鳴らない電話


<03.夢>

 夢を見た。

 私は一人、夜明けの浜辺を歩いていた。
 辺りには霧のような白くてもやもやふわふわとしたものが立ち込めていて、視界は悪い。不安に思いながらも、何故か前に進まなくてはいけない気がして足を動かしていると、目の前に人影が現れた。

 もしかしたら。

 私は思い、走りだす。
 走って走って、ようやく人の姿がはっきりと見える頃には、私の息はすっかり上がっていた。
 夢の中とはいえ、運動能力、持久力共に皆無の私に、この運動は少々きつい。
 腕を膝に突いて身体を支え、肩で息をつきながら必死で前方に目を凝らす。
 霧の向こうにぼんやりと見える人の姿に、私はやっぱり、とため息をついた。

 少し癖のある、短い黒髪。
(袴に茶髪は似合わないからと、大学生になった今でも、彼は黒髪を貫いている)
 灰色のシャツに、古ぼけたジーンズ。今年の春休みに二人で動物園に行った時と同じ格好だ。
 スッと天に向かって背筋を伸ばし、彼は私のほうへ歩いてくる。

 私よりは高いけれど、彼は同年代の男の子と比べるとあまり背が高い方ではない。それでも小柄だと感じないのは、長年剣道で鍛えられたしっかりとした手足と、内面にある強さ、それに姿勢のよさのせいだろう。

 私と彼との距離は更に縮まり、彼の表情まではっきりと分かるほどになった。

 物静かで、そのくせどこか人懐こい目。竹刀を構える時にはぐいとへの字に閉じられている口元が、今は僅かに笑みを浮かべている。

 「寛之」

 私の口から、彼の名前が転がり落ちた。
 もう三日も口にしていなかったから、何となく響きが落ち着かない。

 「寛之」

 今度はしっかりと彼の名を呼ぶ。
 さっきよりも、大きな声が出たはずだ。
 それなのに、彼は何も言おうとしない。
 こちらにこれ以上歩み寄ろうともしなかった。

 「寛之」

 どうして何も言ってくれないのだろう。夢の中の彼も現実の彼と同じように、私に腹を立てているのだろうか。
 私は更に前へと歩を進めた。
 彼に少しでも近づきたいと思っているのに、歩けば歩くほど、彼は遠ざかって行くように感られてならない。

 「・・・・」

 彼の口が、僅かに動いた気がした。
 目の錯覚かも知れないと思い、目を凝らしてもう一度その口元を見る。

 「・・・・」

 間違いない、彼は何か言っている。
 でも、その声はここまで届かない。
 「どうしたの?何て言っているの?」
 呼びかけても、彼は声を張り上げようとはしなかった。

 「・・・・」

 『サキ』

 彼の口の動きが、私の名前を呼んでいるように見えた。
 でも、声は聞こえない。

 急に濃くなった霧が、彼の姿を覆い隠す。
 彼が、見えなくなっていく。
 静かな微笑みも、懐かしいシャツも、霧の向こうに消えていく。

 夢は、そこで途切れた。

 あなたの声は、どんなだった?
 お願いだから、声を聞かせて。

 カーテンから、朝日が漏れてくる。
 私は本棚の中からアルバムを取り出した。
 写真の中の二人は、ゾウの檻の前で楽しそうに笑っている。

 明るく蒸し暑い部屋の中で、私は一人、声を殺して泣いた。 


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