赤い恋人

<05.不自然な来訪者>

 彼女が記念すべき二千回目の溜息をついたとき、家の外で微かな物音がした。
 ご主人様が立ち上がり、廊下へと続くドアを開けて外に出て行って、彼女はがらんとした部屋の中にたった一匹残される。

 ガチャガチャと玄関のドアを開ける音がしたかと思うと、ご主人様が彼の名前を叫ぶ悲鳴交じりの声が聞こえてきた。
 きっと今日も、他所の猫や犬と喧嘩をして帰って来たのだろう。

 彼がこんなに毎日毎日取っ組み合いの喧嘩をして、泥だらけになるのは自分のせいだと彼女は思った。自分が彼を怒らせたからだ。半開きになったドアから時折聞こえてくる彼の尖った鳴き声はきっと、自分への苛立ちの表れだ。
 もう二度と自分の姿が灰色の瞳に映る事は無いのだと思うと、どうしようもなく悲しかった。

 やりきれない思いを振り切るように窓の方を振り向くと、カーテンの向こう…夜闇の中にきらりと光るものがあった。街頭の明かりを反射したガラスの破片にしては大きいが、自動車のヘッドライトにしては小さく、光り方も弱い。
 何だろうと彼女がその身を金魚鉢のガラスに寄せた時、何か黒い影が窓の外からさっと飛び込んで来た。同時に、金魚鉢の側に置いてあった卓上ラジオが落ち、けたたましい音が響く。
 大きな音に怯えながらもラジオがあったはずの場所に目を向けると、金色に光る二つの目がこちらをじっと見つめていた。

 少々乱れた漆黒の毛並み。
 片側がぺしゃりと折れ曲がった耳。

 目の前にいる生き物が、彼と同じ種類の動物だと彼女が気付くまでには少し時間がかかった。
 彼以外の「猫」を目にするのは、生まれて初めてのことだったのだ。

 奇妙な訪問者は、彼女をじっと見つめている。
 彼がいつもそうしていたように。

 しかし、その黒猫の眼差しは彼のそれとは全く違うものだった。
 絡みつくようなその視線に、彼女は言いようの無い不安を覚えた。
 その視線に絡み取られてしまいそうな、自由に泳ぐ事さえままならないような、そんな気さえしてくる。

 彼がここに来ていた時には、こんな気分にはならなかったというのに。
 この黒猫は、一体何者なのだろう。

 「あの…」

 彼女がはじめまして、と言うよりも一瞬早く、黒猫の口が動いた。

 「みぃつけた」

 その口が左右非対称に歪むのを、彼女は見た。
 にやりと笑ったその口元から覗く舌の赤が、とても鮮やかだった。


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