<花と恋わずらい (前編)>

 四時間目の講義の終わりを告げるチャイムと同時に、木崎芳郎は広げていた教科書をバタンと閉じた。授業後もしばらく教室に残って雑談をする学生達をよそに、机の上に散らばったノートや筆記具をかき集め、デイバックの中に放り込む。
 何かに急かされるように帰り支度をする芳郎に、友人の一人が後ろの座席から声をかけた。
 「なあ芳朗、お前今週の土曜暇…」
 「ごめん、急いでるんだ。明日にしてくれないかな。急用だったらメールで!」
 慌しく立ち上がりながら早口でそう言うと、デイバックを右肩に引っ掛け、まだ教壇の上で学生からの質問を受けている教授の脇をすり抜けて教室を飛び出した。そのままの勢いで、薄暗い廊下を全速力で駆け抜ける。
 校舎中に響き渡るような慌しい足音がみるみる遠ざかっていく様に、残された友人達はきょとんとした顔を見合わせた。
 「あいつ、何をあんなに急いでいるんだ?」

 今日は、今日こそは彼女に会えるだろうか。

 大学最寄の駅に着くと、芳郎は真っ先に改札口の真上に設置された電光掲示板を見上げた。午後四時二十分発の下り列車がまだ来ていないことを確認しながら改札を通り、下り列車用のホームへと続く階段をまるで転がるような勢いで駆け下りる。
 午後の『夕方』と呼ぶにはまだ少し早い時間帯、ホームはスーパーの袋を片手に提げた買い物帰りと思しき中年の女性や、制服姿の高校生などで賑わっていた。皆、本を読んだり、友人と話をしたり、携帯電話を扱ったりと思い思いの事をしながら電車を待っている。ともすれば、「風景」として認識してしまいそうな、顔も名前も知らない大勢の人々。その中からただ一人を見つけるために、芳郎は今日もホームをきょろきょろと見回した。
 今日は、今日こそはいるだろうか。期待と不安の入り混じった思いで人波に目を走らせる。
 けれど、彼の人探しは成功しなかった。ホームの端から端まで歩いてくまなく探したというのに、階段の脇にも自販機の前にも、探している人物の姿はどこにもない。
 芳郎は僅かに嘆息すると、傍らのベンチに腰を下ろした。足を投げ出し、頭上を仰いだその先には、大きな桜の木。ミツバチが小さな羽を懸命に動かして花の周りを飛び回っている。
 ホームの脇の地面から生えたこの桜の木の花は限りなく白に近い薄紅色で、とても美しい。空一杯に枝を広げるその姿は何とも言えず堂々としたもので、この駅の一種の名物になっていた。
 そう言えば、あの頃には花はまだ半分程度しか咲いていなかった。芳郎は、数日前にこの場所を頭の中に思い描いた。

 あの日、彼女は確かにこの場所にいた。

 新学期が始まって最初の週の授業は、簡単なオリエンテーションだけしかやらないという教授は多い。その日の四時間目も例外ではなく、白衣に黒ブチ眼鏡の教授は授業についての簡単な説明と注意点をボソボソと喋り、聴講届けを集めると、授業開始から僅か十五分で教室を出て行ってしまった。
 授業はそこで終わったのだが、芳朗はそのまますぐには帰らずに周りの友人達と世間話を始めた。約二ヶ月間の長い休みの後だ、春休みの間の出来事や今期の時間割についてなど話すことは山ほどある。ほんの十分ほどのつもりだったのが、思いのほか盛り上がってしまい、結局教室を出たのは、あと二十分足らずで四時間目の授業が終わるという時間になってからだった。
 いつもよりも少しだけ早い時間に駅に着き、改札を通ってホームに立った。吹いてくる風は温かく、しかし、ほんの少しの湿気と冷たさを帯びている。僅かに西に傾いた日の光がホームに斜めに差し込んで、庇の下で電車を待つ彼の足元を暖めた。心地良く、気だるげな春の午後。芳郎は、こみ上げてきた欠伸をかみ殺しながら何気なく反対側のホームに目をやった。
 線路を挟んだ向こうには、古い大きな桜の木。焦げ茶色のゴツゴツとした幹は太く立派で、広げた枝にはまだ開いていない無数の蕾が開花の時が来るのを今や遅しと待ちわびている。半分ほど花を付けたその木の下に、彼の視線は吸い寄せられた。
 下り列車用のホームの端に、桜の枝を庇代わりにして置かれたベンチ。そこに、一人の女性が座っていた。恐らくは彼と同じ位の年頃だろう、少女から大人の女性になろうかという、僅かにあどけなさの残る顔立ち。伏せられた目は、手元に広げられた文庫本の文字を追っていた。癖のない、真っ直ぐな髪が風に吹かれて柔らかそうに揺れていた。

 彼女の姿が視界に入った瞬間に、自分の体の内側にある何かが大きく震えたような気がした。丁度胸の辺りに音叉が入っていて、それを誰かに思いきり叩かれたような奇妙な感覚。振動は体の中を一瞬の内に駆け巡り、握り締めた手の中の指先を震わせた。
 まるで、時が止まったかのようだった。一秒一秒が、ひどく永い。
 芳郎は息をすることさえも忘れて、目の前にいる彼女に見入っていた。時折ページを捲る細い指先から、風に揺れる長い髪から、目を離す事が出来なかった。枝から離れた薄紅色の花びらが一片、彼女の髪の上に舞い落ちた様は、まるで一枚の絵のように眩く、美しかった。
 あの髪に触れてみたい。声を聞いてみたい。今は伏せられている目を、正面から見つめてみたい。
 彼の中の音叉は、未だに鳴り止まない。ひどく大きく切迫したその音色に体の中を掻き回されて息苦しさを感じ始めた時、不意に彼女が顔を上げた。
 目が合った、と思ったのは気のせいだろうか。線路越しに飛んでくる、彼女の真っ直ぐな視線。
 芳郎は、握った拳に更に強く力を込めた。こみ上げてくる何かをゴクリと飲み下す。
 「……あ」
 いつの間にかカラカラに乾いた喉の奥から必死で絞り出されだされた声は、けたたましいベル音とアナウンスの声に掻き消された。その音につられるかのように、読んでいた文庫本を鞄の中にしまって立ち上がる彼女。ホームに入ってくる電車の姿を確認するその横顔が、白地に青のラインが入った車両に遮られて見えなくなった。
 それから数秒遅れて、彼の目の前に特急列車のつるりとした灰色の車体が止まる。海沿いの大きな街まで行くのだというその特急列車が動き出し、再び反対側のホームが見えるようになった時には、彼女の姿はすでにそこには無かった。
 人気のないホームで芳郎は一人立ち尽くす。力なく垂らされた右腕から、デイバックがぼとりと落ちた。
 急に色あせてしまった風景の中、空っぽのベンチの上で揺れる桜の薄紅色だけが鮮やかだった。

 それからというもの、芳郎は毎日講義終了のチャイムと同時に教室を飛び出し駅へ急ぐと、あの日彼女がいたのと同じホームの同じ場所に立って彼女の姿を探した。
 彼女の住んでいる場所も、学校も、名前すらも知らない。分かっているのは、下り列車を利用していると言う事くらいだが、これだって確実な情報だというわけではない。再会を期待するには手がかりはあまりにも少ない。
 それでも、あの日と同じ時間、同じ場所にいれば彼女に会えるような気がして、彼はホームで待ち続けた。
 ベンチに浅く腰掛けて、電車を乗り降りする大勢の中から彼女を探そうと目を凝らす。一台、また一台と電車がホームに入り、ホームから出て行く。その度に数十人もの人が彼の目の前を通り過ぎたが、その中のどこにも彼女の姿はなかった。
 こうして電車を見送りながら一時間ほど過ごした後で、芳郎は小さく溜息をつくとベンチから立ち上がった。今日も何の収穫も上げられなかった。デイバックを引きずるようにしてのろのろとホームの上を歩く。
 改札口へと続く階段に足をかけたところで芳郎は立ち止まり、ふと後ろを振り返った。
 あの日、まだ半分ほどしか花をつけていなかった桜の木は、今では枝がしなるほどに花を咲かせていた。薄紅の花びらは風が吹くたびにパッと宙に舞う。その美しくも儚い様子にあの日の彼女の姿を重ね合わせて、芳郎は視線を落とした。

 もう一度、彼女に会いたかった。

 彼女が自分と同じ世界にきちんと存在しているのだと言う事を確かめたかった。
 あの日見たのは、桜の見せた幻でも、春の日の昼下がりの白昼夢でもないのだという、はっきりとした証拠が欲しかった。

 早く、早く彼女に会いたい。
 桜の花が散る前に。
 あの日の出会いが、幻になってしまう前に。


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