ハナミズキ

<彼女の「彼」(3)>

「私の事はいい!それより、問題は瑞希でしょう」
 貴之の笑いを含んだ視線を振り切るようにそう言うと、聡子は部屋の隅に視線を戻した。それにつられて貴之も瑞希の背中を見る。
 二人が軽口を叩き合っている間も、通話は終わってはいなかった。今にも消え入りそうな細い声が途切れ途切れに聞こえてくる。瑞希はあの暗幕の下で、電波の先にいる「誰か」に必死で話しかけているのだろう。体を丸めて、両手で受話器を握り締めて。今にも泣き出しそうな声で、さっきから彼女は謝ってばかりいる。
 「そうじゃないの。ごめんなさい。お願いだから話を聞いて。……ねえ待ってよ朋樹……朋樹!」
 相手は自分の恋人なのだろうに、瑞希の背中からも口調からも、甘やかな雰囲気など微塵も感じられなかった。あんなに怯えて謝らなければならないなんて、彼女が一体何をしたというのだろう。
 それとも、付き合っている二人にとってはアレが普通の事なのだろうか。
 「瑞希、大丈夫かしら……。入試だってあるのに」
 貴之達の通う東陽高校は県下有数の進学校で、生徒の九割以上が大学進学の道を選ぶ。瑞希ももちろん進学組だ。
 私立志望であれ国公立志望であれ、受験にはかなりの気力と体力が要る。確定しない未来に向かって過ごす日々は、濃い霧に覆われた細い道を目を凝らして進むのに似ている。 ただでさえ神経をすり減らす時期なのに、瑞希は更に問題を抱え込んでいる。このままでは駄目になってしまうのではないだろうか。彼女も。彼女の受験も。

 貴之と聡子がどちらともなく溜息をついた時、暗幕が動いて間から瑞希が顔を出した。口角を笑顔の形に引き結んで、貴之達の方へ戻ってくる。貴之はシャープペンシルを手に取り、解きかけの問題に視線を戻した。
「ごめんね、長くなっちゃって。あ、聡子来てたんだ」
 電話が切れた後の瑞希はいつもよりも饒舌になる。泣き出した方が楽だろうに、彼女は決して涙を見せない。決まって笑顔で、何てことないという足取りで戻ってくる。貴之と自分との間にある距離を、瑞希は決して縮めようとはしなかった。だから貴之もそ知らぬ顔をして、彼女に関する全ての事をやり過ごす。関心のない振りをするのは、この三ヶ月の間で随分上達したつもりだ。
「榎本、解けた?」
「……まだ」
 二年半、ずっと側で聞いていた高い声。瑞希に明るい口調で話しかけられるたびに貴之の胸の奥がずきりと痛んでいるのを、彼女は知らない。
 今にも震えだしそうな声で笑うくらいなら、いっそ泣いてくれた方が良いのに。
 そうすれば、この手を君に伸ばすことが出来るのに。

 貴之が黙々と問題を解いている横で、聡子がおもむろに口を開いた。
「ねえ瑞希、樋浦さんとは……」
 友人の口から出た恋人の名前に瑞希が微かに眉根を寄せた時、ドアの向こうでチャイムが遠慮がちに響いた。午後の授業の五分前に鳴る予鈴だ。昼休みの終わりを告げるその音に、瑞希はぱっと顔を上げた。
 「ごめん、私もう行かなきゃ」
 「ちょっと待ってみっ……」
 次の授業は数学なの。高田先生、今日は機嫌悪いって九組の子が言ってたから。榎本、また明日教えてくれる?
 一息でそう言いながら、瑞希は慌しく荷物をまとめて準備室を出て行った。

 防音仕様の厚い扉が重い音を立てて閉まると、聡子は僅かに肩を落とし、怒ったように頭を振った。
 「本当に大丈夫ならもっとそれらしい顔して見せてよ……」
 「ヒウラさん」の事には触れられたくないのだろう、聡子がその名前を口にすると瑞希は決まって話を逸らそうとする。今のように、引きつった笑顔で大丈夫だと言いながらその場から立ち去ることもある。
 少しも大丈夫そうではないその様子に聡子の「ヒウラさん」への疑いは余計に強まり、瑞希への追及をやめられなくなる。聞かれた瑞希は心を閉ざす。最近は、この悪循環の繰り返しだ。
 今の瑞希には何を言っても逆効果だということは、聡子にもよく分かっているはずだ。
 いつだって彼女は賢く、冷静だ。学校行事の準備の時、どんなに忙しくても彼女は決して慌てないし、不慮の出来事にも素早く完璧に対処する。
 そんな聡子が、疎まれると分かっていながら瑞希への干渉をやめようとしないのは、それだけ瑞希のことが心配だからなのだろう。
 瑞希のことになりふり構わずにむきになれる聡子を、ほんの少しだけ羨ましいと思いながら、貴之は椅子から立ち上がった。
 「俺たちも早く行こう。遅れるとまずい」
 「榎本」
 聡子の怒ったような声を背中に受けながら、貴之は出入り口の扉に手を掛けた。
 結局自分は、ただ見ているだけしかできないのだ。
 扉を開ける瞬間に息を詰めて、漏れてくる溜息をやり過ごした。


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