ハナミズキ

<真夏の告白(3)>

 そう、あれは晩夏の昼下がり。課外授業の後でいつものようにこの視聴覚準備室に集まって遅い昼食を摂っていた時のこと。
 聡子と向かい合って弁当を広げていた瑞希が、ふいに箸を止めると、視線を弁当箱に落としたままポツリと言ったのだ。
 「あたし、彼氏ができた」
 外の喧騒に飲み込まれてしまいそうに小さい声。それでも、貴之は聞き逃さなかった。
 読んでいた漫画雑誌から顔を上げて瑞希の方を見ると、彼女は頬を赤く染めて微笑んでいるところだった。照れたような響きを含んだ声を発するその口元はふにゃりと緩んでいる。
 瑞希と向かい合って座っている聡子も、ひどく驚いた様子だったが、すぐに自分のペースを取り戻すと、落ち着きのある声で瑞希に尋ねた。冷静沈着な優等生の彼女らしい。
 「誰に?」
 「ヒウラさん」
 「塾の?」
 瑞希と同じ塾に通っている聡子はその名前に心当たりがあるらしい。彼女はああ、あの人かと頷きながら貴之の方をちらりと見た。貴之が慌てて顔を雑誌に埋めると、しばらくして聡子の涼しげな声が聞こえてきた。
 「それはいつの話?」
 「一昨日。数学の授業があったでしょう。それで……」

 彼の名前は樋浦朋樹。
 市内にある、工学系の私立大学の二年生。
 県外出身で、学校の側のアパートで一人暮らしをしている。
 大学入学時から続けているチューターの担当は物理と数学。
 理系教科が苦手な瑞希は授業の後や休み時間に彼に質問をすることが多く、それで親しくなったらしい。

 小さな声で、時折はにかみながら、瑞希は付き合い始めたばかりの恋人の話をする。校内放送で好評だった鈴の鳴るようなソプラノは、いつもよりもずっと華やいでいた。
 貴之は開いたままのページに顔を埋めるように俯いた。漫画の台詞など、もう頭に入らなかった。ページを捲る合間にちらりと見た彼女の横顔は生き生きと輝いていて、見なければ良かったと少しだけ後悔した。

 開け放した窓から聞こえてくる、グラウンドを回る運動部員の掛け声。時折太鼓の音やノイズだらけの音楽が混じるそれに、ブロック応援の選抜メンバーの練習が始まったのだと考える。
 何でもない時、いつもと同じ時間。吹き抜けていく風も、どっしりと部屋の隅に溜まった暗幕も、埃を被ったレコードのケースも、何一つ変わらない。けれども、何かが昨日までとは確実に違っていた。
 彼女が恥らいながら呟いたあの瞬間から、貴之の世界にはごく薄いベールに覆われた。それはとても軽くて、けれども貴之の手足に纏わりついてその存在を主張する。視界が暗いな、とぼんやりと思った。

 「榎本」
 瑞希がクラスメイトに呼ばれて部屋を出て行ったあと、聡子がくるりとこちらを向いた。
 真っ直ぐな視線に射られて、貴之は思わず息を飲む。
 「良いの?」
 決して鋭くはないが、思慮深さと慎重さを宿した瞳。ただただ静かなその視線に、貴之は耐えられなくなって目を伏せた。目を通して、心の中まで覗き込まれそうな気がした。
 「何が」
 「瑞希のこと。良いの?」
 何も言わなくて。

 言外に含まれた質問に、貴之は気付かない振りをした。興味が無いと言うように、漫画雑誌をパラパラとめくる。
 「良いも何も、俺は別に……」
 貴之には何も言う権利はない。瑞希は貴之の想いなど知らない。彼女にとって貴之はただの友達であり、貴之自身も今までそうあることを望んでいたのだから。
 「良かったじゃん。幸野、前から彼氏欲しがってたし」
 年上が好きって騒いでたからうまくいくんじゃねえ?
 無機質な声でそう言う。少しはあっけらかんと聞えただろうか。聡子が溜息をついたのが分かった。
 「そう、」
 それきり聡子は何も喋らなかった。貴之も沈黙を持て余して雑誌に視線を戻す。外の喧騒や紙の擦れる音さえも遠慮がちに響く奇妙な静けさの中で、貴之は自分の周りを覆っているベールが何なのか気が付いた。
 それは絶望であり諦めだった。宙に浮いた想いを紡いで作られたそれは柔らかく、緩やかに貴之を締め付けた。
 どうして言えなかったのだろう、機会はいくらでもあったというのに。

 貴之の思考を遮るように、チャイムが鳴り響いた。終業の挨拶が終わると、周りが一斉に騒がしくなる。貴之も他のクラスメイトに釣られるように立ち上がり、掃除のために机を下げる用意をする。
 何気なく窓の外を見下ろすと、中庭に箒を持った瑞希がいた。

 あの日、恋人の事を話す彼女はとても幸せそうだった。頬にはほんのりと赤みがさし、声は弾んでいた。二年間彼女を見てきた中で、一番綺麗な顔だと貴之は思った。
 自分にはあんな表情はさせられない、と、その時は確かに思ったのだ。
 だから、一度は諦めた。自分の気持ちに蓋をした。
 けれど、今は考える。
 自分なら彼女にあんな声は出させないのに、と。

 けれど。

 もう遅い。もはや自分には、彼女に語る言葉がない。
 そう思うと、心が痛んだ。あの日から離れないベールが、ほんの少し締まった気がした。



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