赤い恋人

<07.騒ぎのあとで>

 「……あの」

 破れたカーテン、詰め物がはみ出たクッション。
 乱闘の跡が生々しく残る部屋の隅で毛づくろいをはじめた彼の背中に、彼女はおずおずと声をかけた。

 消え入るような彼女の声が届いたのだろうか、彼の耳がピクリと動いた。

 あの時、彼がこの部屋に来るのがあと数秒でも遅かったら、自分は今頃あの黒猫の胃の中に納まっていただろう。所々茶色く変色した、骨ばった手が金魚鉢の中に差し入れられる一瞬前に、彼が黒猫に飛び掛り、金魚鉢から引き離してくれたのだ。
 彼と黒猫は、掃除機を持ったご主人様が駆けつけるまでの数分間、激しい戦いを繰り広げた。鋭いうなり声を上げて、部屋の中を所狭しと転げまわる。
 噛み付き噛み付かれ、引っかき引っかかれの大騒動の中で、彼女の金魚鉢がひっくり返らなかったのは奇跡だったと言えるだろう。
 無数に舞う茶と黒の柔らかな猫の毛に溜息をついたご主人様は、その事をしきりに不思議がったが、彼女はその理由が分かっていた。彼女に危害が及ばないよう、彼が庇ってくれていたのだ。

 無残に引き裂かれた雑誌のページが、風に押されて床の上を滑る。
 彼は毛づくろいを止めると、彼女の方をゆっくりと振り返った。その白い前足には、僅かに赤い物が滲んでいる。

 「……怪我…してるの?」
 「大した傷じゃない」

 短く答える彼に彼女は俯き、水底のビー玉をじっと見つめた。

 「……ごめんなさい…私のせいで…」

 怪我だけではない。彼は、ブーンとうなりを上げる掃除機で取っ組み合いをやめさせ、黒猫を部屋の外へ追い出したご主人様に、騒動が収まった後でたっぷりと叱られていた。彼女を助けたあの戦いも、ご主人様にはただの喧嘩にしか見えなかったらしい。

 あのまま彼女が食べられるのを黙って見ていれば、怒られることなど無かったのに。
 彼が叱られる原因を作ったのが自分なのだと思うと、辛かった。

 「ごめんなさい……」

 やりきれない思いで暗い色の泡を吐き出す。
 ご主人様は、先ほど片付けのための道具を取りに外に出て行き、部屋の中は静かだ。
 ポンプのモーター音が大きく響く中で、彼が突然音も無く立ち上がった。

 「……あの」
 「あんたのせいじゃない。それより……」

 彼はちらりとドアの方に目をやり,ご主人様の姿がない事を確かめると彼女の方へ歩いてきた。軽い身のこなしで机に飛び乗り、金魚鉢の側にちょこんと腰を下ろす。
 思いもしない出来事に、彼女は思わず水草の陰に身を寄せた。ゆらゆらと揺れる水草の隙間から顔を覗かせる彼女を見て、彼が微かに笑った…ような気がした。

 「あんたは大丈夫か?」

 彼女がはっと顔を上げると、こちらを見つめる彼と目が合った。
 彼は、自分の事を嫌っていたはずなのに。
 あんなに怒らせてしまったのに、何故、そんな目でこちらを見るのだろう。
 彼女は当惑し、しばらく彼の顔を凝視していたが、彼が眉をひそめたり怒鳴りだしたりする気配は一向に見られなかった。

 優しげに細められた目、僅かに揺れる細い髭。
 初めて見る彼の表情に、彼女の鼓動がトクトクと早鐘を打ち始めた。
 数日前まで感じていた、ふわふわとした温かな気持ちが、体中を駆け巡る。

 「あ…、うん。大丈夫……」

 口をパクパクさせながらやっとの事でそう言うと、彼が安堵の溜息をついた。

 「そうか、良かった…」

 自慢の毛並みが、所々ほつれているのが分かった。
 濡れた毛がくしゃくしゃになるのも構わずに、駆けつけてきてくれたのだろう。
 穏やかな声が、眼差しがくすぐったくて、彼女は尾ひれをゆらゆらと落ち着き無く動かした。

 「あの……、どうもありがとう」

 彼女の呟きを聞き取った彼が、その目を一瞬驚いたように大きく見開き、その後でふっと微笑んだ。

 その目に、ゆるいカーブを描く口元に、彼女の心は赤く染まった。


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