赤い恋人

<08.彼と彼女の場合>

 ぷくりぷくりとポンプから吐き出される細かい泡に尾ひれをくすぐられて、彼女は目を覚ました。
 彼女の周りに戻ってくる、白い壁紙、大きなソファー、揺れるカーテン、背の高い本棚。
 小さな部屋、彼女のいる世界の全て。

 眠りに着く前と全く変わらぬ光景だが、一つだけ違うモノがある。彼女は、金魚鉢の側に丸まって静かな寝息を立てる彼を見た。

 彼女の為に取って来てくれたのだろう、側には彼女と同じ色をした小さな花。濃い緑の葉っぱを所々に付けた茶色と白の縞模様の毛並みが、風にそよぐ細い髭が愛しい。

 もっと近くでよく見ようとガラスに身を寄せると、彼がふいに目を開けた。穏やかな灰色の瞳と目が合った途端、彼女の心臓が大きく跳ねる。

 「起きてたのか」
 「つ……ついさっき……」

 その落ち着いた声を何度聞いても、優しげな瞳に何度見つめられても、その度に鼓動が早くなるのは何故だろう。
 落ち着き無く金魚鉢の中を行ったり来たりする彼女を見て、彼はまぶしそうに目を細めた。身を起こしながら、目の前の赤い花を前足で彼女の方へ押し出す。

 「散歩の途中で見つけたんだ」

 光るように鮮やかな真紅の花に、彼女の顔がパッと輝いた。

 「綺麗!」
 「あんたと同じ色だ」

 彼の言葉がくすぐったい。
 今の自分はきっと、花よりも赤いことだろう。
 骨の髄まで染めゆくような熱を体内に感じながら、彼女は水の中をひらひらと舞った。
 そっと水中に差し入れられた彼の手の、桜色の掌に身を寄せる。

 「ありがとう。大好きよ」

 そう言って、幸せそうに笑う彼女に、彼は優しく微笑んだ。


 心地良い、穏やかな風を頬に感じて彼は目を覚ました。
 夢の余韻を感じながら目を開いたその先には、ガラス越しに懸命にこちらを見ている彼女の姿。目が合った途端ピクリと尾ひれを震わせる彼女に、彼の口元が僅かに緩む。

 「起きてたのか」

 彼がこの部屋に来た時には、彼女は水草の陰でまどろんでいた。彼女が起きるまで待っていようと金魚鉢の側に丸くなったが、いつの間にか眠ってしまったらしい。

 「つ…ついさっき」

 言いながら胸びれをゆらゆらと動かし、目の前を行ったり来たりする彼女。
 彼は体を起こしながら、前足で一輪の花をちょんと押した。
 散歩の途中、道端で見つけた赤い花。丸みを帯びた真紅の花弁が風の中で揺れる様は、小さな丸い世界の中を楽しげに泳ぎ回る彼女に良く似ている。

 「綺麗!」

 そう言って花を見つめる彼女を、彼は微笑みながら見つめている。
 この小さな金魚鉢の中で、このきらめく水の中で彼女が見る夢は、一体どんなものなのだろう。
 薄い花びらにも似た尾ひれが水の中で揺れるのを見る度に、小さな鱗が日の光を受けて輝く度に、彼は彼女から目が離せなくなる。
 黒目がちな瞳が、小さな口が、こんなにも愛しい。
 長い間必死になって否定し、封じ込めてきた想いが、彼の中を満たしていく。

 自分の中に生まれる熱に浮かされたように、彼は水の中へそうっと手を差し入れた。
 僅かな水音、ぐにゃりと歪んで見える自分の手。
 ひんやりとした水の中で僅かな温もりを掌に感じた。

 「ありがとう、大好きよ」

 彼女の言葉が、笑い声が、心の奥に染み渡る。
 その心地良さに、彼は微笑み、囁いた。

 「俺も…」

 午後の日差しが、どこまでも柔らかく二人を包んだ。

 「好きだよ、食べてしまいたいほどに」

 世界でたった一人の、僕の小さな赤い恋人。


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