赤い恋人

<04.彼女の憂鬱>

 彼女は、口から小さな泡をぷくりと吐き出した。
 一万九千百八十七回目の溜息。彼女の憂鬱はポンプから出る泡に混じって水面へと上がって行く。

 つらい泡、悲しい泡、切ない泡、寂しい泡。

 蛍光灯の明かりを受けてキラキラと銀色に光る彼女の溜息は、水面をぐるぐると漂っている。
 それがはじけて空気に溶けても、込められた想いはまるで薄い雲のように彼女の心を覆ったきりで、決して晴れることは無かった。

 あの日以来、彼はこの部屋にやって来なくなった。
 気が付けば毎日のように目にしていた、あのふさふさとした縞模様の茶色い毛並みも、灰色の鋭い瞳も、端がほんの少し欠けた耳も、彼女の視界から消えてしまった。

 彼女は、目の前にあるソファーを見た。今はご主人様が雑誌を広げてくつろいでいるそのソファーの上で、彼はよく昼寝をしていたのだ。こんもりとしたクッションの上にちょこんと座って、こちらをじっと見つめていた事もある。
 彼の射るような眼差しを、見つめられた自分の赤く染まるような想いを思い出して、彼女は千九百八十八回目の溜息をついた。

 頭上へ吸い込まれていく空気の泡を目で追いかける。
 水面には、空気の泡に混じって、先ほど彼女が食べ残した餌がぷかぷかと浮いていた。
 水を含んでふやけた餌は、醜く惨めだ。

 あの日から、食欲が湧かない。
 お気に入りだったテプラ・レプトミンの固形餌も、ちっとも美味しいと感じられなくなってしまった。

 彼女の頭上を、また一つ銀色の泡が昇っていく。

 溜息は一体、何回ついたら止まるのだろう。
 水底へ沈んでしまう程の悲しみは、一体いつになったらこの胸から消えるのだろう。


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