赤い恋人

<01.猫の場合>

 彼は、今日も悩んでいた。
 日当たりの良い窓辺に置かれたソファーの上で、面白くなさそうに欠伸をする。午後の爽やかな風にカーテンが揺れて、彼の視界は一瞬真っ白になった。
 彼は何度か頭を振ってカーテンの間から抜け出すと、むしゃくしゃした気分を振り払うかのようにソファーの上から飛び降りた。しなやかな動作で床に着地する。フローリングの床のひやりとした感触が、むき出しの足の裏に心地良い。

 彼はしばらくの間、やんわりとした冷たさを楽しむように部屋の中をぐるぐると歩き割っていたが、不意に足を止めた。小さな額に皺を寄せて、部屋の一点を凝視する。
 彼の視線の先には、木の机。しっかりとした造りのそれは、よく手入れされているのだろう、黒光りしていて白い壁によく映える。
 しかし、彼の射るような眼差しは、机にではなく、その上にあるあるものに注がれていた。

 机の上には、丸みを帯びた形のガラス製の金魚鉢。
 金魚鉢の中には、真っ赤な金魚が一匹。
 その金魚こそが、今の彼の最大の関心事・・・・そして、最大の悩みのタネだった。


 始まりは、誰にも分からない。
 それが一体いつからなのか、どんな事が原因なのか、誰も知らない。
 彼自身にも、分からない。
 気付いたら、暇さえあればこの部屋に来て、金魚を見ている自分がいた。
 その事について、最初は特に何も思わなかった。自分の中の本能がそうさせるのだろうと考えていた。
 
 金魚は魚だ。
 人間に可愛がられている愛玩種だからといって、食べてはいけない理由がどこにある?飼い主に何を言われようとも、いつかこの手で捕ってやろうと、そう考えていた。
 金魚を取るために机に上り、金魚鉢の中に手を突っ込んだ事も数限りない。しかし、その手はいつも、金魚に触れることなく水面から引き抜かれてしまう。彼のすぐ目の前を金魚が泳いでいるというのに、どうしても触れる気になれないのだ。

 ほんの数センチの距離。
 何の障害物も無い。
 それなのに、近づくことが出来ない。
 手を伸ばせば、自慢のこの鋭い爪で、その赤い尻尾を傷つけてしまうかも知れない。
 自分が、壊してしまうかもしれない。

 心の中に生まれた得体の知れない気持ちが、本能に由来するものではないと分かるのに、そう時間はかからなかったが、彼はどうしてもそれを認めたくはなかった。
 魚を好きになるなんて、普通じゃない。
 こんなの、俺は絶対に認めない。
 恋に普通も異常も無い、恋愛は自由だ、とよく言うが、彼にとってこの気持ちの正体を認めることは、自身のプライドをひどく傷つける事だった。

 彼は、猫だ。
 このあたりの猫の間では喧嘩が強いことで有名で、雌猫にもよくモテる。どの女も、トラのような縞模様が素敵だと言って、猫なで声で傍へ擦り寄ってきた。一夜の相手に苦労などしたことは無いし、これからもすることはないだろう。無力でウロコだらけの魚にわざわざ欲情する必要など、どこにもない。
 それなのに。
 自分の気持ちに素直になんて、なれるわけが無かった。
 誰かに打ち明けて相談する事も出来なかった。
 町内のボス猫が魚に惚れたなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。笑い者になるに決まっている。そんなことをする位なら、斜向かいの家で飼われている獰猛なブルドックの鼻先に頭から突っ込んで、噛み殺されたほうがましだ。

 眉間にしわを寄せ、じっと見つめる彼の目の前で、金魚はひらりひらりと金魚鉢の中を泳ぎまわる。
 まるで人魚のように、金魚は水の中で舞っていた。金魚鉢の中という、切り取られた狭い世界も自分にとっては無限の海だというように。
 ひらひらとした尻尾が光の輪をくぐり、明るくきらめく。

 透き通るような鮮やかな赤。
 その姿に、その赤に、彼の理性は掻き乱される。今すぐにでも金魚鉢をひっくり返し、その赤い尻尾に口付けたい衝動に駆られるのだ。
 自分が猫であることを、一瞬忘れる事もある。
 壊したい、抱きしめたい、大切にしたい、目茶苦茶にしてやりたい、憎らしい、愛しい。
 ありとあらゆる矛盾する感情が、体の中を駆け巡る。

 頭の片隅に、爪の先程度に残った理性に、彼は必死でしがみついた。
 俺は、猫だ。
 それもただの猫じゃない、このあたりの全ての猫が振り返るような、強くて勇敢な猫だ。
 誰もが羨むような、立派な猫なんだ。

 お前さえいなければ。
 お前さえいなければ。
 お前さえいなければ。

 彼は、自分の中に押さえ込んでいたあらゆる感情を吐き出すかのように鋭く一度鳴くと、床を思い切り蹴って窓枠へ飛び乗り、そこからそのまま外へ出て行った。


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