<花と恋わずらい (後編)>


 桜の花の命は短い。咲いたと思ったらすぐに散ってしまう。今年の桜も既に満開の時期を過ぎ、まばらになった花の間から小さな緑色の葉を覗かせている。校舎脇に植えられた桜の木も例外ではなく、雨の中どこかしょんぼりと立っているように見えるその姿を、芳郎は教室の窓から頬杖を突いて眺めていた。
 濡れた窓ガラスに白い花びらが一枚、ぴっとりと張り付いているのが見える。昨日の夜から降り続いているこの雨で、残りの花もきっとあらかた散ってしまうだろう。
 一週間あるかないかの短い宴を終えて、花は地面に還っていく。
 芳郎は、窓の外から目を離し、溜息をついた。
 桜の花が咲き始める頃に見た彼女に繋がる手がかりは、未だにない。あの日以来、名前も知らない彼女とすれ違うことも、遠くにその姿を認める事さえも叶わないまま、短い花の季節は過ぎ去ろうとしていた。
 風が吹くたびに散りゆく無数の花びらを見るたびに、やり場のない焦燥感が胸を焼く。花が散るたびに、脳裏に焼きついた彼女の姿が遠ざかっていく気がしてならなかった。どんなに固く手を握り締めていても、指の隙間からするすると零れ落ちていってしまうような儚い記憶。友人達と比べても決して大きい方ではない自分の手をぼんやりと見つめていると、頭上から声が降ってきた。
 「学べども学べども…ってか?」
 後頭部に軽い衝撃を感じて振り向くと、同じ研究室の前島が丸めたプリントの束を持って立っていた。
 「何呆けた顔してるんだ?今日の二限、休講だってさ」
 暇つぶしがてら、昼食は外で摂ろうという前島の提案に頷くと、芳郎は席から立ち上がった。

 雨に濡れた構内をいつもより小さめの歩幅で歩く。講義中ということもあり、周りを歩く学生の数は少なく、辺りは静かだった。雨粒が傘に当たる音と、地面の水が撥ねる音がリズミカルに響く。
 正門をくぐって駅前の大通りへと続く路地に出る。アスファルトの道の所々に出来た水溜りを避けながら歩いていると、前島が何気ない口調で言った。
 「そういえばお前、最近どうしたんだよ」
 「どうしたって?」
 「最近、付き合い悪いだろ?授業終わったら飛んで帰るし」
 「そうかな?」
 「そうだよ。話しかけてもボーっとして人の言うこと聞いてねえ事も多いしさあ。…ああ、それは前からか」
 「失礼な」
 前島は憮然とした顔の芳郎を見て、にやりと面白そうに笑った。
 「まあ、そう怒るなって。あんまりお前の様子が変だからさ、こりゃあ狐か狸に化かされたか、って話してたんだよ」
 前島の言葉はどこかからかう様な響きを含んでいた。いつもの芳郎ならば「なんだと」と噛み付くところだが、彼はぼんやりと頷いた。
 「ああ、そうかもしれない」
 「はあ?」
 何十回、何百回とあの場所で春を迎えてきた桜の木。
 あの日の光景は、咲いては散りゆく花が見せた幻だったのではないだろうか。古木が見た短い夢に、ほんのひと時迷い込んだに過ぎなかったのではないだろうか。
 桜の季節も終わりに近づき、あの日が少しずつ、しかし確実に遠ざかるにつれて、彼はそんな事を考えるようにもなっていた。
 やがては完全に失われてしまう儚い記憶だからこそ一層美しく、こんなにも執着するのではないだろうか。
 今なお鮮やかな彼女の姿を脳裏に描きながら、芳郎は道の脇に植えられた桜の木を見やった。

 「化かされたのは、狐や狸にじゃなくて、桜の木にだけどな」
 思わず口を突いて出た呟きに前島が怪訝な顔をした時、芳郎はその場でピタリと足を止めた。その目は、車道を挟んで反対側の歩道にあるバス停をじっと見つめている。
 視線の先には、彼女がいた。
 オレンジ色の傘、白いカーディガンにブルージーンズ。服装も、髪型もあの日とは違っていたが、見間違えるはずが無かった。
 体の中心で、何かが再び震えだす。
 「芳朗?」
 前島が呼びかけるよりも一瞬早く、彼は水溜りを蹴っていた。体内を駆け巡る音に急かされたように、傘をその場に放り出して車道に飛び出した。急ブレーキをかけた自動車が激しくクラクションを鳴らすのにも構わず、バス停に向かって一心不乱に走る。
 早く早く早く。
 桜の花が散ってしまう前に。
 彼女が、「幻」になる前に。
 走る車を避けながら赤信号が光る横断歩道を渡りきり、あと数メートルで彼女の元にたどり着くという所まで来たとき、芳郎の真横をバスが重いエンジン音を響かせて通り過ぎた。慌てて速度を上げる彼を他所にバスは彼女の目の前で停車し、乗車口のドアが勢い良く開く。
 彼女は芳郎に気付いていない。彼がこの世に存在している事すら知らない。彼女は走る彼の方には目もくれずに傘を畳むと、バスステップに足を掛けた。
 「待っ……」
 制止の声も虚しく、彼女を乗せたバスは透明な扉を勢い良く閉めると濡れた道路の上を再び走り出す。
 芳郎は走るのを止めると、服や髪から水を滴らせながら遠ざかっていくバスを見送った。
 彼女の横顔が遠ざかっていく。記憶が、夢へと変わっていく。
 両手を固く握り締めてその場に立ち尽くす芳郎の足元には、バス停の前にある公園の桜の木から散った花びらが、雨に濡れて重く地面に張り付いていた。


 「おい芳朗ー、そろそろ講義始まるぞ」
 友人達から大声で呼ばれて、芳朗はぼんやりと窓枠にもたれていた体を起こした。
 早くしろよという声に生返事を返しながら、緩慢な足取りで教室に入る。
 浮かない表情で席につく芳郎に、友人達は首を傾げる。
 「最近いつもこの調子だよな。風邪ぶり返したか?」
 「滅多にひかないからな。後引くんだろ」
 「いやいや、単なる五月病だろ」
 「大体、何で雨の中走ったりするんだよ」
 「……うるさい」
 全くどいつもこいつも好き勝手言いやがって。頼むから静かに失恋の余韻に浸らせてくれ。
 芳郎は盛大な溜息を一つつくと、窓の外に目をやった。校舎脇の桜の木は、今は新緑の葉をいっぱいに付けて、古びた木の机の上にくっきりと濃い影を落としている。まるで華やかさの名残のように枝の先端で揺れている真っ赤ながくが目に入って、彼は顔をしかめた。
 桜の季節は終わったのだ。彼女を見つけることができないまま。
 桜の下で始まった、生まれて初めての一目惚れは幻に終わり、花を散らせた春雨に自分も濡れて風邪を引いた。全く、今年の春はいいことがない。
 床がコンクリートでできているせいだろうか。四月も半ばに差し掛かるというのに、教室の中はひんやりと冷たい。足元から駆け上ってくる冷気に、彼は上着の襟を掻き合わせた。季節の変わり目にひく風邪は治りにくいと聞いた事がある。またぶり返しているのかもしれない。今日はすぐに家に帰って大人しく寝ていようと考えていると、皆と話していた前島がひょいと彼の方を向いた。
 「あ、そういえば芳朗。お前、明後日空いてる?」
 空いてねえよと言うよりも早く、前島は芳郎の前の席に座ってにやりと笑いながら彼の顔を覗き込んだ。
 「空いてないなんて言うなよ?悪い話じゃないんだから」
 五限後に校門前で良いよな。
 既に決めてあったらしい待ち合わせの場所と時間を前島が早口で言ったとき、授業開始を知らせるチャイムが教室に響いた。
 「あ、もう始まるのか……芳朗、絶対に遅れるなよ」
 「ちょっ……」
 芳郎が反論の声を上げようとした時、前方のドアががらりと音を立てて開いて教室の中はしんと静まり返った。
 前島は何事もなかったかのように、ノートを広げている。どうやら、断る機会を失ってしまったようだ。
 今年の春は良い事が無い。
 中でも今日は特についてないと、芳郎は深い溜息をついた。


 前島は親切心から誘ってくれたのかもしれないが、出かける気分にはどうしてもなれなかった。だから、どんな事をしてでも断ろうと思っていた。断る機会が与えられなければすっぽかそうとも考えていた。
 そうして迎えた約束の日、芳郎は結局断ることもすっぽかすこともできずに、前島と並んで学校近くの路地を、駅前の居酒屋へ向かって歩いていた。
 「何で来ちまったんだろ、俺」
 約束していた時間の五分前に校門前に到着した自分の律儀さに、芳郎は小さく溜息をつく。
 「何しけた顔してんだよ。ほら、もうちょっと背筋伸ばせ」
 隣を歩く前島にエビのように丸まった背中をばしりと叩かれ、芳郎は思わず前につんのめった。ああ、もう嫌だ。帰りたい。大体、どうして俺だけなんだ。他の奴らはいないのか。咳き込みながら前島を睨むと、彼はけろりとした顔で言った。
 「ちったあしゃんとしてろよ。せっかく女の子紹介してやろうってんだから」
 「え?」
 怪訝な顔をする芳郎に、前島は、ああ言っていなかったか悪い悪い、と大して悪いとも思っていない口調で謝る。
 「俺の彼女の後輩なんだけどさ、可愛い娘らしいんだ。一度会ってみろよ」
 何かと思えば見合いとは。これはますます気が進まない。芳郎は再び背中を丸め、大きな溜息をついた。
 ふと通りに面した家の庭先に目をやると、桜の木に小さな実がついているのが見えた。小さく、硬そうな実がうっすらと色づきはじめているのに、芳郎はああ、もう実の季節なのだな。とぼんやりと思った。
 花が咲き、散り、そのあとには実がなる。あと一週間もすれば、つやつやと赤く光る桜の実を見ることができるだろう。花の咲く頃に唐突に始まった自分の恋は、とうとう実を結ぶことはなかったけれど。
 夕風が吹いて枝が揺れる。その瞬間、桜の木の下で一度だけ見た彼女の顔が蘇って、芳郎はぴたりと足を止めた。ああ、ダメだ。まだ彼女のことが忘れられない。
 「ごめん、前島。俺やっぱり……」
 回れ右をして来た道を戻ろうとした芳郎の腕を、前島が慌てて掴む。
 「ここまで来て帰るなよ。とにかく一度会ってけって。……ほら、向こうももう来てる」
 あの子だ、見てみろ。と言われて芳郎は嫌々顔を上げた。次の瞬間に目に飛び込んできた人物の姿に、芳郎は身動きができなくなった。
 もしかして。
 いや、まさか。
 長い黒髪、白い肌。華奢な手足、ぽってりとした唇。
 呼吸を止めて一つ一つ確かめる。隣に立つ前島の彼女に促されたらしく、彼女が顔を上げた。丸くて大きな瞳がこちらを向く。真っ直ぐな視線を感じたとき、間違いないと確信した。同時に、身体の中にある音叉が再び震え始める。
 桜が咲いていたあの日、駅で一瞬すれ違った彼女が、芳郎の前に立っていた。
 「橘小春ちゃん。うちのサークルの二年生」
 前島の彼女の紹介に、芳郎はぎくしゃくと頭を下げた。隣で前島が何やら芳郎のことを喋っているようだったが、ほとんど耳に入らなかった。ほんの短い時間、線路ごしに見ただけだった彼女の顔が、今はほんの数十センチ先にある。
 「高橋です」
 よろしく、と言うと彼女……橘小春は芳郎を見上げてふわりと微笑んだ。
 「こちらこそ……」
 嘘じゃない。夢じゃない。幻じゃない。
 彼女は確かにここにいる。
 初めて聞く彼女の声に、芳郎の中の止まっていた時間が再び動き出した。


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