ハナミズキ

<嘘の苦手な人たち(1)>

 「榎本、客」
 クラスメイトの声に貴之が顔を上げると、教室後方の戸口で一人の女子生徒が会釈をした。放送部の二年生の衛藤有紀だ。貴之達三年生が体育祭を最後に引退したあと、部長として部を引っ張っていっている。
 上級生の、しかも男子だけの教室というのは敷居が高いものなのか、有紀は横を通り抜けていく体格の良い男子生徒に身を竦めながら、所在なさそうに立っていた。席を立った貴之が近づいていくと、有紀はそれと分かるほどほっとした顔を貴之に向けた。

 「すみません、休憩中にお邪魔して」
 律儀な彼らの性格からか、礼節を重んじる校風のせいか、後輩達は話を始めるときに、この前置きを言うのを忘れない。貴之だって、自分が下級生だったときには同じことを上級生に言っていたし、今も教師対しては必ず都合を尋ねるのだが、いざ自分が言われるとなると照れくさい。きっと、卒業するまでこのむず痒さは慣れないな、と心の中で苦笑しながら、貴之は首を振った。
 「いや、良いよ。特にすることもなかったし。それよりどうした?何か質問?」
 「はい、あの……」
 言いながら、有紀は抱えていたファイルを広げた。放送部に代々伝わる部の運営マニュアルだ。年々新しいことが書き加えられるそれは今や膨大な量になっていた。有紀が今持っているものは全体のごく一部で、あとの大半は視聴覚準備室のロッカーの中で埃を被って眠っている。
 「東陽放送局スペシャルのことなんですけど。去年、テーマリクエスト企画をやりましたよね?」

 東陽放送局スペシャルとは毎年放送部が行っているイベントで、お昼の放送を少しだけ豪華にしたものだ。普段は部外者から持ち込まれたり部員が選んだりした音楽を流すだけのお昼の放送の枠を使って、朗読劇や校内レポートなど様々な企画を行うのだ。昨年は、メッセージ付きリクエストの特集だった。毎日テーマを決めて曲とメッセージを募って放送で流すという単純なものだったが、借金の督促や愛の告白、先生への懺悔など様々なメッセージが曲と共に集まってとても好評だった。貴之たちの学年に部の主導権が移って初めてのイベントで、失敗はできないと張り切っていたからよく覚えている。

 「ああいう公募の企画を、今年もやろうと思っているんですが……」
 公募方法などについて、去年の企画の資料で分からないところがあるので詳細を教えてほしいのだと言う。
 ファイルに挟まれた資料を指差しながら熱心に話す有紀に、貴之は首を傾げた。
 貴之が現役の頃、このファイルに最もよく書き込みをしていたのは、当時部長だった瑞希だ。次に多かったのが、副部長と会計を兼任していた聡子。機械担当だった自分がファイルに触ったことは数えるほどしかない。
 「ごめん、衛藤。その企画は幸野や小島が進めてたものなんだ」
 音源探しや放送機器のことなら答えられるけれど、と謝ると有紀はあっという顔をした。
 「すみません、気付かなくて。あとで幸野先輩のところに行ってみます」
 「うん。ごめんね役に立てなくて」

 それじゃあ、と席に戻ろうとすると、あの、と素早く呼び止められた。
 「あの先輩、日曜日はお忙しいですか?」
 言いながら、有紀はファイルの間から紙切れを取り出した。市立博物館の特別展の入場チケット。
 「人体展、見たいって言ってましたよね?招待券を貰ったんですけど、友達みんなこういうの苦手で」
 良かったら一緒に行ってくれませんか?と言う有紀の、笑顔の奥に何か切羽詰ったものを感じて、貴之はとっさに目をそらした。一つ深呼吸をして、訴えるような視線をやり過ごす。
 「ごめん、その日は……」
 先約があるんだ、と静かに告げようとする貴之の声に、有紀の顔が僅かに曇った。が、それも一瞬のことで、彼女はぱっと顔を上げると早口で話し始めた。まるで、貴之にそれ以上喋らせまいとするように。
 「いえ、こちらこそすみません。先輩、お忙しいのに、誘っちゃったりなんかして。チケットは、他を当たってみますね。江里子とか、ああ見えて結構好きだったりして」

 そう思いません?と笑いかける有紀に、貴之はぎこちなく頷いた。居心地が悪そうに身体を動かす貴之に気付いているのかいないのか、有紀はそれじゃあとファイルを持ち直す。
 「長居してしまってすみませんでした。勉強、頑張ってくださいね」
 「ありがとう、衛藤も頑張れよ」
 企画、楽しみにしてるから。
 そう声を掛けると、有紀は廊下の真ん中で貴之を振り返った。ショートカットの髪が、ふわりと跳ねる。有紀ははにかむように微笑むと、もう一度軽く頭を下げて小走りに自分の教室へと戻っていった。

 濃い灰色のブレザーを纏った背中が曲がり角の向こうに消えたのを見届けると、貴之は小さく溜息をついた。胸の中にざらりとしたものを感じながら、教室に入る。自分の席に戻って椅子に深く腰掛けると、前の席の九条誠が背をそらして貴之を見た。
 「よお、色男」
 あんな所で口説かれるなよ、とからかい混じりに言う友人を、貴之は煩そうな目で見た。
 「お前には言われたくないよ」
 疲れた口調でそう言うと、誠は確かにな、と軽く笑った。

 今でこそそのなりを潜めてはいるが、誠は、校内一の遊び人としてその名を轟かせたことのある有名人だ。一週間単位で相手をとっかえひっかえしていた彼が、夏休み直前に付き合いだした今の彼女と三カ月以上続いていることは、七月の奇跡として一部の生徒の間で半ば伝説と化している。
 誠は口元を僅かに吊り上げると、でも口説かれてたろ、と言った。
 「二‐二の衛藤有紀、だっけ?あの子」
 「何で知ってるんだよ」
 有紀は他の部や委員会との掛け持ちをしていない。誠との接点はないはずなのに、とやや不満げな口調で呟くと、誠はからからと笑った。
 「俺は可愛い子のチェックは怠らねえの。まあ、最近はやってないから情報はちょっと古いけどな」

 あの子が一年のときから知ってるぜ、という誠の言葉に、貴之は思わず彼の方を振り返ってしまった。
 「まさか、お前……」
 手を出したわけじゃないだろうな。そう言いそうになったところで、にやりと笑った誠の顔が目に飛び込んできた。途端に、気まずくなって目を逸らす。誠とは入学時からの付き合いだ。今の言葉は単なる挑発なのだと少し考えれば分かりそうなものなのに、自分はほとほと人が好い。
 「出すわけないだろう。そんなことしたら、千鶴に捨てられる」
 「そりゃあ今はな。昔はどうだか」
 佐久間先生に言いつけようか。俺、先生の実家の近くだし。
 先ほど引っ掛けられた仕返しだとばかりに誠の顔を覗き込むと、彼はむっとした表情になって身を起こした。そのまま身体の向きを変えて貴之の机に肩肘を突く。どうやら、本格的に話し始めるつもりらしい。

 「昔だってねえよ。大体、ああいう女は苦手なんだ」
 気が強くて芯がある。落とすのに手間がかかるからな。確かに、数ヵ月前まで女性を消耗品としか考えていなかった誠らしい主張に、貴之は心の中で唸った。
 そこまで言いきるとは、こいつは今までかなりの数の人間を泣かせてきたに違いない。
 「同じ放送部なら、幸野や小島もパスだな。顔はなかなかだけど、隙が無い。特に小島なんか、迂闊に近づくとバッサリやられそうじゃん。友達として話すなら面白いだろうけど」
 そう考えると、放送部は凄い奴が揃ってるな、と皮肉るように笑った後で、誠は急に真面目な顔になった。右手で支えた頭の位置を少しずらして、貴之の方を見る。
 「それにあの子、好きな奴がいるだろう。そいつの事しか見えてないって感じだったし」
 そういう人間には声を掛けるほど俺は暇じゃない、と言う誠の視線から逃げるように、貴之は目を伏せた。

 誠の言う「そいつ」が誰なのか、貴之には分かりすぎるほどよく分かっている。けれど、彼は分からない振りをしなければならない。有紀のためではなく、自分のために。
 「博物館くらい、行ってやりゃあいいのに。気付いてるんだろう?」
 「ほっとけ」
 貴之にだって分かっているのだ。有紀の気持ちはありがたい。できればそれに応えたいとも思う。
 けれども、有紀の好意のこもった視線を受け取るたび、はにかむように話しかけられるたび、貴之は考えてしまうのだ。
 これが瑞希だったら、と。
 こんな浅ましいことを考える自分は最低の人間だ。とても有紀の想いを受け入れることなどできない。

 「幸野か」
 誠に短く指摘されて、貴之は一瞬息を止めた。そうだった、こいつは知っているのだ。
 「そんなにあいつがいいなら、言えば良いのに」
 けれど、瑞希には「樋浦さん」がいる。貴之のことなど、視界に入ってもいないのだ。そう思ったけれど口に出すのは悔しくて、貴之は無言で机の上にノートを出した。
 有紀が来るまでやっていた問題集の続きを解こうとページを繰る。シャープペンの芯を出していると、誠が静かな声で言った。
 「彼氏がいるからって、遠慮する筋合いがどこにある?」
 奪えばいいだけの話じゃないのか。目線で伝えられた問いかけに、貴之は黙って首を振った。
 「できるわけないだろう。困らせるだけだ」
 固い声でそう言った貴之に、誠は肩を竦めた。
 「そうして衛藤のことも曖昧にするわけか」
 傷つけないために。傷つかないために。
 有紀の気持ちを受け入れることはできない。けれども、それを面と向かって拒むことも貴之にはできない。貴之自身の中にもある、行き場のない想いを抱える苦しさが、有紀への拒絶を鈍らせるのだ。
 だから貴之は、自分の想いに蓋をして、向けられる好意にもただ気付かない振りをする。否定も肯定もせず、そのまま。

 「俺って卑怯だな」
 どちらからも逃げているのだ、俺は。
 向き合うことを恐れて、逃げて、逃げて。
 その先にあるものは何なのだろうと考えながら、貴之は窓の外を見た。
 緑色の屋根の向こうには、曇り空が広がっていた。白い雲は薄く一面に広がっていて、その先にあるであろう青空も、太陽の光も、貴之の目には届かなかった。


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