赤い恋人

<06.侵入者の誤算>

 ザーッという音と共に上がった湯気で、視界が真っ白になった。
 自慢の縞模様の毛並みも、今は水滴をぽたぽたと落としながら体に重く張り付いている。
 ふわりと鼻をくすぐる石鹸の匂い。
 彼は飼い主の少々乱暴な手つきにも尻尾一本動かさなかった。
 いつもなら、お湯をかけられただけで大暴れをし、浴室からの脱走を図る彼が、こんなに大人しく風呂に入れられているなど、未だかつて無かった事だ。
 少しは反省しているのね、という飼い主の声に耳をピクリと動かす。
 反省しているというよりは、諦めていると言った方が良いのかもしれない。
 抵抗するのも面倒くさい。
 少なくともここにいれば、彼女の姿を見ずに済む。
 頭から水をかけられようが、そのまま物干し竿につるされようがどうでもいい、好きにしてくれ…という投げやりな気分で、彼は最後のすすぎの湯をかぶった。
 目を閉じる一瞬前、白い水の幕が目の前にさあっと広がるのが見えた気がした。
 彼女がいる金魚鉢の中の世界はこんな感じなのだろうか。
 そんな事を考えている自分が可笑しくて、彼は心の中で苦笑した。

 がっしゃんという耳障りな音に彼の耳がピンと立ったのは、飼い主がタオルを取りに浴室から出た時だった。
 明らかにこの部屋の外…廊下の向こうから聞こえてくる音。
 飼い主は今、脱衣所で彼の体を拭くためのタオルを引き出しの中から引っ張り出している。他の部屋には誰もいないはずだ。
 風で何かが落ちでもしたのだろうかと彼が首を傾げた時、猫の鳴き声が聞こえた。

 ……みぃつけた……

 絡みつくような、ねっとりとした声。獲物を目の前にした時の、嬉しくてたまらないというような口調。
 彼はバスタオルを広げた飼い主の足元をすり抜けて浴室から逃げ出した。飼い主の悲鳴を背に受けて、脱衣所から勢いよく飛び出す。
 つるつると滑る廊下をものともせず、四方八方に水を撒き散らして、彼は彼女のいる部屋へと走った。

 彼は濡れた毛を逆立たせて、半開きになったドアの隙間に体を滑り込ませた。
 数日間避け続けた場所に足を踏み入れた彼が見たのは、金魚鉢の中で体を強張らせた彼女と金魚鉢の中に今まさに手を突っ込もうとしている黒猫の姿だった。
 にんまりと細められた金色の目、鋭く尖った爪。
 黒猫が、彼の方をちらりと見る。
 その、いびつに潰れた片耳に見覚えがあった。
 あれは、自分がやったものだ。
 『飼い主が怖くて金魚一匹獲れない、腰抜けの飼い猫』と言われ頭に来て、思い切りやっつけてやったのだが、潰れた耳の仕返しに今度は彼女を襲いに来たらしい。
 大方『彼が最も恐れる飼い主が、可愛がっている金魚』がいなくなれば、彼が青くなるとでも思ったのだろう。目の前にいる黒猫の、野球ボール程の大きさしかない頭の中が見える様で、彼は口の端に薄く笑いを浮かべた。

 ばかばかしい。

 俺は飼い主なんて、これっぽっちも怖がっちゃいない。
 金魚くらい、この手でいくらでも獲ってやる。
 飼い主に怒鳴られようと叩かれようと怖くない。

 彼女以外の金魚なら、何十匹、何百匹でも食べてやる。

 床に転がった卓上ラジオからは無機質なノイズが途切れ途切れに聞こえてくる。
 三日月型の爪が金魚鉢の淵に届く寸前に、彼は彼女を狙う侵入者めがけて地面を蹴った。


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