夢だ、と思いたかった。でも。
暗闇の中でも分かるほど鮮やかな赤い色をした車と、その助手席から降りてきた男の顔を見たとき、聡子はぼんやりとした頭で、何だ、本当だったんだ、と考えた。
恋愛ごっこはもうおしまい。甘く優しい嘘の世界から、現実に戻る時がきたんだ。
一年と十ヵ月。
分不相応な恋愛にしては、長く続いた方なのだろう。
別れを辛い、と思うほどに。
「放してよ!」
大声出すわよ、と言いながら、聡子は自分の腕を掴む男の顔を睨みつけた。今にも噛み付きそうな勢いでもがく聡子にも、男は全く動じない。片腕で聡子を捕まえたまま、彼女と視線を合わせようと身を屈めてくる。
「聡子ちゃん、君は多分誤解してる。あれは……」
「ゴカイも六階もない!他にどう解釈の仕様があるっていうの?言い訳なんか聞きたくない!」
他の女との浮気現場を見せられた挙句、その言い訳をされるなんて。惨めもいいところ、最低だ。大体、どうしてこんなところまで連れて来られなければならなかったのか。自分はもう、この男の恋人でも何でもないのだ。男の部屋に入らなければならない理由などどこにも存在しないというのに。
「新しい人ができたから私とはさよなら。簡単な話じゃない。大人しく別れてあげるって言ってるんだから、放してよ」
もう金輪際あんたには近寄らないし、あんたとのこと、絶対に誰にも言ったりしないから。それで良いでしょう?
勢いに任せてそう言うと、男の顔が険しくなった。
「良くない」
唸るように言いながら、男は壁に両手を突いた。男を押しのけようとする聡子の腕もものともせずに、壁と自分との間に彼女を閉じ込める。
「俺は浮気なんかしていないし、聡子ちゃん以外に好きな人もいない。お願いだから話を聞いてくれ」
男は聡子の頭を抱くと、彼女の肩下まで伸ばした髪から落ちる雫に顔をしかめた。
「あんな雨の中、一人で帰せるわけがないだろう」
まずは体を拭いて、と、男は聡子の肩に片腕を回したまま後ろを振り返ると、空いた方の手で脱衣所の引き戸を開ける。男が体をひねった瞬間、聡子は男の体を渾身の力で突き飛ばした。
「つっ……聡子ちゃん!?」
不意を突かれた男が廊下に尻餅をつく音を背中で聞きながら、聡子は目の前にある脱衣所に駆け込んだ。後ろ手に引き戸を閉めると、素早く鍵をかける。その途端、急に体から力が抜けて、聡子はその場に座り込んだ。
「……ばかみたい」
さっさと出て行けば良かったのに、自分からこんなところに閉じこもって。これじゃあ、どこにも行けやしない。
引き戸の向こう側では、男が慌てた声で聡子の名を呼んでいる。男が引き戸を叩く度、振動が背中に伝わってくる。
宥めるように、懇願するように。繰り返し繰り返し自分を呼ぶ低い声を聞きたくなくて、聡子は両耳を手で覆った。
そんな風に、必死に呼ばないでほしい。もう要らなくなった自分のことなんか、放っておいてくれればいいのだ。
そうすれば、この優しい夢から、きれいに覚めることができるのに。
「…………っ」
突然に突きつけられた恋の終わり。聡子は胸の痛みを噛み締めるように、大きく息を吐いた。雨に濡れて冷え切った頬の上を、温かな涙が伝い落ちた。
慎二は、無様な体勢で廊下に腰を下ろしたまま、閉ざされてしまった脱衣所の引き戸を見た。
「聡子ちゃん!」
慌てて引き戸にすがり付き、戸を叩きながら聡子の名前を呼ぶ。
「開けてくれ。話をしよう」
そんなところにいたら、風邪をひく。暖かいところに行こう。
宥めるような呼びかけは、引き戸の向こう側からのうるさい、という悲鳴混じりの声に遮られた。
「話なんかしたくない!どっか行ってよ」
精一杯強がった声には、すすり泣きが混じっていた。
居たたまれなくなって床に視線を落とすと、玄関脇に放り捨てられた聡子の鞄から一冊の雑誌が飛び出しているのが目に入った。
聡子が普段買いそうもない写真週刊誌の表紙に踊る見出しの一節を見たとき、慎二は全て理解した。
いつも歳の割に落ち着いている聡子が、なぜこれほど取り乱しているのか。なぜ慎二の言葉にも聞く耳を持たないのか。
きっと、彼女は怖いのだ。慎二の口から「本当のこと」を聞くのが。
慎二と話せば、彼から別れを切り出されると思っている。そうなる前に、自分から離れてしまおうとしているのだろう。
それほどまでに聡子を傷つけたのは、慎二自身だ。
慎二は、自身の浅はかさを呪いながら、未だ開く気配のない引き戸の前に座り込んだ。
「聡子ちゃん」
先ほどよりも静かな声で呼びかけると、返事の代わりに嗚咽が返ってきた。押し殺したようなその声に、慎二の胸は鈍く痛む。
「ごめん、辛い思いさせたね」
慎二はそう言うと、引き戸にそっと手と額を押し当てた。
まるで、何かに祈るように。
どれだけの時間、そうしていただろう。引き戸を隔てた廊下から、男が躊躇いがちに話しかけてきた。
「……まだ、俺と話したくない?」
「…………」
返事をしないでいると、男は肯定と受け取ったのか、話を続けた。
「そしたら、無理に話さなくていいよ。ただ、俺の質問には答えて欲しい」
話さなくても質問には答えろ?顔も見えないこの状態で、一体どうしろというのか。聡子の疑問に答えるように、引き戸の向こうで男が動く気配がした。コンコン、と引き戸が乾いた音を立てる。
「俺の質問に『はい』で答える時は、一回。『いいえ』なら二回。こうやって戸を叩いて欲しいんだ」
『はい』なら一回、『いいえ』なら二回……。まるで「こっくりさん」みたいだ。
聡子自身はやったことはなかったけれど、小学生の頃に放課後の教室で、同じクラスの女子が何人か集まって騒いでいたのを見たことがある。
自分はさしずめ、おキツネ様といったところか。
聡子は、脱衣所という名の祠に籠もってしまった自分に、男が「どうかお答えください」とばかりに恭しく呼びかける場面を想像した。その滑稽さに、涙で濡れた頬が一瞬緩んだ。
「……聡子ちゃん?」
了解してもらえるなら、戸を叩いて欲しいんだけど。
男の言葉に、聡子は右手を軽く握ると、背後にある引き戸を叩いた。
コン、という音が、脱衣所の中に遠慮がちに響いた。
脱衣所の中から一度だけ響いてきた小さな音に、慎二は安堵の溜息をついた。
良かった。とりあえず、話だけは聞いてもらえるらしい。
「ありがとう……。じゃあ、まず、洗濯機の横の棚の中にタオルが入ってるから、身体を拭いて。びしょぬれだろう?」
そのままじゃ風邪を引く、と言うと、引き戸の向こうで聡子が立ち上がる気配がした。数歩分の足音がした後、タオルと髪が擦れる音が聞こえてくる。
慎二は、聡子がタオルを取り、元の場所へ戻ってきたのを引き戸越しに伝わる気配で確認すると、静かな調子で問いかけた。
「俺と別れるって、本気で言ってる?」
返ってくる答えは、ノック一回。『はい』だ。予想はしていたが、実際に言われると辛いものがある。慎二は軽く溜息をつくと、引き戸に向かって話しかけた。
「俺は別れたくないよ。少なくとも今は、ずっと聡子ちゃんと一緒にいたいと思っている。だから、いくつか君に質問するし、話もさせてもらう。いいね?」
これは質問じゃない、念押しだ。慎二は聡子の答えを待たずに話を続けた。
「あの雑誌の記事を読んだね?」
雑誌の名前も、号数も敢えて口にしなかった。聡子には分かっているはずだから。
しばらくの間を置いて聞こえてきたノックはやはり一回で、慎二は額に手をやった。
昨日発売の週刊誌に載った、『倉田慎二の熱愛』を伝える写真付きのゴシップ記事。聡子は、何らかのきっかけでそれを目にし、事実を確かめるためにここに来た。事前に約束した日以外に慎二の部屋を訪れることなどない彼女が、連絡もなしにやってくるとは、よほど動揺していたのだろう。
そして、彼女は見てしまった。記事に載っていたのと全く同じ光景を、目の前で。
「さっきの……俺が降りた車の運転手も、見たね?」
ドン。
これまでの三度よりも乱暴なその音は、どんな言葉よりも雄弁に慎二を攻め立てる。
僅かに振動する引き戸のように、その向こうにいる彼女の背中も震えているのだろう。
「ごめん……」
声を出さずに涙を流す彼女を、今すぐに抱きしめたいと思った。
けれど。
彼女は今、薄い木の引き戸の向こうにいる。
「……ごめん」
引き戸の向こうにいる男が、搾り出すような声でそう言った瞬間、聡子は一瞬呼吸を止めた。
ああ、やっぱり。
何度も呼びかける優しい声に、淡い期待を抱いたりもしたけれど、やっぱりここでおしまいなのだ。
零れ落ちる涙を拭おうと、湿ったタオルを顔に押し当てた時、男が言った。
「友達なんだ、ただの」
嘘、そんなの信じない。
とっさに耳を塞いだが、男の低く心地よい声は指と指の間をすり抜けて、聡子の耳に、心に入ってくる。
「信じられないかもしれないけど、本当だよ。最近は女優業もやってるようだけど、本職はバレリーナでね。俺たちのバンドの二枚目のシングルのプロモーションビデオに出てもらったんだ」
それは知っている。男の背中にもたれて座った彼女の、屈託のない笑みとすらりと形の良い脚は、ずっと聡子の憧れであり、密かな嫉妬の対象だったのだから。
「そりゃあ、そういう関係になったことがない……とは言わないけど、今は全く何にもないよ。何だったら、瑛太たちに聞いてみればいい」
ごとり、と引き戸が軋む音で、男が引き戸に体を預けてきたのが分かった。
一つ一つの声を噛み締めるように、男は言葉を紡いでいく。
こういうときの話し方は、彼が歌う時によく似ている、と聡子は思った。
「彼女も、人に言えない恋愛をしていているんだよ。そのことで、よく相談を受けたりしてるんだ。あの記事の写真を撮られたときも、相談がてら食事に行った帰りだったんだけど……迂闊だったな」
取るに足らないことだと思っていたんだ、と男は言った。
「この世界にいれば、何だかんだと詮索されるのはよくあることだし、今回のことはまるきりガセネタだったから、放っておけば良いと思っていたんだ。下手に騒いで、本当に守りたい人のことがばれたら元も子もないからね」
彼女も自分と同じように、芸能界の外にいる男性と付き合っているのだ、と男は言った。しかも、事情は彼女の方がかなり込み入っているらしい。今回の件は、男にとっても彼女にとっても、本命の存在を隠す良いカムフラージュだった。だから、特に否定も弁解もすることなく、放っておいたのだ。
「今日は、たまたま仕事場が近くて、瑛太や一久たちと皆で飲みに行ってたんだ。彼女は車で飲んでなかったから送ってもらったんだけど……心配かけたね、ごめん」
男自身にやましいところは何一つなかったから、特に気にしていなかったが、聡子には話しておくべきだった、と男はすまなそうな声で言った。
「俺はこういう仕事をしているから、あることないこと言われたりするけど、今好きなのは聡子ちゃんだけだよ。触りたいのも抱きしめたいのも、聡子ちゃん一人だ。他にいない」
男の声が引き戸を通り抜けて聡子の耳に、心に届く。それはじわりと聡子の中に広がって、冷たく硬くなった彼女の心を溶かしていくかのようだった。
「聡子ちゃんは……」
引き戸の向こうで、男が問いかける。少しだけ、不安そうな声。
「本当に、俺と別れたい?もう、俺のこと好きじゃない?」
俺は、別れたくないよ。聡子ちゃんがいい。
すがるように呟いた男の声には、いつもの自信に満ちた様子は微塵も感じられなかった。
男はきっと、引き戸の前でしょげているのだろう。
もしかしたら、それは聡子の気を引くための演技なのかもしれないが、それでも良いと彼女は思った。
自分の幼い嫉妬に、きちんと向かい合って宥めてくれたのだから。だから、もしもあの週刊誌に書かれたことが本当だったとしても、もう良いのだ。
自分は男の……慎二の言葉を信じていればいい。自分を見つめる慎二の瞳にある、優しさだけを見つめていればいい。
そうすれば、いつか本当の終わりが訪れることがあったとしても、その時までは幸福な時間を過ごしていられる。
聡子は湿ったタオルを片手に立ち上がると、引き戸をノックする代わりに取っ手の上にある鍵に手を伸ばした。
「ねえ、あの女の人……新見さん?の込み入った事情って……?」
聡子が脱衣所から出てきた後、慎二は雨で体が冷え切っていた彼女をすぐさま風呂に入れた。熱めの湯で温まって上がってきた聡子の髪を乾かして寝室で寛いでいると、彼女が突然、思い出したようにそう言った。
他の人の秘密だし、言ってまずいことなら言わなくて良いけれど、と遠慮がちに言う聡子の肩を、慎二はそっと引き寄せた。首筋に顔を近づけると、彼がいつも使っているのと同じボディソープの匂いがして、そんな些細なことに嬉しくなる。
「いや……」
まだ少し湿り気の残る聡子の髪を片手で弄びながら、慎二は言った。
「聡子ちゃんになら話しても良いよ。口が堅いの、知ってるからね」
慎二は両腕を聡子の腰に回して抱きしめたまま、ベッドの上に仰向けに倒れた。突然のことに小さな悲鳴を上げた聡子の額に軽くキスをして、話し始める。
「彼女はね、何年か前までロシアにいたんだよ。向こうでバレエの勉強をして、有名なバレエ団にも所属してたらしい。その時に今の恋人と出会ったらしいんだけどね……」
慎二はそこで言葉を切ると、体を起こした。
仰向けになって自分を見つめる聡子に覆いかぶさって、彼女の顔を覗き込む。意思の強そうなアーモンド形の瞳に自分の顔が映っていることを確認して、慎二は満足そうな笑みを浮べた。
自律心が強く、普段は不満も弱音も口にすることのない聡子が、慎二が浮気をしたかもしれないという事実に怒りながら泣きじゃくった。そのことが、たまらなく嬉しくて、愛しい。
自分のために動揺する彼女が見たくて、事実無根の記事をわざと放っておいたことは、彼だけの秘密だ。
大切な恋人を泣かせてまで、想われていることを確かめたいなんて、我ながら歪んでいる、と彼は心の中で自嘲した。
「彼、実は国家スパイだったんだ」
恋人のターゲットは日本ではなかったし、彼女はただの留学生に過ぎなかったから、仕事で近づいたわけじゃない。二人の想いは本物で、だからこそ厄介なことになった。
「恋人は国家機密を巡るごたごたに巻き込まれて、現在世界中のどこかに潜伏中。彼女も身の安全のために帰国してこっちで活動してるらしいけど、彼の居場所はおろか、連絡さえほとんど取れない状態らしい」
まあ、居場所が分かったとしても一緒になるのは簡単じゃないだろうね、と言いながら、慎二は聡子の着ているシャツのボタンを外した。はだけた襟元にのぞく鎖骨に口付けようとした時、聡子の両手が慎二の頭を思い切り挟んだ。
「山田」
「何?」
慎二はどんな曲を歌う時にだって出さない、色気のある声で囁き、優しく微笑んで甘い雰囲気を演出する。けれども聡子は、そんなのものには全くお構いなしで、胡散臭そうな視線を慎二に向けた。
「その話、本当?」
「本当だよ。百二十パーセント本当……うぐっ」
突然聡子から頭突きを食らって、慎二は体を起こしてひっくり返った。その隙に聡子はベッドの中から抜け出して、寝室の床に飛び降りる。
「やっぱり別れる!」
「えええっ!?」
何で、どうして。新見とは何でもないって言ったろう。彼女にはちゃんと恋人が……。
「うるさい!」
聡子はベッドの上にある枕を掴むと、うろたえる慎二の顔に思い切り投げつけた。
「誰がそんな話信じるもんですか。バカにしないでよ!つくならもっとマシな嘘考えて!」
「いや、あれは本当なんだよ。お願い信じて聡子ちゃん!」
あまりに現実離れした話だから、聡子が信じられないのも無理はない。けれど、事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったもの。聡子に話したあの話が、正真正銘の真実なのだ。
「ああもうせっかくいいところだったのに……って、ああああー!帰らないで聡子ちゃん!お願いだから信じてくれよ」
その後、あんな話は信じられない、別れると言って聞かない聡子と引き止めたい慎二の攻防戦が更に数時間続くことになるのだが……それはまた、別の話。
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