ハナミズキ

<どこにもいけない(3)>

 静まり返った教室に、紙の上をシャープペンシルの芯が走る音が静かに響く。
 貴之は藁半紙に印刷された解答欄を複雑な計算式で埋めていく。最後の答えを書き終えるとほっと大きな息が漏れた。
 息をするのも忘れるほどに目の前の問題に没頭しているときの心地よい緊張感と高揚感が、貴之は好きだった。数学に限らず、複雑に絡み合った数式や化学式を、いくつもの法則が用いられた構文を少しずつ解きほぐしていると、どこまでもやれる、何でも解ける、という気分になることがある。そういうときには、一瞬何もかも忘れるのだ。間近に迫った試験のことも。瑞希の涙も。初めて抱きしめた、震える肩の感触も。
 貴之はシャープペンシルを机の上に置くと、プリントにびっしりと書き込まれた回答をぼんやりと眺めながら、数十分後にやってくる昼休みのことに思いを馳せた。
 今日は貴之たち三年生の最後の授業日だ。明日からは自由登校期間に入るため、今日の昼休みは貴之たちがこの学校で級友たちと過ごす最後の昼休みになる。  その最後の昼休みに行われる、『最後の部活動』に、彼女は果たして来るだろうか。
 手の甲を濡らした彼女の涙の冷たさ思い出して、彼はそっと目を伏せた。

 「瑞希」
 午前中の授業が終わり、昼食を教室の外で取ろうと瑞希が席を立ったとき、不意に聡子に背後から呼び止められた。
 最近ではほとんど言葉を交わさなくなった彼女から名前を呼ばれたことに内心で身を竦ませながら振り返ると、聡子は何も言わずに瑞希の手を掴んだ。
 「聡子?」
 「一緒に来て」
 『最後の部活動』があるの、と聡子は瑞希を振り返らずに言った。
 「高校最後の昼休みに、皆でもう一度放送をかけたくて、有紀ちゃんたちや先生に頼んでたの。瑞希もやってくれるでしょう?」
 私たちの代の放送は、瑞希の声がないと始まらないんだから。
 怒っているような、泣いているような声でそう言うと、聡子は瑞希の手をぎゅっと強く握った。まるで、そうしないと瑞希が逃げてしまうと思っているかのように。
 それきり黙ってしまった聡子に手を引かれて、瑞希は久しぶりに防音処理の施された重たいドアの取っ手に手をかけた。数ヶ月ぶりに入った視聴覚室には、懐かしい仲間の顔があった。
 その中に、何でもない顔をして一人機材の調整をする貴之の横顔を見つけて、瑞希はさりげなく目を逸らす。何となく、貴之の顔を正面から見ることができない気がした。
 「早く、もう始めるよ」
 促されるままにマイクの前に置かれた椅子に座ると、もう一人のアナウンス係の友人が、原稿を渡してくれた。
 「本番いきます」
 貴之の声が、放送開始のカウントダウンを始める。時間が、巻き戻っていく。
 瑞希は目を閉じ、息を吸い込んだ。
 「こんにちは。東陽高校放送部です。今日は久しぶりの三年メンバーでお送りします」
 久しぶりに座るマイクの前で心なしか早くなっていた鼓動も、原稿を読んでいるうちにだんだん落ち着いてくる。
 番組の内容は、瑞希たち三年生の高校生活の総集編とでもいえるようなものだった。
 いつの間にか学年中から集めていた「思い出の曲」や「今だから言えるメッセージ」などを二十分ほどの時間の中で次々と紹介していく。
 「『田中先生、ごめんなさい。先生のヅラを隠したの、実は俺です』五組匿名希望さんからの懺悔でした。では、次の曲です……」
 謝罪の言葉は少し口ごもるように、励ましの言葉は元気よく。瑞希はメッセージによって声の雰囲気を変えながら読み上げた。番組が進むにつれ、現役の頃の感覚が蘇ってくる。それは、久しぶりに瑞希の心を高揚させた。
 機材係、進行係、アナウンス係。それぞれの仕事のリズムがうまく噛み合う心地よさ。一つのものをつくっているという一体感。
 忘れかけていた『話すこと』の楽しさが、将来の夢が、瑞希の心に浮かび上がってくる。
 「瑞希」
 謝罪の言葉の特集が終わり、曲が流れ始めたとき、そっと肩に置かれた手に、瑞希は振り返った。
 「今まで余計なこといっぱい言ったりしたりしてごめん。もう言わない。けどね」
 瑞希は首を逸らせて自分の背後に立つ聡子を見上げた。周りの仲間に聞こえるか聞こえないかというほどの声で、聡子は話す。放送室の防音材でできた壁に視線を合わせ、一度もこちらを見ないままで。
 「私たちは、もっと欲張りになっていいと思う。何かを選ぶために別のものを諦めるのは、もっと先でいいんだよ」
 「聡子……」
 瑞希がこの「最後の部活動」の計画を知らされたのはつい先ほどだが、今流している番組が一朝一夕で準備されたものではないということは、原稿を見ただけで分かった。
 去年の三年生たちが、このように最後の全体登校日に昼の放送をかけたという記憶はない。
 この番組は、自分のために用意されたのだ、と瑞希は思った。
 聡子や、貴之や、仲間たちが、自分を励ますために作ってくれた番組なのだ、と考えるのはきっと自惚れではないはずだ。
 皆、今日のために試験前の貴重な時間を削って準備に奔走したのだろう。瑞希がアパートの一室に閉じこもっている間に。
 あまりに自分本位だったこの数ヶ月を思い出して、瑞希が恥じ入るように俯くと、広報から声が飛んできた。
 「幸野、沢木、そろそろ曲止めるぞ」
 「さあ、もうひと喋り頑張って」
 聡子にぽんと肩を叩かれて、瑞希は顔を上げた。
 貴之が、聡子が、皆が自分を見守っているのを確かに感じる。数時間前には煩わしいとさえ思っていたそのことが、今はたまらなく温かくて懐かしい。
 ああ、私はこうして皆に支えられながら、皆と助け合いながらアナウンスをやってきた。
 今も、朋樹のことしか見えず、他を省みようとしなかった瑞希に、こんな最高の思い出を作らせてくれている。
 一人ではないのだと、瑞希はそのときはっきりと思った。
 今まで自分を取り巻いていた霧が晴れた、そんな気がした。


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