赤い恋人

<番外編 甘い贈り物 (1)>

 『バレンタインまであとわずか!あなたはどんなチョコレートをあげますか?』
 部屋の片隅に置かれたラジオを、彼女はきょとんとした顔で見た。朝から点けっぱなしのそのラジオは、盛んに「バレンタイン」「チョコレート」という単語を発している。聞きなれないその単語に、彼女は不思議そうに体を捻った。
 随分盛り上がっているようだけれど、一体何の話をしているのかしら?
 生まれ故郷の養殖池とホームセンターのペット売り場、それにこの小さな金魚鉢。常に狭い限られた場所で暮らしてきた彼女にとって、世界はあまりにも広い。自分には知らないことが多すぎると感じる事は度々あったが、今は疑問に思ったことを尋ねることができる相手がいる。今まで聞いたことのなかった言葉を聞き、その意味を知るのは彼女にとってとても新鮮で楽しいことだった。
 いつも彼女に色々な事を教えてくれる彼は、今、この部屋の中にいない。どこにでも自由に出掛けることのできる風のような彼は、今頃は一体どこで何を見ているのだろう。
 彼が訪ねて来てくれるのを待って「ばれんたいん」とは何か教えてもらおうかとも考えたが、ラジオの向こうで繰り広げられている会話の甘く秘密めいた雰囲気から、その言葉の意味を彼に直接聞くのはためらわれた。
 彼女はぷくりと小さな泡を吐くと、この金魚鉢に最近やってきた同居人を振り返った。
「ねえ、『ばれんたいん』ってなあに?」
「へ?」
 彼女の言葉に同居人は、ガラスにうっすらと付いた苔を食べる手を止めて顔を上げた。いつもこの金魚鉢の中を綺麗に掃除してくれる彼は、彼女が知っている中で彼の次に物知りだ。きっと答えてくれるだろうという彼女の予想通り、同居人はしたり顔で頷いて言った。
「『バレンタイン』っていうのはですねえ、世のお嬢さん方が意中の殿方にチョコレートを渡して想いを伝える日でやんす」
 お嬢さんの場合は旦那にって事になりますねえ、と、からかい交じりに言う同居人の言葉に、彼女は恥ずかしそうに尾ひれを揺らした。
「『ちょこれーと』って何かしら?」
 無邪気な顔でこちらを見る彼女に、黒く小さな同居人はガラス窓が閉められた窓の外に目をやった。粉末状の万能食意外食べたことがないであろう彼女に、一体どうやって説明したらいいだろうか。
「えー……っとですね、チョコレートってのはですね。あっしも食べたことはないんですがね……。甘くて、茶色くて、硬いのとか柔らかいのとか」
 同居人の説明に、彼女は困惑気味に頷いた。心なしか、目が泳いでいる。かえって混乱させてしまったらしい。もっと手っ取り早く「チョコレート」について説明できるものはないだろかと部屋の中を見回した同居人の目が、ソファーの上で止まった。
「お嬢さん、アレ!アレ見てください」
 ソファーの上に無造作に置かれた雑誌の裏表紙は、外国製のチョコレートの広告だった。片方の手でチョコレートを持った女性が、もう片方の手を恋人らしい男性の首に回している。
「写真のお嬢さんが持ってるアレがチョコレートですよ。それを殿方に渡してるでしょう?ああいうのをバレンタインっていうんです」
写真を見て、彼女はやっと納得したようだった。
「ありがとう、よく分かったわ」
そう言って同居人に向かって微笑むと、彼女はくるりと身を翻した。水面近くまで泳いでいくと、きゅっと口元を引き締める。
「決めた」
「は?何を?」
「私も、『バレンタイン』する!」

 ずっと思っていた。
 自分には、彼にしてあげられることが少なすぎる。
 彼は、彼女に数え切れないほど沢山のものをくれた。
 目に見えるものも、見えないものも。
 分からない事があると、いつだって穏やかな笑顔で教えてくれた。彼に出会うまで、世界がこんなにも広いとは知らなかった。
 彼が話してくれる外の世界の出来事は、何時間聞いていても飽きる事がない。彼女を訪ねてくるときに決まって持ってきてくれるお土産も、いつも彼女の心をときめかせた。サルビアの花の燃えるような赤も、枯れ葉が擦れあってカサカサいう音も想像していたよりもずっと綺麗でロマンティックだったので驚いたのを今でもよく覚えている。
 それに何より、彼と一緒にいるととても安心するのだ。
 彼に触れられるとそこからほっこり暖かくなる気がする。彼の事を考えると、心がふわふわ浮かぶのだ。体の中から赤く染まるような不思議な感覚。それをきっと、幸せというのだろう。
 彼がくれるものの十分の一でも、彼に返すことができているだろうか。
 金魚鉢とそれが置かれた部屋の中しか知らず、あげられる物もしてあげられる事もほとんどない彼女にとって、それは深刻な悩みだった。彼と会う度、胸一杯の幸せと同時にほんの少しの後ろめたさを感じてきた。
 だからこそ、何が何でも「バレンタイン」をするのだ。
 彼女は、強い意志のこもった目で水面を見上げた。
 自分にも、彼にしてあげられる事がある。
 そう思うと嬉しくて、何だってできるような気がした。
 彼女は尾ひれを勢いよく動かした。小さな胸びれで精一杯水をかく。
 今まで出したこともないような速さで水底から水面まで泳ぐと、その勢いのまま水を蹴って水の外に泳ぎ出た。
 初めて見下ろした水面は、日の光を反射してゆらゆらキラキラ光っていた。


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