について聡子に話しかけそうになってしまう。水でも飲もうと冷蔵庫を開けたとき、中に入っている食料品の名前を一つ一つ口に出しそうになっている自分に気が付いて、慎二は本気で落ち込んだ。自分では特に意識してはいなかったが、ここまでお喋りだったとは。
慎二はミネラルウォーターのペットボトルを片手にソファの上に戻り、コンパクトに折りたたんだ脚の間に顔を埋めた。とくとくと波打つ鼓動に耳を澄まして、時間が過ぎるのをひたすら待つ。
そのままじっと動かないでいると、不意に身体の右側が暖かくなった。慎二が顔を上げると、聡子のアップが目に飛び込んできた。どうやら、うずくまったきり動かない慎二を心配したらしい。
彼に寄りそう聡子の顔は、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。首を傾げて顔を覗き込んでくる聡子に、軽く首を振って笑いかける。大丈夫だよと言うように。それでも、いつものような満面の笑みではなかったからだろうか、聡子の眉尻が更に下がった。うっすらとグロスを刷いた唇が小さく動いた。
『ごめんなさい』
もういいよ、やめよう、という唇の動きだけでなされた提案に思わず全身で頷きそうになったのを、慎二は寸でのところで踏みとどまった。
勝てば聡子が何でも言うことを聞いてくれるという最初に決めた「ごほうび」を諦めるのが惜しかったのだ。出会った頃よりも随分素直になっているとはいえ、変なところで意地を張る彼女が慎二の要求をおとなしく叶えてくれるなど、滅多にないことなのだ。このチャンスをみすみす逃すほど、慎二は馬鹿ではない。
勝負には勝ちたい。けれど、これ以上黙っていたくない。そう心の中で呟いた慎二は、あることに気づき、にやりと口の端を吊り上げた。
啼かぬなら啼かせてみせようホトトギス、だ。
持っていた文庫本を畳んで顔を上げた途端、ソファの端で蹲る慎二の姿が目に飛び込んできて、聡子は驚いた。顔は伏せているためどんな表情をしているのかは分からないが、恐らく精神的に参っているのだろう。しょんぼりと丸まった背中に、聡子の胸がずきりと痛む。賑やかなことが大好きな慎二にとって、この時間はきっととても辛いに違いない。
慎二はいつも、言葉や身振りを総動員して、一生懸命に聡子に気持ちを伝えようとしてくれている。会える時間が少ないんだから、伝えることをサボるのは良くないというのが彼の持論だ。
まるで宝物か何かのように彼女の名を呼ぶ彼の甘く優しい声を思い出して、聡子はソファに腰掛けた。自分が変な意地を張ったせいで、慎二に辛い思いをさせてしまった。慎二の腕に手を置いて、ごめんと声には出さずに呟く。こちらを振り向いた慎二の目を見てもう一度。
『ごめんなさい、もうやめよう?』
唇の動きだけで紡いだ言葉は、果たして伝わったのか。先ほどの落ち込みようはどこにいったのか、にやりと笑った慎二に疑問を感じた次の瞬間、聡子の視界はぐるりと大きく回転した。
聡子が声を漏らすのを、二時間おとなしく待っている必要はない。無理やりでも何でもいい、彼女に声を出させればいいのだ。
慎二は聡子の両腕を掴むと、そのまま彼女ごとソファの上へ倒れこんだ。聡子が事態を把握するよりも早くその華奢な身体を抱きこんで逃げられないようにしながら、慎二は彼女の耳たぶに歯を当てた。
「…………!」
慎二もつい最近知ったことだが、聡子は耳が弱い。辛うじて声を出すのはこらえたようだが、これはかなり効いたはずだ。
慎二はびくりと震えて背中を反らした聡子の顔を流し見ながら、先ほど触れたくてたまらなかった髪に手を伸ばした。つやつやとした感触を楽しんでいると、頬を真っ赤に染めた聡子がこちらを睨んできた。懸命に抗議の意を示しているつもりなのだろうが、はいそうですかとやめるつもりは今の慎二には小指の爪の先ほどもない。
涙の浮かんだ目尻に唇を落とすと、慎二は右手を聡子の頬に這わせた。瞳の奥を覗き込むようにして視線を合わせ、頬を二、三度ゆっくりと撫でる。頬の次は首筋を、その次は左右の鎖骨を、「小島聡子」を構成するもの一つ一つを確かめるように辿っていく。
右肘の骨の周りに指先で軽く円を描きながら、慎二は聡子の様子を窺った。額を慎二の肩口に押し付けているせいで表情はよく分からないが、必死で声を殺しているらしい。無理をしなくてもいいのに、と心の中で呟きながら、慎二は聡子の白いブラウスの裾に手を伸ばした。レースや刺繍が施された柔らかなコットン地の裾から差し入れた手をゆっくりと動かして、聡子のウエストの一番細い箇所に触れる。
「やっ…………」
指先が肌に当たるか当たらないかというところで、聡子が短い悲鳴と共に激しく身をよじった。その瞬間、慎二は笑みを深くする。
「言ったね?」
してやったりという顔でそう言いながら、慎二は聡子を抱きしめた。
「『やっ…………』って言ったね?声出して喋ったね?」
念を押すように聡子の顔を覗き込むと、彼女はその迫力に気おされたのかおずおずと頷いた。それを見て、慎二は満足そうに頷く。
「俺の勝ち」
誇らしげな慎二の声に、聡子の目が大きく見開かれた。「練習」がまだ続行中であったことに、ようやく気が付いたらしい。
「ってことで聡子ちゃん、俺のお願い聞いて………」
「誰が聞くかこのバカ男!」
再び聡子に覆いかぶさろうとした慎二を、聡子の右足が直撃した。わき腹を思い切り蹴り上げられて、慎二は勢いよくソファから転がり落ちた。聡子はめくれた裾を押さえながら身を起こし、テーブルの脇に立てかけられたトートバッグを手に取った。
「帰る」
「そんな……約束が違うよ」
床の上にうずくまり、咳き込みながら訴える慎二に、聡子はくるりと振り返った。僅かに上気した頬は、先ほどの名残だろう。そんな色気のある顔をして外に出ないで欲しい、などと場違いなことを考えたとき、聡子が口を開いた。
「あんな反則、無効に決まってるでしょうが!!この変態!!!!!」
やっぱり全然分かってない、と尖った声で言い捨てて、聡子は部屋を出て行った。スチール製のドアを開け閉めする音がいつもよりも大きく荒々しいことに、慎二は青ざめた。
しまった、また調子に乗りすぎた。反省すると言ったばかりだったのに、聡子をますます怒らせてしまった。
「……聡子ちゃんに『変態』って言われた…………」
この先一体どういう顔をして、聡子に会えばいいのだろう。そもそも、彼女は会ってくれるのだろうか。
「ごめんよ………聡子ちゃーん」
お願いだから嫌わないで。
がらんとした部屋の中に、情けなくも切実な呟きが虚しく響いた。
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