ハナミズキ

<どこにもいけない(1)>

 スチール製の扉が閉まる重たい音に、瑞樹は目を覚ました。薄く目を開けて玄関の方に首を向けると、隅に満杯のゴミ袋が置かれたたたきには、瑞樹の靴一足だけが所在なさげに揃えられていた。そういえば、七時半から飲み会があると言っていた。どうやら自分は、随分長い間ここでこうしていたらしい。

 朋樹は出かけるときに暖房を切って出て行ったらしく、部屋の中は冷え始めていた。瑞樹は肌を撫でる冷たい空気に身震いをすると、緩慢な動作で寝返りを打った。年末にクリーニングに出したばかりのスカートは、やはり皺だらけになってしまっていた。
 「着たままは嫌って言ってるのに」
 ブラウスのボタンを留めながら、瑞樹は小さな声で不満を漏らした。首周りがゴムになっている飾りネクタイを付けようと枕元を探ったが、どうにも見つからない。ベッドの下に落ちたのだろうかと身体を動かした瞬間感じた違和感に、瑞樹は顔をしかめた。
 「…………」
 朋樹は最初だけだ、と言っていたけれど、何度身体を重ねても身体の奥に走る、まるで何かを削り取られるような痛みは消えていってはくれなかった。求められる度に、やってくるであろう不快感に怯えていることは、瑞樹一人だけの秘密だ。朋樹に言ったら、きっと自分は捨てられてしまうだろうから。痛がってばかりの「彼女」なんて、彼はきっと欲しくない。
 彼の不満そうな表情と不穏な声は、いつだって瑞樹の心を竦ませた。機嫌を損ねた朋樹に、まるで塵でも見るかのような冷たい目で見られる時の絶望感を思えば、多少の痛みを我慢することなど何でもない。
 そう、平気だ、と瑞樹は心の中で呟いた。痛みに気が付かないふりをすることも。誰もいない部屋で、不自然に寄った制服の皺を気にしながら身づくろいをすることも。

 軋む身体に力を入れて、瑞樹はベッドの上に起き上がった。まだ包帯の取れない左手を庇いながらブラウスのボタンを留める。怪我をする前の倍の時間をかけて身なりを整えながら、瑞樹は玄関脇にある台所に目をやった。単身者向けのアパートらしい、狭い調理台の上には、アルミ製のボウルが置かれていた。
 一年以上一人暮らしをしているにも関わらず、朋樹はほとんど料理をしない。どうしてあんなところにボウルが置いてあるのだろうかと一瞬疑問に思ったが、調理台の隅に立てかけられたまな板が濡れているのに気づいてすぐに、ああそうかと納得した。恐らく、あのボウルの中に入っているのは一口大に切られた野菜だろう。冷蔵庫の中には、同じように処理された肉が入っているに違いない。今日はカレーを作ってあげると約束していたから、朋樹が材料の下ごしらえをしていってくれたのだ。
 瑞樹が左手を怪我して両手を自由に使うことができなくなってから、朋樹は包丁を使わなくてはならない作業を引き受けてくれるようになった。以前は瑞樹が洗うまで何日もそのままだった洗い物も、最近はこまめにやってくれている。右手だけでも扱いやすいように、小さめの片手鍋をコンロの上に置いていってくれた朋樹は優しい。

 カーテンの隙間から見える外は、既に真っ暗だった。早く作ってしまわないと、と立ち上がった瑞樹の足元で低い振動音がした。見ると、床に放られた制服のブレザーの胸ポケットの辺りが微かに光っている。瑞樹はブレザーを拾って袖に腕を通しながら、携帯電話を開いた。新着メールが五件、通話着信が一件。
 年が明けてから届くメールは、試験や卒業に関係した話題のものがほとんどで、自分は受験生なのだということを改めて感じる。専門学校への入学が決まったという中学時代の友人に祝いの言葉を送った後に開いたメールの差出人の名前に、瑞樹は顔を曇らせた。
 メールは、聡子から送られてきたものだった。塾の授業の開始直前に送信したのだろう、始業時間になっても教室に現れない瑞樹を心配する言葉のあとに、部の後輩から預かったという連絡事項が書かれていた。
 視聴覚準備室でのあの言い争い以来、聡子と瑞樹の間には気まずい空気が流れていた。もちろん、互いに相手を嫌いになったわけではないし、顔を合わせれば挨拶もする。けれども、以前のように気軽に声を掛けて他愛のない話をすることはなく、視線が合えばどちらともなく目を逸らしてしまうような日々が続いていた。
 聡子と瑞樹の性格は互いに全く違う。そのせいか、これまで極端に突き放すことも干渉することもなく、程よい距離感で付き合うことができていた。一緒にいてとても楽な気持ちになれる友人だ。そんな貴重な友人が遠い存在になってしまったことを、瑞樹は寂しく思うと同時に、心のどこかで安堵してもいた。
 聡子はとても勘がよく、そして真っ直ぐだ。もしもこのまま彼女の側にいれば、きっと何もかも気づかれてしまうだろう。受験直前のこの大切な時期に瑞樹がどこで誰と何をしているか、聡子が知れば、自分のことを軽蔑するに違いない。だから、距離を置くことができて良かったのだ。こんな自分、聡子にも貴之にも知られたくない。

 メールの後半には、三月の卒業式のあとに開かれる、部の追い出し会の出欠を取りたいという内容の文が書かれていた。
 『有紀ちゃんから、メールしたけど返事がないから聞いておいてくださいって頼まれたの。忙しいと思うけど、できるだけ早く返事してあげてね』
 「……分かってる」
 二週間前に来た有紀からのメールは、今でも携帯電話の受信フォルダの中に入っている。会の開始時間は十四時。場所は食堂。卒業生は一度校門脇に集まって、会が始まった直後に全員そろって会場入りするのが毎年の習いだ。
 物の散乱する床の上に腰を下ろしてベッドに背を預けると、瑞樹はこれまでに自分が参加した追い出し会を思い出した。部の一、二年生が卒業生のために開く追い出し会は、毎年それぞれに趣向を凝らしたとても盛大なものだ。去年の今頃、聡子や貴之と一緒に出し物の衣装や会場を飾る紙の花などを普段の活動の合間に一生懸命作ったのを、瑞樹は懐かしい気持ちで思い出した。
 「行きたいなあ…………」
 三年間一緒に頑張ってきた仲間と、高校生最後の時間を楽しみたい。後輩たちがどんな会を開いてくれるのか、自分たちがいなくなった後の部がどんな風になっているのか、実際にこの目で見てみたい。

 けれど。

 卒業式の後は二人で過ごそうと言った朋樹の顔を思い出して、瑞樹は溜息をついた。最近の朋樹は、瑞樹が彼女だけの世界を持つことを嫌う。朋樹が予定を空けているにも関わらず、瑞樹が別の友達と一緒に楽しい時間を持つことを、彼は良くは思わないだろう。そう思うと、朋樹に追い出し会の話を切り出すことができなかった。
 ひょっとしたら、朋樹は笑って「言っておいで」と言ってくれるかもしれない。けれどもそれは本当に低い確率の話で、そんな僅かな「もしも」のために彼の機嫌を損ねてしまいかねないことを口に出す勇気は、今の瑞樹にはなかった。
 朋樹に追い出し会のことを切り出すのが怖い。けれども、部の同級生や後輩に会いたい気持ちは大きくて、きっぱり断って誘いをなかったことにすることもできない。どちらの選択にも落ち着くことのできない心が重くて、苦しくて、瑞樹は抱えた膝の間に顔を埋めた。

 埃の積もったフローリングの目地をぼんやりと眺めながら、瑞樹は、世界がもっと狭ければいいのに、と思った。
 世界がもっと狭ければ、例えば、このアパートの部屋のほかには何も存在しなければ、こんなに悩むことはないのに。
 この部屋の中に閉じこもって、ずっと朋樹のことだけを見ていられれば楽なのに。そうすれば、朋樹を怒らせることも不安にさせることもないのに。
 けれど、それでは自分は満足できないだろう。きっと、外の世界が見たくなる。

 本当に好きな相手が側にいさえすれば、他には何も欲しくないのだ、と朋樹は言った。だから、自分は瑞樹さえいればそれでいいのだ、と。
 瑞樹もそう思いたかった。けれど、朋樹だけを見ようとすればするほど、他のものが欲しくなる。家族や友達との時間も、将来の夢も、諦めることができなくなる。

 どうしてこんなにもうまくいかないのだろう。
 きっと誰にでもできる簡単なことなのだろうに、実行できない自分は本当にいたらない。

 多くを欲しがる自分の浅ましさに、瑞樹は唇を噛み締めた。
 閉じたカーテンの隙間から街灯の明かりが差し込んで、ローテーブルの上に置かれた揃いのマグカップを照らした。緑と黄色のマグカップに描かれた四葉のクローバーの模様が、涙で滲んで見えた。


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