ハナミズキ

<ほつれた想い(1)>

 二コマ三時間の講義のあと、最近では珍しい事に瑞希が一緒に帰ろうと声を掛けてきた。
本当ならば二つ返事で一緒に講義室を出るところだが、今日の聡子にはやらなければいけないことがある。
 「ごめんね、ちょっと先生に質問したいところがあるから」
 どうしても分からないところがあって、と英語のプリントを広げながら言う。とっさにあの男の担当教科以外の教材を手に取ったのは、瑞希に対するカムフラージュだ。こんな下らないごまかしをするなんて、今からしようとしていることについて、自分はやはり瑞希に対して後ろめたく思っているのだと、聡子は心の中で自嘲した。
 「そう、残念」
 瑞希はあっさりと頷くと、また明日ねと軽く手を降って講義室を出て行った。街灯の明かりの中をバス停に向かって歩いていく頼りない背中を見送りながら、聡子は机に広げた英語の教材を無造作に畳んで鞄の中に押し込んだ。

 「樋浦さん」
 朋樹たちチューターの控え室にもなっている事務局は、三階建ての塾の建物の一階にあった。三階にある講義室から階段を下りてきた聡子は、事務局から出てきたばかりの朋樹の姿を見つけ、その背中に声を掛けた。
 「……ああ、小島さん」
 何か用、という表面上はにこやかな声で、朋樹は聡子を振り返った。声とは裏腹の、やや迷惑そうなその表情には気が付かないふりをして、聡子は残りの階段を一気に駆け下りる。
 「ちょっと、質問があるんです。お時間、良いですか?」
 彼に対して感じる疑念や敵意を心の中に押し隠して、無邪気な生徒の顔を装い、問いかける。聡子は鞄を開けて教材を出そうとしながら、目の前に立つ朋樹の顔をちらりと見た。
 彼は、バイクの鍵を手の中で弄びながら、困惑気味に時計と事務局の扉とを見比べている。ガラス張りの扉の向こうでは、まだたくさんの事務員や講師が働いている。外面の良い朋樹のことだ、上司である彼らの前で生徒の質問を振り切って帰るなどという真似はしないだろう。そう思いながら様子を窺っていると、案の定朋樹はバイクの鍵をデイバックのポケットの中にしまい、先ほど出てきたばかりの事務局の扉に手を掛けた。
 「チューター室の鍵を借りてくるから、先に行って待ってて」
 大きな溜息を隠さなかったのは、こんな時間に質問に来た聡子への、せめてもの抗議のつもりだろう。聡子は、すみません、としおらしい声で言いながら、先ほど下りたばかりの階段に再び足を掛けた。

 朋樹の後に続いて入ったチューター室は、先ほどまで入っていたらしい暖房の名残か、ほのかに温かかった。クリーム色の衝立で仕切られたいくつものスペースには、白い机と椅子几帳面に並べられている。聡子はそのうちの一つに腰を降ろした。
 「質問って、どこ?」
 朋樹がそう言いながら、入り口付近にあるエアコンの電源を入れた。ううーんという低い音と共に、生暖かい風が天井から吹き出してくる。
 カタンと軽い音を立てて、朋樹が聡子の向かい側にある椅子に座る。彼が深く腰掛けるのを待って、聡子は口を開いた。
 「瑞希のことなんですけど」
 聡子の言葉に、朋樹の口元がぴくりと動いた。不快そうに細められた目を、聡子は真っ直ぐに見据えた。その目の奥にある感情を、見逃すまいとするように。
 「志望校を変えたの、ご存知ですか?」
 あなたと同じ大学に。
 冷静を装った聡子の声と、朋樹の舌打ちが静かな室内に重なって響く。
 朋樹は乱暴に足を組むと、うんざりしたように背もたれに体を預けた。
 「何かと思ったらそっちか……知ってるよ。だから、何?」
 「あなたでしょう」
 瑞希の進路を変えさせたのは。
 こみ上げてくる苛立ちを押さえながら、聡子は続けた。低く唸り続ける暖房の音が、ひどく耳障りなものに思えてくる。
 「瑞希、ずっと東京の大学に行きたいって言ってたのに。国文学を勉強したいって言ってたのに」
 瑞希が行くと言っている大学には、文系学部がほとんどない。今年新設されたのだという人間科学部というそれらしい学部はあるが、そこで瑞希がやりたがっていた国文学の勉強ができるとは思えなかった。
 東京に行くという夢も国文学を専攻したいという希望も、どちらも叶わない進路を選択する理由。それは、目の前のこの男以外にないだろう。
 「どうして応援してあげないんですか。彼女の未来を狭めるようなことをするんですか」
 彼氏なのに、と声を荒げる聡子の言葉を遮るように、朋樹は盛大な溜息をついた。左手の人差し指で、机をコンコンと叩きだす。いらだっている証拠だ。
 「何それ。瑞希から愚痴られたの?俺のせいで行きたい学校に行けないって」
 「そんな……」
 そんなことはない、と聡子が否定すると、朋樹はそれみたことかと口の端を吊り上げた。
 「じゃあ、君には関係のないことだろう」
 全く、女っていうのはどうしようもないな。人の事にまで口を突っ込んで。
 これ以上話を聞く気はないというように、朋樹は大袈裟に首を振る。そんな彼の様子に腹が立って、聡子は考えるよりも先に口を開いていた。
 「関係ないけど!関係ないけど、心配なんです。あなたと付き合いだしてから、瑞希はどんどん元気がなくなっていくんです。側で見ていて分かりませんか?進路だってそう。あの子にあの大学に行けここには行くなって強制する権利が、あなたにあるんですか?本当なら、自分で決めるべきものなのに」
 「自分で決めるべきもの……か」
 朋樹は頭の上で手を組むと、わざとらしく天井を仰いだ。青白い、人口の灯りに目を細めながら彼は言った。
 「じゃあさ、君はどうなの?」
 「え?」
 怪訝な顔をする聡子を、朋樹は面白そうに一瞥した。楽しそうに細められたその目の奥は、笑ってはいなかった。
 「瑞希から聞いたよ。元々は市内の国立志望だったんだってね。それがいきなり、東京の大学を受験するって?」
 朋樹は背もたれから体を起こすと、机に両肘を突いて聡子の方に身を乗り出してきた。
 「男のために進路を変えるのは、君だって同じだろう」
 勝ち誇ったかのような朋樹の言葉に、聡子は両手を握り締めた。ああ、そうだ。この男はこうやって人の揚げ足を取るのが得意なのだった。
 「君の彼氏も言ったんじゃないのか?東京に来いって。俺が同じことを言って何が悪い?俺は俺の希望を瑞希に言っただけ。決めたのはあいつだ。君と一緒だろう」
 確かに、表面だけを見れば同じだろう。けれど、その言葉の底にあるものは同じじゃない。少なくとも聡子は、恋人との電話で怯えたり謝ったりしない。
 「一緒じゃないですよ」
 聡子は、大きく息を吸うと朋樹を見た。朋樹の話に対して感じるこの違和感を、どうしたらうまく言葉にできるだろう。
 「好きだから離れたくないんですか?相手を泣かせてでも言うこと聞かせるんですか?そんなのただの束縛です。好きだから何でも許されるなんてあるわけないでしょう。もう少し、瑞希のことを大切にしてあげてください」
 してるよ、吐き捨てるように言いながら、朋樹は荒々しく立ち上がった。もう話は終りだとばかりに、エアコンの操作パネルに手を伸ばす。
 「じゃあ、あの痣は何ですか」
 まだ話は終わってはいない。ここで逃げられてなるものか。
 朋樹の後を追うように椅子から腰を浮かせながら聡子が言うと、ドアノブを掴む朋樹の手が止まった。
 「今日、偶然見たんです。首の後ろに……。心当たり、あるんでしょう」
 長い髪の間から覗いた瑞希のうなじには、赤黒い痣があった。場所が場所だけに、どこかにぶつけてできたものだとは考えにくい。
 あの痣に、朋樹が関係している。そうに違いないという確信と、そうであって欲しくないという願望の入り混じった思いで問いかけると、朋樹は皮肉気に顔を歪めた。
 「それを聞くのは野暮だよ」
 朋樹は腰を屈めて、聡子と目線を合わせた。バカにしたような笑いを口元に浮かべて、小声で言う。
 「君だって、彼氏がいるんなら分かるだろう」
 「……なっ!」
 何を言われたのか理解した瞬間、聡子は言葉を詰まらせた。彼女がひるんだ隙に、朋樹は素早くドアノブを回す。廊下に足を踏み出しながら、彼は聡子をちらりと振り返った。
 「あんまり人の事に首を突っ込むものじゃないよ。あ、鍵はちゃんと閉めといてね」

 床に鍵が落とされる音と、ドアが閉まる音。再び部屋の中に静けさが戻った頃、聡子はようやく我に返った。
 「……逃げられた」
 のろのろとドアの前に屈み込み、投げ捨てられた鍵を拾う。手に取った鍵をじっと見つめながら、先ほどのやり取りを頭の中で繰り返した。
 「何が野暮よ」
 遠目にではあったが、瑞希のうなじにあった痣は痛々しい色をしていた。力任せにつねったように見えるそれは、とても朋樹が言っていたような甘く優しいものには見えなかった。
 「……ごめん、瑞希」
 今日の朋樹との会話は失敗だった。事態は何もよくならないだろうし、朋樹は聡子の言ったことについて何一つ理解しようとはしなかった。
 もしかしたら、瑞希のことをまた更に追い詰めただけかもしれない。言いようのない無力感に、聡子はその場にじっとうずくまると、スカートに顔を埋めた。


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