ハナミズキ

<ほつれた想い(3)>

 「過労」
保健室に運びこまれた瑞樹をベッドに寝かせながら、養護教諭の中川公子はぴしゃりとそう言った。愛想の欠片もないその声に、貴之は自分が言われたわけでもないのに、廊下に立たされた小学生のような気持ちになる。
すらりとした長身と涼しげな目元が印象的なこの学校の養護教諭は、その外見からは想像もつかないほど愛想のない口調で話し、しかも言うことに容赦がない。理由もなく休もうとする生徒が来れば「帰れ」の一言で教室へ追い返し、体調の悪い生徒にも「自己管理がなってない」と持ち前の毒舌で説教する。そのせいか、校内で数少ない冷暖房が完備された部屋であるはずの保健室は、いつ来ても閑散としていた。
「しばらくここで寝かしときなさい。先生には言っとくから」
それきり黙ってベッドの側の窓のカーテンに手をかける中川に、貴之は思わず反論の声を上げた。
「でも、熱が」
放送室で倒れた瑞樹を保健室へ運んだのは貴之だ。今は青白い顔をして眠っている彼女の、抱え上げるときに触れた手は驚くほど熱かった。貴之に抱えられている間も、保健室に運び込まれた後も、瑞樹は一度も目を開けなかった。彼女の呼吸に合わせて上下する掛け布団の動きは本当にかすかで、このまま瑞樹が消えてしまうのではないかと不安になる。
「これは手の傷のせい。縫ってるんじゃないの?これ」
中川はそう言うと、布団の端からはみ出した瑞樹の左手を、持っていたボールペンで指した。
「あんたたち、三年でしょう。こんな時期に怪我するなんてついてないね」
 左手だから良かったけれど、と言いながら、中川は窓際に置かれた机の椅子に腰を下ろした。一番下の引き出しから取り出された分厚いファイルは、おそらく生徒の健康調査の書類を挟んだものだろう。中に綴じられた書類を、中川は慣れた手つきでめくっていく。紙のこすれる音が、エアコンの低い作動音に重なって響いた。
 「あんたたちも知らないかもしれないけど」
 そう前置きをして、中川は貴之と、彼の隣に立つ聡子の方をちらりと見た。
 「幸野さん……だっけ?この子一体、どんな生活してるの?」
 手元の書類に目線を落としたままの中川に鋭い口調で問いかけられて、貴之と聡子は思わず顔を見合わせた。瑞樹が精神的にも肉体的にも厳しい状況にあることは、最近の彼女の様子から容易に察することができたが、その状況が実際にはどのようなものであるのか、実のところ貴之はよく知らなかった。瑞樹の母親とも顔見知りで、彼女について貴之よりも多くのことを知っているであろう聡子が戸惑いの表情を浮かべているのは、彼女も瑞樹の置かれている状況について詳しく知らないからなのだろうか。それとも、知っているけれど話せないからなのだろうか。
 二人のうちどちらからも質問の答えが返ってこないことを気にする風もなく、中川は続けた。黒い細身のパンツに包まれた長い脚を組みかえる。
 「肌はカサカサ、目の下にはクマがくっきり。体重だって、四月に量ったときから多分かなり落ちてるだろうね。栄養も睡眠も、全く足りてない」
 養護教諭として、生徒が無茶をするのを黙って見ていることはできないのだろう、ぶっきらぼうな口調にかすかに苛立ちを滲ませて、中川は言った。甲の部分に引っかかった黒いハイヒールが、彼女の足元でゆらゆらと揺れる。
 「試験当日にぶっ倒れるくらい寝ないで勉強したとしても、それは大学には評価されない努力だっていうことはあんたたちだって分かってるでしょう。実力をつけることだけじゃなくて、その実力を必要なときに発揮できるようにすることも、もう少し考えなさい。体調管理も受験のうちなんだから」
 あんたたちに言っても仕方ないんだけど、と小声で付け加えながら、中川はファイルを閉じて引き出しの中に戻した。引き出しに鍵を掛けると、机の上に置いてあった茶封筒を手に取り、ドアの方へ歩きだす。
 「職員室に行ってくる。あんたたちは、早く教室に戻りなさい」

 鍵はそのままで良いから、と言いながら、中川はドアを開けて保健室を出ていった。カツカツというやや尖った足音が遠ざかる。
 足音が完全に聞こえなくなった頃、聡子がぽつりと呟いた。ため息交じりの声が、リノリウムの白い床の上に落ちる。
 「私のせいだ。私が、あんなこと言ったから」
 やり場のない怒りと深い後悔の入り混じったその声に、貴之は聡子の方を見た。うな垂れているせいか、斜め上からではその表情を見ることができないが、きっと今にも泣きそうな顔をしているのだろう。いつもは真っ直ぐに伸ばされた背中が、今は随分と丸まって見える。
 「ごめん、瑞樹」
 助けるつもりだったのに。
 聡子の謝罪にも、瑞樹は目を覚まさない。睫毛一本動かすことなく、眠り続けている。いつもは桜色をした唇も、血の気の引いた色をしているのに気づいて、貴之は胸の奥がざわつくのを感じた。
 保健室という役割のためか、この部屋の中は何もかもが白い。出入り口のドアも、端が破けたカーテンも、壁も、瑞樹の眠るベッドの鉄柵も。音も色も必要最低限しか存在しないこの部屋の空気は、校内の他の教室のものとは明らかに違っていて、呼吸をするたびに体の中が重く白く染まっていくような気さえする。そんな無機質な部屋の中で眠る瑞樹は、本物の重病人のようで、貴之は彼女の肩を揺すって名前を呼び、無理やりにでも起こしてしまいたい衝動に駆られた。

 「幸野」と名前を呼んで、軽く頬を叩いて。目を覚ました瑞樹は、自分の枕元でうな垂れている友人二人を見て笑うだろう。「どうしたの?そんな顔して」と邪気のない顔をして言う瑞樹に、聡子は「人を散々心配させて」と文句を言いながら安堵の表情を浮かべるに違いない。そうして、何もかも元通り。視聴覚準備室での言い争いも、瑞樹の怪我も全部悪い夢だったのだ。三人でいつもの通りに軽口を叩いてそれぞれの教室に帰って……。

 「瑞樹はばかよ」
 聡子の張り詰めた声に、貴之ははっと我に返った。頭の中に広がっていた都合の良い想像が一瞬にして色を失い、粉々に砕ける。頭の中で聞いた瑞樹の笑い声や、聡子の安堵のため息の欠片がぱらぱらと落ちていくのを感じながら、貴之は聡子の方を振り向いた。
 「こんなになるまで振り回されて。やりたいことも諦めて。そんなにあいつがいいの?」
 瑞樹を見つめる聡子の表情は固い。貴之は何も言えずに、白い布団カバーの所どころに寄った皺に視線を落とした。
 「私、恋愛ってもっと良いものだと思ってた」  聡子の言葉の隙間を埋めるように、保健室に面した渡り廊下を通る生徒の声や足音が響いてくる。断続的に近づいては遠ざかるそれは、なぜかひどく耳慣れないもののように感じられた。
 「誰かを好きだと思ったり好かれたりするのって、幸せなことのはずなのに。……今の瑞樹は、ちっとも幸せそうじゃない」
 不意に顔を上げた聡子に正面から見上げられて、貴之は一瞬たじろいだ。真っ直ぐに向けられたその瞳からは、いつものような力強さは感じられない。
 「あんただったらよかったのに」
 「こじ……」
 貴之が静止の声を上げるよりも一瞬早く、聡子はその言葉を吐き出すように口にした。
 「榎本、あいつから瑞樹を奪ってよ。あんた今でもあの子のこと……」
 「小島」
 それ以上言うな。頼むから。
 窘めているのか、懇願しているのか。押し殺したはずの声は、思ったよりもずっと大きく、ずっと尖った音になって室内に響いた。
 自分では意識していなかったが、よほど怖い顔をしていたのだろう。貴之の声と表情に、聡子ははっと口をつぐむと足元に視線を落とした。辺りに流れる気まずい空気に、孝之も聡子から目を逸らす。
 「…………ごめん。私また勝手なこと……。先に教室に戻るね」
 予習し残してたところがあったの忘れてた、と言いながら聡子は丸椅子の上に置いていた瑞樹の鞄とコートを両手に抱えた。
 「荷物は、教室に持っていっておくから」
 聡子は、貴之とは目を合わせずに早口で言うと、まるで逃げるように保健室から出て行った。その場に取り残された貴之はすぐにはその場を立ち去る気にはなれずに、のろのろとベッドの側の丸椅子に腰を下ろした。瑞樹の顔をじっと見つめて彼女が目を覚ましていないことを確認すると、ほっと安堵のため息をつく。

 「…………ほんっと……どうしようもない」
 いらいらして仕方がなかった。行き過ぎたことを言った聡子にではない、こんなときにまで未練がましく「仲の良い男友達」のポジションにしがみつこうとしている自分にだ。
精神的にも体力的にも追い詰められた瑞樹の、折れそうなほどに細い手を取ることができたらと思う。できることなら攫ってしまいたい、彼女を傷つけるものから守りたい、と。
けれど、瑞樹がそれを望んではいないことを貴之はよく知っていた。瑞樹が求めている手は、たった一人の人間のもの。貴之の差し出す手を、瑞樹は取りはしないだろう。困らせたくない、などというのは建前だ。拒絶されるのが怖くて、貴之は瑞樹に踏み込まない。常に一歩離れた場所にいれば、安心して彼女を好きでいられるから。
 「…………ごめん、幸野」

 意気地なしだと思う、最低だと分かっている。けれどそれでも、彼女のことが好きなのだ。諦めることなど、今はできない。

 貴之は身を乗り出すと、ベッドの上に投げ出された瑞樹の右手に手を伸ばした。瑞樹が起きてしまわないように注意しながら、両手でそっと包み込む。

 自分は、ヒウラさんのようには彼女に近づけない。聡子のようには怒れない。ただ黙って、見ていることしかできない。
 だけど、いつも誰よりも願っている。

 どうか、彼女が幸せでありますように。
 出会ったときに見た、花のような笑顔が彼女に戻りますように。

 カーテンの隙間から、午後の弱い日差しが細く真っ直ぐに入ってくる。貴之は何かに祈るように目を閉じた。瞼の裏に感じた光は優しく、暖かかった。


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