ハナミズキ

<どこにもいけない(2)>

 「三百二十円のお返しです。ありがとうございましたー」
 気だるげな動作でつり銭と品物を差し出すアルバイト店員に軽く会釈をして、貴之はコンビニを出た。小さなビニール袋の中には、シャープペンシルの芯とカップ麺。夜遅くまで勉強していると腹が減って仕方がない。特に体を動かすわけでもなく、延々と椅子に座っているだけなのに、頭を使うということは案外エネルギーを使うものらしい。受験太りしなけりゃ良いけど、と思いながら、貴之は店の前に停めた自転車に鍵を差し込んだ。
 あと数十分で日付も変わるかという時間だというのに、飲食店やコンビ二には明かりが煌々と点っていて、辺りはぼんやりと薄明るい。次々と通り過ぎる車のヘッドライトに目を細めながら自転車を漕ぎ出したとき、反対側の歩道に見知った顔を見つけて、貴之は思わず自転車を止めた。
 「幸野……」
 視聴覚準備室での一件以来、貴之は昼休みにも教室で過ごすことが多くなった。センター試験も終わり、二次対策の授業に入った今は、登校する日にちも時間も不規則で、クラスの違う瑞樹や聡子と顔を合わせる機会はほとんどない。
 一ヶ月振りに見た瑞樹は、遠目にも分かるほど憔悴していた。以前よりもさらに細くなった手足をぎこちなく動かして、ふらふらとこちらへ歩いてくる。あまりに頼りない足取りに、貴之は思わず瑞樹の名前を呼んだ。
 「幸野」
 貴之の声が届いたのか、瑞樹は顔を上げた。虚ろだった目が貴之にその焦点を合わせると共に、軽く見開かれる。貴之は自転車をその場に置いて横断歩道の真ん中で立ち止まってしまった瑞樹の元へ歩いて行くと、彼女の腕を掴んで元来た方へと戻った。
 「榎本……こんな所で何しているの?」
 心底意外だという顔で尋ねる瑞樹に、貴之は手に持ったコンビ二の袋を軽く振って見せた。
 「夜食の買出しに。お前こそ……何やってるんだ?こんな時間に」
 瑞樹が住んでいるのは、隣町にある新興住宅地だ。ここから電車で数駅分走ったところにある。終電もそろそろ出ようかというこの時間、貴之のようにこの辺りに住んでいるというならまだしも、高校生の女の子が制服姿で出歩いているのはあまりにも不自然だ。
 貴之の問いかけに、瑞樹は気まずそうに俯いた。
 「……ちょっと、ね。忘れものしちゃって。取りに戻ってたの」
 そう言いながら、瑞樹はコートの襟元から彼に貰ったのだというペンダントを取り出して見せた。その手の甲には、小さな擦り傷。貴之は瑞樹のコートの裾から覗いた、プリーツの取れかけたスカートから目を逸らした。俺は何を聞いているんだ、彼女がここにいる理由なんて考えなくても分かりそうなものなのに。
 不用意な質問をしてしまった自分を呪いながら、貴之はふうんと気のない返事をして、自転車の籠を瑞樹に向けた。
 「鞄、乗せろよ。駅まで送ってく」
 瑞樹がありがと、と小声で言いながら、遠慮がちに学校指定の鞄を自転車の籠に積んだ。鞄の重さの分だけ少し力を入れてハンドルを押すと、自転車はゆっくりと動き出した。

 「早いよね。もう一月なんて」
 「そうだな。ついこの間、三年になったと思ったのに」
 貴之はそう言いながら、九ヶ月前を思い出す。記憶の中の瑞樹は、曇りのない笑顔を浮かべていて、貴之の胸はかすかに疼いた。
 部活をしていた頃には毎日数え切れないほど話題があったというのに、今はこうして並んでいても何を話せばいいのか分からない。言いたいことはたくさんあるはずなのに、口にできないもどかしさを感じながら、うわべを探るようなお喋りは続いていく。
 「センターはどうだった?」
 「どうにか足切りは免れるかなって感じだよ。あとは二次頑張らないと」
 「医学部だっけ?榎本、頭いいもんねえ」
 感心したようにそう言い、ほう、と溜息をついた瑞樹の横顔を、貴之は横目でそっと見下ろした。センター試験の三日前、瑞樹が熱を出して学校を休んだことは聡子から聞いて知っている。彼女は、自分が納得するような形で試験を受けることができたのだろうか。
 「しかし、大学受験ってハードだよな。今になって思えば、高校受験は楽だった」
 「科目も多いもんねえ。朝から晩まで授業はあるし、学校は遠いし」
 あ、榎本は近いんだっけ、と瑞樹は笑った。

 「最近、夜布団に入るときが一番幸せなのよね」
 「あ、それ分かる」
 貴之が相槌を打つと、瑞樹は、でしょう、と頷いた。
 「何にも考えなくていいのって、寝てるときだけだよ。このままずっと夜ならいいのにと思っちゃう」

 最近ね、思うんだ。
 明日が来なければいいのに、ずっと目が覚めなければいいのにって。

 明るさを装った瑞樹の言葉に、貴之は顔をしかめた。
 そんな悲しいこと、笑いながら言わないでほしい。
 今にも折れそうなくらいに痩せた体で、青白くやつれた顔で、どうして笑うことができるんだ。
 諦めたような笑顔はもう見たくない。
 それならいっそ…………。

 「そんなこと考えるなんて、私も大概怠け者だよね……っ!?」
 気が付けば、貴之は瑞樹の腕を掴んでいた。制服とコートに包まれた彼女の腕は想像以上に骨ばっていて、やるせない気持ちになる。
 こんなになっても、まだヒウラさんがいいのかと思うと、悔しくて悲しくて腹立たしかった。
 どこに向ければいいか分からない感情に突き動かされるように、貴之は瑞樹の体を引き寄せた。
 自転車が倒れるのも気にせずに、瑞樹を抱きしめる。

 今までずっと隠してきたのに、どうして今なんだと頭の中でもう一人の自分が叫んでいた。
 あと一ヵ月半黙っていれば、ずっといい友達でいられたのに、と。
 けれども、仕方ないじゃないか。もう限界だったんだ。
 自分の想いに蓋をするのも、磨り減っていく彼女を見ているのも。

 「瑞樹」
 もうやめろよ、と貴之は心の中で繰り返す。
 ペンダント一つ忘れたくらいで、夜中に呼び戻す男なんて。
 取りに行かないと駄目になるような関係なんて。
 何かに怯えるような恋なんて。

 「……っ、榎本」
 瑞樹が咎めるような声を出して離れようと身じろぎしたが、貴之は腕を緩めなかった。瑞樹の小さな体を包み込むように、腕の中に閉じ込める。
 「榎本やめて……」
 「頼むから!」
 瑞樹の頭を自分のダウンジャケットに押し付けて、貴之は振り絞るような声で言った。
 「頼むから、平気じゃないのに平気そうな顔をするな。無理して笑うな」
 見ていられない、と瑞樹の肩を抱く手に力を込める。
 「辛いなら、泣いてくれ」
 懇願するように呟くと、瑞樹は肩を僅かに震わせてそれきりおとなしくなった。

 「…………っ」
 一体どれほどの間そうしていただろう、やがて微かな嗚咽と共に、瑞樹の手が貴之のダウンジャケットを掴んだ。
 引き絞るような声で、顔を貴之の胸に押し付けて。
 張り詰めていた糸が切れたかのように、瑞樹は涙を流した。彼女が今まで抱えてきたものが零れ落ち、アスファルトに吸い込まれて消えていく。
 思い切り泣いて、全部吐き出してしまえばいい。
 俺は全部見てるから。
 貴之は、小さな子どもが母親にするように自分にしがみついて、手放しで泣く瑞樹の背中を、そっと撫でた。
 時折八つ当たりのように胸に打ち付けられる拳すらも、堪らなく愛しくて、それ以上に悲しかった。


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