「さーこぴょん」
踊るような足取りで寝室から出てきた慎二に猫なで声で名前を呼ばれて、聡子は身を硬くした。
「あれ?何で逃げるの?」
可愛らしく首を傾げる慎二は、両手を体の後ろに回していた。何かを隠している雰囲気満々なそのポーズは怪しいことこの上ない。聡子はなるべく目立たないように注意しながら身じろぎをして、座っていたソファの上から降りた。床の上に直接座り、立ち上がるタイミングを窺いながら慎二を見上げる。
「逃げてないわよ?」
「嘘。逃げてる」
だって後ずさってるじゃないかと指摘されて、聡子はばれたかと心の中で舌打ちをした。引きつった笑顔を浮かべながら、ささやかな反撃を試みる。
「あんたこそ、一体何を隠しているの?」
「さーて、何でしょう」
満面の笑顔で、慎二は聡子の方に一歩踏み出した。同時に聡子もお尻を床につけたままずりずりと後ずさる。
とってもいいものだよ、と言って微笑む慎二の目は、聡子を真っ直ぐに射抜いていた。この目、どこかで見たことがあると考えた聡子の背中に、冷たい汗が一筋伝う。そうだ、一昨日見たドキュメンタリー番組の、獲物を前にした肉食獣の目にそっくりなのだった。一分の隙も情けもない。
そんなことを考えている間にも、慎二は聡子との距離を詰めてくる。近づかれてなるものかと後ろに下がる聡子は、徐々に壁際に追い詰められていくのに気づかない。
「いいもの、って……一体何する気?」
「とってもいいこと」
そう言った慎二の低い声が部屋の中に優しく響く。いつになく艶のあるその声色に、聡子は一瞬で酔わされる。彼女が赤くなった顔を隠すように俯いたとき、慎二はにやりと口の端を持ち上げた。
「隙ありっ」
聡子が自分から視線を逸らしたのを認識するが早いか、慎二は肉食獣もかくやというほどの素早さで床を蹴り、聡子に跳びかかった。空中に見事な放物線を描いて聡子を壁際に追い詰めると、すっかりおびえきった彼女の耳元で甘く囁く。
「気持ちいいことしようね、聡子ちゃん」
慎二の人間離れした動きに追い詰められた聡子は、あっけなく彼の手に落ちた。文句を言う間もなく寝室に連行され、ベッドの上に寝かされる。
思い通りの展開に、慎二は上機嫌だ。ベッドの上によじ登った彼が鼻歌交じりに体を揺らすたび、スプリングが軋んで聡子の体も僅かに跳ねる。
「靴下は脱いじゃっていいよね?」
言いながら、聡子の両足から灰色のハイソックスを抜き取っていく。聡子が嫌だと言おうが何をしようがお構いなしだ。
踵に触れた外気のひやりとした感触に、慎二の意図を理解した聡子は慌てて起き上がろうとした。しかし、身を起こそうともがいた肩は慎二の手によってあっけなくシーツの中に沈められる。
「ちょっ……離して!私、やだ」
「大丈夫だよ。心配しなくても、すぐによくなる」
吸い込まれてしまいそうな濃い茶色の瞳に聡子を映して、慎二は優しく微笑んだ。やっていることは無茶苦茶なのに、こんな顔をするなんて反則だ。
だから暴れないで、と言いながら、慎二は聡子の足を掴んだ。大丈夫大丈夫とあやすように唱えながら、徐々に体重をかけていく。
……い
「痛い痛い痛い痛い痛いーーーーーーーーーーーーーーっ」
予想通りというか。予想以上というか。襲ってきた激痛に、聡子は思わず大声を上げた。どうにかしてこの痛みから逃れようと足に力を入れるが、しっかりとつかまれているせいで動かすこともままならない。頭を仰け反らせて痛がる聡子。けれども慎二は、にっこり笑った表情のまま、顔色一つ変えずにこう言い放った。
「そんなに痛い?」
「痛いわよ!このバカ山田!」
聡子の涙交じりの暴言を聞き流しながら、慎二は聡子の足を掴んだまま足元に広げた冊子に目を落とした。
「……ここが痛いってことは、えーと……胃?」
聡子ちゃん、最近ストレスが溜まってる?
慎二の無邪気な質問に、聡子は首をひねって彼をきっとにらみ付けた。あんたのせいでねと言ってやりたいが、痛さのあまり口を開くことができない。
「じゃあここは?」
「ーーーーーーーーーーーーーーっ」
今度は人差し指の付け根に容赦ない力強さで指を押し込まれて、聡子は声にならない悲鳴を上げた。近くにあった枕に顔を押し付けて、懸命に痛みをこらえる。
「聡子ちゃん、目も疲れてるだろう。今日も俺が、しっかりマッサージしてあげるからね」
最初の頃より、だいぶ柔らかくなったよと言いながら聡子の足の裏を揉む慎二は、二週間前にあった音楽バラエティ番組の収録で足ツボマッサージを経験して以来、その魅力にすっかりとり憑かれていた。初めの二、三日は本を見ながら自分の足を揉んでいたが、それだけでは飽きたらず、聡子が慎二の部屋を訪れるたびにこうして「ツボ研究」の成果を彼女に披露しているのだ。
慎二は聡子の役に立っているつもりでいるのだが、聡子にしたらたまったものではない。確かにマッサージの後は体が軽くなったような気がするが、最中のこの痛みはどうにも耐えがたいものがある。
「肩こりにはここ……っと」
「ぎゃっ!!!」
不意に襲った激しい痛みに、聡子の慎二につかまれていないほうの脚が勢いよく跳ねた。聡子本人も意識しないうちに振りあがったその脚の踵が慎二の顎を直撃するまで……あと三秒。
back
(C)kanade sasahara 2003-2007 All rights reserved.