赤い恋人

<03.彼の苛立ち>

 次の日から、彼は部屋の外にいることが多くなった。

 彼女が家にやって来る前にそうだったように、朝、餌をもらうとすぐに家を飛び出し、日が沈むまで散歩をしたり、近所の猫達とじゃれたりして一日を過ごす。
 軽い驚きと、ほんの少しの冒険が混じった平和な毎日。
 これぞ、正しい猫の生活だと彼は思う。

 しかし、彼の心は晴れなかった。

 あの日、彼が部屋を飛び出す瞬間に見た、彼女のひどく傷ついた顔が忘れられないのだ。何事もないように過ごしていても、ふとした瞬間に彼女の怯えた瞳を思い出す。
 喉に引っかかって取れない魚の小骨のように、肉球に刺さった小さな棘のように、それは彼の心に鈍い痛みをもたらした。忘れようとすればするほど、苦い想いは彼の心の奥深くまで入り込み、その痛みを増す。
 
 気がつけば彼女の事を考えている自分に、彼は更にいらついた。
 自分がこれほどまでにあいつのことを気にする必要が一体どこにあるというのか。
 あんな小さな魚一匹、傷つこうがどうしようが構わないはずなのに。
 つのる苛立ちを抑えきれない彼は、毎日のように喧嘩を繰り返した。
 余所者の猫やいけ好かない飼い犬と取っ組み合いをして、生傷だらけ、泥だらけで家に帰る。
 食事をしようと餌場のある居間へ向かうと必ず飼い主に見つかり、「みゃあ」とか「にゃあ」とか言う間も無く風呂場へ連行された。
 腕や顔に負った傷に熱い湯が染みたが、その痛みでも、心に刺さった棘の痛みをごまかす事はできなかった。

 その日も、彼はいつものように、彼のすさまじい姿を見て悲鳴を上げた飼い主に抱えられていた。
 彼は水があまり好きではないが、抵抗するのも面倒くさい。頭の上から降ってくる飼い主の小言を聞き流しながら、廊下の白い壁をぼんやりと眺めていた。

 彼の灰色の瞳に、こげ茶色のドアが映る。

 彼が戻るまで飼い主はあの部屋で過ごしていたのだろう、彼女のいるあの机の上へ通じる扉が、今は半分だけ開かれている。
 ドアの隙間から覗く、夜風に揺れる白いカーテンを見るだけで、彼の小さな心臓はぎゅうと締め付けられた。
 まるで首輪が急に窮屈になりでもしたように、喉の辺りが苦しい。
 彼は不快そうに身をよじった。
 風呂場だろうが、洗濯機の中だろうが構わない、一刻も早く彼女の存在を感じずに住む場所に連れて行って欲しかった。


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