赤い恋人

<02.彼女の場合>

 彼女は、今日も悩んでいた。

 体を包み込むようなぬるい水と、たゆたう水草の鮮やかな緑。
 水底に敷き詰められた砂利。真珠のような泡を絶えず吐き出す小さなポンプ。
 緩やかなガラスを通してみる世界は、いつでも少し歪んで見えた。
 真っ白な壁と、風邪に揺れるカーテン。
 どっしりとした木の机。
 文庫本が詰まった本棚。
 大きなソファー。

 それが、彼女の世界の全てだった。
 限られた小さな世界の中で、彼女はとても幸せだった。
 浅い夢の中にいるような、甘く心地良い生活。
 眠って、泳いで、食事をして。
 ご主人様は毎朝きちんと食事をくれるし、週一回の水替えも欠かさない。
 日差しで水が温まりすぎて命の危険に晒されたなどということも一度も無い。
 そこには、彼女を脅かす存在は何も無かった。
 何も無いはずだった。

 彼が現れるまでは。

 この家に彼がいるということは、以前から知っていた。
 彼女が水の入った小さなビニール袋に入れられてこの家にやってきた時、彼は庭先に置かれたベンチに寝そべり、彼女をじっと見上げていた。
 彼女の住まいがこの部屋の机の上に置かれてから、彼はこの部屋には近寄ってこなかった。ご主人様からきつく言われていたのかもしれない。
 しかし、寒い冬が終り、ぽかぽかと暖かな日が続くようになった頃からだろうか。部屋の片隅や窓の外に、彼のピンと尖った耳や長いしっぽを見かけるようになったのは。
 そのうちに、しっぽだけでなく前足、後ろ足、ふさふさとした毛で覆われた背中も彼女の視界に入るようになった。
 気が付けば、彼は毎日のように部屋の中に姿を現すようになっていた。

 彼は、いつも何をするでもなく部屋の中でじっとしていた。
 カーテンにじゃれるわけでも、屑入れをひっくり返すでもなく、ただソファや本棚の上にうずくまり、じっと彼女を見つめていた。
 灰色の瞳を一杯に見開いて、まるで睨みつけるかのように一心に彼女が金魚鉢の中を泳ぎまわるのを目で追っていた。
 ガラス越しに見る彼の顔は、ぐにゃりと丸く広がっている。
 ほんの少し湿っててらてらと光っている桜色の鼻。長いひげ。他の猫との喧嘩での名誉の負傷だろうか、左耳の端がほんの少しだけ欠けていた。
 初めのうちは、その射るような眼差しに怯えもしたが、彼がこちらへ飛び掛ってくる気配は、全く感じられなかった。

 彼はどうして、ここにいるのだろう。
 外は穏やかな良い天気なのに、どうして散歩にも行かず、狭い部屋の中にじっとしてこちらを見ているのだろう。
 彼女は次第に、この奇妙な観察者に興味を持つようになっていった。
 彼は一体、どんな声で鳴くのだろう。
 時折水の中に差し込まれる、桜色の手のひらに触れてみたい。
 食い入るような眼差しではなく、穏やかな、包み込むような瞳で見つめられたい。
 今まで出会ったどんな猫にも、鳥にも、そして魚にも抱いた事の無い奇妙な想いの名前を彼女は知らなかった。

 ふわふわとしていて、少し不安で、骨まで赤くなるような気持ち。
 目が覚めているときはいつも、部屋の中に彼の姿を探している。
 彼が部屋にやってくると彼女は小さなあぶくをプクリと吐き出し、尾ひれをさっと赤らめて、金魚鉢の中を落ち着きなく泳ぎ回る。

 私を見て。
 もっと側へ来て。
 あなたの事が知りたいの。
 お友達になりたいの。

 そんな想いをこめて泳ぐ。
 自慢の尾ひれを精一杯に振ってみせる。

 開け放たれた窓。
 吹いてくる風に踊るカーテン。
 水底のビー玉が日の光を反射して、きらきらと青い光を放っている。
 彼女をじっと見つめていた彼が、ほんの少し顔を下に向けた。
 ぬるい沈黙の中、彼が小さく息を吸う音が、彼女の耳に届いた気がした。

 何か喋ってくれるのだろうか。

 彼女が期待に胸を躍らせたその瞬間、鳴き声というよりはうなり声と言ったほうが良いような、すさまじい声が部屋の中に響き渡った。
 彼の鋭い声は、彼女の金魚鉢の水面をも振るわせた。
 震える水から、彼女が感じたのは苛立ち。あからさまな敵意。

 「お前さえいなければ」

 彼の全身から発せられたナイフのような感情は、明らかに彼女に対して向けられたものだった。

 私が彼に、一体いつ、何をしたというのだろう。
 私の何がそんなに気に入らないというのだろう。

 あまりにも突然の拒絶に、彼女は胸びれを動かす事すら忘れて、彼が飛び出して行った窓の外を眺めていた。

 ポンプから吐き出される無数の泡が、次々と水面へ浮かんでははじけて消えていった。


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