ハナミズキ

<嘘の苦手な人たち(3)>

 模試の成績が返された次の日、保護者同伴の進路説明会が開かれた。狭い講堂に親や友達と肩を寄せ合って座り、志望校の決定や今後の試験日程についての話を聞くのだ。親がいるということもあってか、よそ行きの声をした教師の説教はいつにも増して退屈で、閉会が告げられると同時に聡子は小さく欠伸をした。

 「聡子ちゃん」
 教室に戻る途中、講堂の出口で聞き知った声に名前を呼ばれて聡子は後ろを振り向いた。
 「おばさん」
 ショートカットの髪を丁寧にセットしたツーピース姿の女性が、人の波に押されながらこちらへ歩いてきているところだった。瑞希の母親だ。瑞希の家にはもう何度も遊びに行っているため、聡子は彼女の母親とも顔見知りだった。夕飯をご馳走になったこともある。
 「お久しぶりです」
 「本当に。元気?……ちょっと、聞きたい事があるんだけどいいかしら」
 「何ですか?」
 言いながら講堂の出入り口のすぐ側にある階段を何段か上り、人ごみを避ける。瑞希の母親も聡子に着いて階段に足を掛け、それから躊躇いがちに言った。
 「瑞希のことなんだけど……」
 瑞希の母親は溜息をついた。踊り場の窓から見える、金色の銀杏並木に憂いを帯びた視線を向ける。

 「最近、様子がおかしいのよ」
 帰宅時間が遅くなり、家にいるときには部屋に閉じこもりがちになったのだという。何を言ってもぼんやりとしているかと思えば、些細な一言に過剰に反応するという瑞希の様子は、聡子にも覚えのあるものだった。
 家に帰る時間が遅いのは、部活や塾のせいではなく、あの男のところに行っているからだ。閉じこもりがちになっているのは、恐らく彼との電話のため。部屋からは、時折泣き声も聞こえてくるのだという瑞希の母親の話に、聡子は顔をしかめた。
 視聴覚準備室で見た、携帯電話片手にうずくまる瑞希の小さな背中を思い出す。白とピンクを基調にした可愛らしい部屋の中でも、瑞希はあんな風に謝っているのだと思うとたまらなくなった。

 瑞希が変わってしまった原因は恐らく、あの男にあるのだろう。けれど、それを目の前にいる瑞希の母親に告げてもいいものだろうか。瑞希が言っていないことをこの場で他人である聡子の口から言うのは、瑞希に対しても瑞希の母親に対しても不誠実な気がして、聡子は口をつぐんだ。さりげなく視線をそらして窓の外を見やったとき、瑞希の母親がぽつりと言った。
 「志望校もね、変えるって言っているの」
 その話なら知っている。けれど、次の瞬間に耳に入ってきた言葉に、聡子は大きく目を見開いた。
 「おばさん、それ……」
 「本当なのよ。瑞希が自分でそう言っているの」
 そのせいか、成績も二学期に入ってから落ちてきて。聡子ちゃん、何か知らないかしら。
 不安そうな瑞希の母親に、聡子は必死で平静を装い、首を振った。
 「すみません、私は何も……。瑞希に、それとなく聞いてみます」
 瑞希はしっかりしてるから、きっとちゃんと考えての事なんですよ。心配すること、無いと思います。
 気休めにしかならない台詞を口にしながら、昇降口の外に歩いていく瑞希の母親を見送ると、聡子はきつく唇を噛んだ。

 あんなに東京に行きたがっていた瑞希が、突然志望校を変えた。
 それも、思ってもいない方向に。
 理由は、一つしか考えられなかった。
 「何やってるのよ……」
 あの子も、あいつも。
 「最悪」
 聡子は顔を上げ、窓の外を見た。近くにあるビルの屋上にある広告のネオンが何度かまたたいて、明かりが灯った。色とりどりのネオンの煌びやかな明かりが、今日は何だかひどくもの寂しかった。


 授業開始時刻の六時半ぎりぎりになって、瑞希は塾の講義室に現れた。彼女が来るのを講義室の窓から見ていた聡子は、彼女と一緒に入り口に駆け込む若い男性の姿を見て顔をしかめた。
 生徒と同伴出勤とはいいご身分だこと、受験生の貴重な勉強時間を一体何だと思っているのだ、あの男は。
 「大体、チューターが時間ギリギリに来てどうするのよ」
 授業前にやるべきことはたくさんあるだろうに、聡子の眼下にいる、濃いグレーのジャケットに茶のコーデュロイパンツを合わせた長身の男は、全く慌てている様子がない。ワックスで逆立てた前髪が気になるのか正面玄関のガラス戸をしきりに覗き込む男に、聡子は小さく舌打ちをした。

 瑞希の恋人である樋浦朋樹は市内にある私大の二年生だ。県外出身者で、一人暮らしの生活費の足しにと去年の春からこの塾でチューターのアルバイトをしているらしい。人好きのする顔と親しみやすい性格のためか、朋樹は生徒たちに人気のチューターだった。働き始めてから一年半余りで、男子生徒の間では「面倒見のいい兄貴」、女子生徒の間では「憧れの大学生」という地位を確立してしまったのだから大したものだ。

 朋樹は確かに人当たりはいい。けれど、快活な好青年と言い切ってしまえない何かを、聡子は彼に感じていた。瑞希のことで朋樹に良い感情を持っていないせいだと言われればそれまでだが、あのにこにこと絶えることのない笑顔は、作りものであるような気がしてならないのだ。
 春にこの塾に入ったばかりの頃、聡子は朋樹に質問をしにチューター室に行ったことがある。朋樹の担当科目である数学で分からない問題があったため、解説を頼んだのだ。「良いよ」と笑いながら説明を始めた朋樹だったが、聡子が持っていった問題は彼にとっても難易度の高いものだったらしく、途中で話が止まってしまった。
 初めは穏やかに説明をしていた朋樹だったが、解けない問題にいらいらしたのかだんだんと口数が減っていった。何度もシャープペンシルの芯を出し入れし、指でコツコツと机を叩く。気まずい空気の中、じっと問題を見ているうちに聡子は解き方をひらめいたのだが、その瞬間の事を、彼女は今でも思い出せる。解法を口にした聡子を、朋樹は不愉快極まりないといった目で睨んだのだ。その目の中にあった暗い感情はすぐにいつもの穏やかな微笑みに掻き消されたが、聡子は見逃しはしなかった。

 一見完璧に被った彼の笑顔の仮面も、一度その下を見てしまえば継ぎ目やほころびを見つけるのは簡単だ。自分の耳に心地良い言葉には笑顔で頷くが、意に沿わない言葉には声を強めて反論する。自分よりも力の強いもの、得になるものにはいい顔をするが、自分よりも力の弱いものには高圧的になり、得にならないものにはどこまでも冷淡な態度を取る。
 そんな場面を何度も見ているだけに、朋樹が瑞希にどんな態度で接しているのか、聡子は気になっていた。

 付き合い始めたばかりの頃の瑞希は笑っていることが多かったので、大切にされているのだろうと思っていたが、最近の彼女の様子にその考えも揺らぎはじめていた。瑞希は今、本当に幸せなのだろうか。朋樹はどういうつもりで、瑞希と付き合っているのだろうか。
 シャープペンを握る手に思わず力がこもる。広げたノートの上で芯がぽきりと折れた時、瑞希が講義室のドアを開けた。聡子の顔を見るなり気まずそうな笑みを浮かべて視線を逸らす。瑞希に合図しようと挙げられた聡子の右手は中途半端な位置で止まり、やがてゆるゆると降ろされた。
 すぐにチャイムが鳴って、授業が始まった。聡子から遠く離れた席に腰を下ろした瑞希の後ろ姿は、相変わらず小さくて頼りなかった。また一回り痩せた気がする。
 寝不足のせいか、時折眠たげに揺れる頭がかっくりと前に倒れた。前で淡々と構文の解説をする講師の目を気にしながら、瑞希は本格的に船を扱ぎ始める。頭の動きに合わせて前に流れた髪の間から覗く、細く白いうなじにあるものを見つけて、聡子は両手を握り締めた。


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