赤い恋人

<番外編 甘い贈り物 (2)>

 最近どうも彼女の様子がおかしい。
 彼女を訪ねると、かなりの確立で尋常じゃない速さで金魚鉢の中を泳ぎまわっているところに行き当たった。これまでは散歩するようにゆっくり泳ぐか、昼寝をしていることが多かったのに。
 一体何があったのかと、(腹立たしいことに)彼女と四六時中一緒にいる新入りを問い詰めてみたが、口止めされているらしい。「そのうち分かりますって」と冷や汗を浮かべながら言うだけで、掃除があるからと逃げていってしまう。
 協力すると言っていたのに、役立たずな。
 彼は八つ当たり気味に毒づくと、彼女への贈り物を咥えて地面を蹴った。
 今日の土産は、川原で見つけた小石だ。すべすべとしていて、黒字に真っ白な筋が入っている。川の水でよく洗ってきたから、金魚鉢の中に入れてやれば彼女はきっと喜ぶだろう。
 部屋に入ると、ぱしゃりと小さな水音がした。
 彼女が息を弾ませながら彼の方を振り返る。その顔がぱっと輝く様子に口元を緩ませて、彼は金魚鉢の方へ歩み寄った。
 先ほどまで彼女が「暴れまわって」いたらしい水面は小さく波打っていて、彼は水草の陰でじっとしている新入りをちらりと見た。
 頼むから、彼女に無茶はさせるなよ。お前が付いていながら彼女にもしもの事があったら、お前にもしもの事があるぞ。
「こんばんは、外は寒かった?」
 そう言いながら彼の方に泳ぎ寄る彼女に、彼は微笑み頷いた。
「ああ、今日は風が強かった。午後は雪がちらついてたな」
 こんな風に彼女と話すようになってから、季節や天気の変化を言葉にすることが多くなった。今まで気が付かなかった事も感じられるようになり、世界はこんなにも変化に富んでいたのかと驚かされる。
「川原に行ってきたんだ」
 彼は言うと、下に置いていた小石を咥え直して金魚鉢の淵に顔を近づけた。端に避けているようにと動作で彼女と新入りに指示をして、小石を水の中にそっと入れる。丸く平べったいその石は水の中をゆっくりと落ちていき、水底に着くとふわりと止まった。
 彼女は小石の周りをくるくると泳ぎ回った。尾ひれで、胸びれで何度か小石の表面を撫でて歓声を上げる。
「とってもすべすべしているのね。白い模様が素敵!」
 どうもありがとう、と弾む声で言った後で、心なしか表情を引き締めて彼を見上げた。
「私もね、今日は贈り物があるの」
 そう言う彼女は、何も持ってはいなかった。金魚鉢の中にも特に何も見当たらない。
 彼女は水底を行ったり来たりしながら、彼に金魚鉢の淵まで顔を近づけて欲しいと言った。彼が言われたとおりにガラスの淵にあごを乗せると、水底から真剣な目でこちらを見つめる彼女と目が合った。一体、何をする気なのだろう。
「なあ、一体何を……」
 彼が言いかけたとき、彼女の尾ひれが動いた。
 普段の彼女からは想像もつかないほどの勢いでぐんぐんこちらに向かって泳いでくる。
 そんなに早く泳いだら、止まるのが大変だろうに。彼の心配をよそに、彼女は水面に近づいてもスピードを緩める気配がない。
 ぱしゃりという水音と共に、彼女は空気中に躍り出た。
 「危ない」と言う暇もなかった。
 唇にかすかに感じた湿った感触、仄かな熱。
 それはあまりにも突然で一瞬の出来事。何が起こったのか分からなかった。
「…………」
 いつの間にか水中に戻った彼女が体全体で息をしながら言った。
「バレンタイン……」
 その体がいつもよりも赤く見えるのは、激しく泳いだせいだろうか。それとも、他に理由があるのだろうか。
「……好きな人に『好き』って言う日なんですって。だから……」
 私もしようと思って、バレンタイン。
 消え入りそうなその声に、彼ははっと我に返った。彼女の熱が伝染したかのように、その顔がみるみるうちに赤くなる。
 机の上のブックスタンドに立てかけられた雑誌の背表紙。バレンタインを意識したその広告の中では、片手でチョコレートを持った女性が恋人らしい男性と大胆なキスを披露していた。

『大切なあなたへ 愛を込めて』

「あーあ、見ちゃいられねえや」
 真っ赤な顔で俯き、黙り込んでしまった二人の様子に、新参者のタニシは水草の陰でそうぼやいた。
 お嬢さんも旦那も、あっしの事なんかすっかり忘れちまってる。
「ま、別に構わないんですけどね」
 誰が見ていようといまいと、あっしはあっしの仕事をやるだけですから。
 誰にともなく呟くと、タニシはガラスに張り付き薄く張った苔を食べ始めた。
 旦那、今度いらっしゃる時は石じゃなくてあっしの掃除仲間を連れてきてくださいよ、と心の中で呟きながら。


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