ハナミズキ

<ほつれた想い(2)>

 休日の待ち合わせ時間は朝十時。付き合いだしてからできた暗黙のルールに従って、瑞希は朋樹の部屋の呼び鈴を押した。
 朋樹の通う大学のそばにある、鉄筋コンクリート四階建てのアパート。入居者のほとんどが同じ大学の学生というこのアパートで、朋樹は去年の春から独り暮らしをしている。
 家を出るときに見た天気予報で言っていた通り、今日は風が少し冷たい。上着の襟をかきあわせながら、瑞希は朋樹が出てくるのを待った。けれども、どれだけ待っても目の前のドアは開かなかった。
 「……」
 細い指が、躊躇いがちにドアの脇に伸ばされる。再度ボタンを押してみたが、朋樹は出ては来なかった。
 瑞希はドアに近寄り、部屋の中の物音に耳をすませた。テレビの音が聞こえているから、出かけているわけではないらしい。ひょっとして、またテレビを見ながら寝入ってしまったのだろうか。そう考えて、瑞希は眉根を寄せた。
 夜遅くまで起きていることが多いらしい朋樹が、この時間まで眠っているのは特に珍しいことではない。瑞希が彼を訪ねていってようやく目を覚ますということも少なくなく、そのせいでその日一日の予定を変更しなければならなくなることもしょっちゅうだ。週末ごとに早起きをして、眠い目を擦りながらやって来る瑞希としては、約束の時間ぎりぎりまで眠っている朋樹に不満を覚えたりもするのだが、それを口に出したことは今までに一度もなかった。
 「私が遅れると怒るくせに」
 自分は平気で寝坊するんだから、と言いかけて、瑞希は慌てて口をつぐんだ。
 三方をコンクリートの壁や床に囲まれたアパートの廊下は、案外音が響くのだ。小さな声で言ったとしても、部屋の中にいるだろう朋樹の耳に入ることは十分考えられる。今日は模試が終わって最初の休日、先週オープンしたショッピングモールに二人で行くことになっていた。前々から楽しみにしていたのだ、言い争いで今日一日を台無しにするなどということはしたくなかった。
 二度目に呼び鈴を鳴らしてからしばらく待っても、朋樹は出てこなかった。確かに中にいるはずなのに、呼び鈴の音にも気付いているはずなのに、こちらに向かって歩いてくる気配がない。
 もしかしたら、体調が悪くて寝込んでいるのかもしれない。昨日の夜は冷え込みが激しかったから、風邪をひいたのかも。そんな不安が胸をよぎる。瑞希はドアに一歩歩み寄ると、スチール製のそれを二、三度そっと叩いた。
 「……朋樹?いるの?」
 不安と遠慮の入り混じった声で、ドアの向こうにいるだろう人物に向かって問いかける。
 その時、勢いよくドアが開いた。
 唸りを上げてこちらに向かってくる鉄の板を避けて、瑞希はその場を飛びのいた。小さく悲鳴を上げながら開いたドアの方向に視線を向けると、そこには部屋着を着た朋樹の姿があった。何の表情もない顔で、瑞希を冷たく見下ろしている。
 「……とも……っ!?」
 瑞希が名前を呼び終わるよりも早く、朋樹の手が瑞希の腕を捕らえた。どうしたのかと尋ねる間もなく、ドアの内側へ引っ張り込まれる。ドアを開けてから再び閉めるまでの間、朋樹は一度も口を開かなかった。
 片腕を朋樹に掴まれた瑞希は、彼に引きずられるようにして部屋の中に入った。北向きのこの部屋は、昼間でも電気を点ける必要がある。明りを全て落とした室内は、午前中だというのに薄い闇の中に沈んでいた。玄関の脇にある台所の流しに、汚れた鍋が突っ込んである。瑞希が後ろを振り返ると、土足のままの自分の乱れた足跡がフローリングの床に白く残っているのが見えた。
 居間兼寝室になっている六畳間との仕切りのガラス戸を、朋樹が乱暴に開けた。酎ハイの空き缶やゲームのソフトが散乱する部屋の中に、何の言葉も前触れもなく、瑞希を突き飛ばす。突然のことに瑞希はバランスを崩して、山積みにされた洗濯物の上に倒れ込んだ。ローテーブルにしがみついてやっと体を支えると、頭上から朋樹の声が降ってきた。
 「お前、何のつもりだ?」
 「何のこと…………」
 一体何が起きたのか分からない。混乱しながら顔を上げた瑞希は、朋樹の顔を見たとたん呼吸を止めた。
 全ての表情を削ぎ落とした、朋樹の顔。その中でただ一つだけ暗く燃える瞳に、明らかな怒りの色を見たとき、瑞希は自分が何か取り返しのつかない失敗を犯したことを悟った。

 「あれ、幸野は?」
 準備室のドアを開けるなりそう尋ねてきた貴之に、聡子は首を横に振った。
 「朝から来てない」
 弁当箱の中身を突付きながらぼんやりと言う。後頭部の高い位置で一つにまとめた髪が、ふらふらと揺れた。
 「なんだ。模試の解説の続き、やろうと思ったのに」
 貴之は、瑞希の姿がないことに半分安堵し半分落胆しながら聡子の斜向かいの椅子を引いた。これも今日は要らなかったなと思いながら、持ってきたノートや参考書の入った鞄をカーペットの上に置く。軋ませないように注意しながらパイプ椅子に腰掛けると、斜め向かいで弁当を口に運ぶ聡子の顔を見た。
 この部屋で集まって昼食を摂るようになってから随分経つが、貴之と聡子の二人きりという状況になったことはこれまで数えるほどしかない。昼休みにはこうして準備室に入り浸っているとはいえ、既に部活を引退した身だ、共通の話題もそう多くない。三人の中で一番口数の多い瑞希は今日はいない。聞き役二人だけが残された気まずさを感じながら、貴之はコンビニエンスストアの袋から調理パンとペットボトルの飲み物を取り出した。ビニールの擦れる音が、静まり返った部屋の中にやけに大きく響く。
 「風邪かな」
 ペットボトルに口を付けながら、貴之は言った。この学校の校舎は古く、あちらこちらから隙間風が入ってくる。教室内はストーブと人の熱があるためまだ温かいが、授業中人気のない廊下は凍えるほど寒い。午前中の授業の間中ずっと、廊下にあるロッカーの上に置いていたペットボトルの中身は、全く温くなってはいなかった。もしかしたら、店の保冷棚にあったときよりも冷えているかもしれない。
 「だと良いけど」
 聡子はそう言うと、溜息をついた。肺の中の空気を全て吐ききるような大きな溜息。真っ直ぐだった肩が丸みを帯びる。
 「何かあったのか?」
 誰ととは言わずに尋ねると、聡子はアーモンド型の目を伏せて水筒の小さな蓋を手に取った。濃い緑色をしたそのカップからは、薄く湯気が立ち上っていた。
 「私……」
 聡子が口を開いたとき、背後にあるドアが音を立てて開けられた。
 「瑞希」
 聡子の声に振り返ると、半開きになったドアの脇に瑞希が立っていた。いつもなら入り口で中にいる仲間に声を掛けるはずの彼女は、今日は何も言わずにドアノブから手を離した。ゆっくりと締まっていく重い扉の方を見向きもせずに、瑞希はこちらに歩いてくる。いつになく強張った表情を浮かべた彼女の、左手に巻かれた包帯の白に、貴之の視線は吸い寄せられた。
 「瑞希、それ……」
 「あの人に何言ったの?」
 瑞希は真っ直ぐに聡子の前まで歩いていくなり、そう声を荒げた。怪我をしていない右手で聡子の灰色のブレザーに包まれた肩を掴み、強く揺さぶる。
 「何て言ったの!?ねえ!」
 今にも泣き出しそうな、けれども怒りのこもった声で、瑞希は聡子を問い詰める。合間に聞こえる聡子の押し殺した声が、弱々しいもののように聞こえた。
 「私はただ、瑞希があいつの大学に志望校変えるって聞いたから」
 「それが何?それでどうしてあの人に話すことがあるの?私はそんなこと頼んでない!」
 「心配なのよ!」
 聡子は瑞希の手を振り解き、立ち上がった。カタンという小さな音と共に緑色のカップが倒れて貴之の方に転がってきた。
 「毎日毎日、そんな青白い顔でふらふらして。電話の度にビクビクして。将来の夢も叶わない、やりたい勉強もできない学校にどうして行くの?」
 何も言うなっていうなら、心配させないで。
 聡子は瑞希の左腕に手を伸ばした。彼女の意図に気付いた瑞希が左手を隠すよりも早く、腕を掴んで手を体の前に出させる。
 貴之の目の前に持ち上げられた瑞希の左手には、真っ白な包帯が手の平から手首にかけて二重三重に巻かれていた。親指の付け根で留められた包帯の端が、少しだけほつれている。
 「やっ……放して!」
 「これは何?どうしてこんな怪我したの?」
 もしかして、ヒウラさん?
 聡子の口からその人物の名前が出た途端、瑞希の顔色がさっと変わった。彼女は乱暴に聡子の手を振り払うと、左手を庇うように胸元に引き寄せた。
 「そんなんじゃない」
 「じゃあどうしてよ」
 「お願いだから放っておいて」
 瑞希が引き絞るような声を上げた。切実な響きが、貴之の耳に突き刺さる。
 「これは私と朋樹との問題なの。お願いだから、口出ししないで。心配なんかいらない、放っておいて」
 そうしなければ吹き飛ばされてしまうとでもいうように、カーペットの上で足を踏みしめて瑞希は言った。興奮しているのか、普段は白いその頬が真っ赤に染まっている。
 「分かった風な口聞かないで。何にも……」
 知らないくせに、と言う前に、瑞希の視線が聡子から逸れた。
 「あ……」
 思わず駆け寄った貴之の前で、最近ますます細くなった瑞希の体がゆっくりと傾ぐ。
 草木が萎れるように。
 薄い花びらが、枝からひらりと離れるように。
 聡子と貴之の目の前で、瑞希は音もなくその場に崩れ落ちた。


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