遅れてきた大魔王

<9.最後の脅迫デート(1)>

「……ああもう、間に合わないじゃない」
 休日の朝という事もあり、人気の少ない住宅街。駅前の大通りへと続く道を早足で歩きながら、聡子は思わずそうぼやいた。
「何もあんなに問い詰めなくたって……」

 あの男に借りを作るのは嫌だから、遅れる事が無いように余裕を持って仕度をしたつもりだった。それが、思わぬところで手間取ってしまった。
 玄関に出て靴を履き、さあ出掛けようというときになって母親につかまってしまったのだ。 前の日の夜帰宅してからすぐに、念のためにと今朝の朝食の時にも出掛けるという事は伝えてあったはずなのに、どこへ行くのか誰と行くのかと根掘り葉掘り聞いてくる。大学生の兄までが二階の自室から降りてきて、「そんなにめかし込んでどうしたんだ、デートか?」などと余計な事を言ってくる始末だ。
 確かに聡子は、休日は家で過ごす事が多い。平日の放課後だって、いつも寄り道をするわけでもなく真っ直ぐ家に帰ってくる。そんな自分が『友達と出掛ける』などと言うのだから驚く気持ちも分からないではない。でも、そんなに大騒ぎする事は無いじゃないか。
 もうすっかりデートだと思い込み、相手は誰だ、同じ学校の生徒かと騒ぎ立てる家族を宥め、ごまかし、振り切って玄関のドアを閉めた時には、既に予定していた出発時間から十分が過ぎていた。

「デート……ねぇ……」
 先程の家族とのやり取りを思い出して、聡子は小さく溜息をついた。デートには違いないのだろうが、今の自分の気分はその言葉の指す甘やかな響きからはかけ離れているような気がしてならない。
 
 『脅迫デート』。
 今日の予定を一言で説明せよと言われたなら、聡子は間違いなくこう答えるだろう。
 名前も歳も住所も定かではない男と一日一緒に過ごす。こんな事を家族に言えるわけがない。「知らない男の車に乗って、ここ何日か登下校してました。今日は今からその人と出掛けます」などと言う事を家族が聞こうものなら、間違いなく卒倒する事だろう。こんな突拍子もない提案に頷いてしまった自分は大馬鹿者だと今更ながら呆れてしまう。

 住宅街の入り口にある交差点の歩行者用信号は赤だった。これでまた遅くなると思いながらも、律儀に横断歩道の前で立ち止まると、恨みがましい気持ちで空を見上げた。

 もしもあの男が言うとおり、「カミサマ」なんてものが存在するのだとしたら、そいつはきっと山田次郎の味方だろう。明日は雨でも降ってしまえ、雨天中止にでもなれば良いという聡子の心の声をまるで無視して、すがすがしいほどに晴れている。
「部下だからって、贔屓しすぎなんじゃないの?」
 雲ひとつ無い、冷たく澄んだ青空に向かって悪態をついてみるが、無駄な抵抗だという事は分かっていた。すぐに馬鹿馬鹿しくなって視線を元の位置に戻すと、車道の向こう側にあるパン屋のウィンドウが目に入った。光の反射の具合のせいか、信号待ちをしている自分の姿がくっきりと見える。

「…………」

 休日は家で過ごす事が多い聡子にとって、私服で出かけるというのは、久しぶりの事だ。数少ない外出着の中から、彼女が選んだのはグレーのウールのスカートにモヘアのセーターという組み合わせだった。それに、クリーム色のコートを羽織っている。セーターもスカートもこの冬に買ってもらったばかりのお気に入りなのに、どうにも落ち着かない。
 聡子は目線を自分の体の上に落とすと、スカートの裾を引っ張った。
……短すぎはしないだろうか?
 頭の中を、この数日間彼女を振り回してきた意味ありげな微笑がよぎる。

 考えてみれば、私服で山田次郎と顔を合わせるのは今日が初めてだ。
 あの男は、一体何というだろう。 
 ホストか何かのようにサラリと「似合うよ」と言って笑うのだろうか。
 それとも、からかわれるのだろうか?
 男の反応なんてどうだって良いはずなのに、それでもなぜか気になってしまう。
 出がけに聞いた兄の言葉を思い出し、聡子は大きくかぶりを振った。
「違う違う、そんなんじゃない」

 やっぱりジーンズにすれば良かった。多少遅れても良い、今から家に戻って着替えてこよう。そんな事を考えながら、聡子が踵を反しかけたとき、一台の車が彼女の前で音も無く止まった。黒いスマートな車体には見覚えがある。驚いて立ち止まった聡子の視線の先で、助手席側のプライベートガラスがゆっくりと開く。車の中では相変わらず整った顔をした男が、人懐こい笑みを浮かべていた。

「おはよう、聡子ちゃん」
 見ていて憎らしくなるほどの爽やかな顔と声。いつもと同じ黒いスーツ。まるで計ったかのようなタイミングで現れた彼は、やはり人間ではないのかもしれない。

 さあ乗ってと笑顔で促す男に、聡子は訝しげな視線を送った。どうしてアンタがここにいるんだという言外の問いに、男は楽しげな表情を崩さないまま答える。

「時間になっても来ないから迎えに来たんだ。住所は分かってたから、この道を通るはずだなーと思ってね。聡子ちゃんは時間にルーズなタイプには見えないから、遅れるって言っても五分かそこらだろう。出がけに家族と話し込んじゃって遅くなるとか、電話がかかってきたとかそんな所だろうから、あそこで待ってても構わないとも思ったんだけどね」
 男はそこで一旦言葉を切ると、口の端を僅かに持ち上げた。意味有りげな目で聡子の方を見る。
「もしかしたら、途中で気が変わって帰っちゃうかもしれないと思ったんだ。帰らないにしても、服装を気にして着替えに引き返す……とかね」
 せっかく可愛い格好してきてくれてるかもしれないのに、みすみす帰しちゃ勿体無いだろうと言った男の笑い声に、聡子は真っ赤になって俯いた。聡子の行動と思考をここまで正確に読むとは、『恐怖の大魔王』には読心術でも備わっているのだろうか。

「あれ?もしかして図星?」
「……っ違う!!」
 からかうような口調でそう言った男から顔を背けると、乱暴に助手席のドアを開けた。
「良かったー、逃げられる前で。着替える必要ないよ、そのスカート、よく似合ってる」
「うるさい!」
 きまり悪さを隠そうとするように不機嫌そうな顔でシートベルトを締め、背もたれに体を預ける。さあどうだ、自分は逃げも隠れもしないぞという顔をして前を向く聡子を、男は横目で流し見ると「そう来なくっちゃ」と言ってギアを握った。
「さあ、どこへ行きましょうか?お姫様」

 全く、この男には敵わない。聡子は普段よりも静かな休日の町並みを眺めながら、諦めにも似た気持ちで「どこでも」と言った。


 男の運転する車は、広い国道の上を走っていた。繁華街にでも行くのだろうという聡子の予想に反して、車は市街地からどんどん離れていく。少し進むごとに背の高い建物が目に見えて減っていく光景に、一体どこへ行くのかと運転席に座る男に尋ねても、「俺に任せてくれたんでしょう、着いてからのお楽しみ」とはぐらかされるだけだった。

 車を運転している間中、男は普段にも増して上機嫌だった。鼻歌交じりにハンドルを握り、上着の胸ポケットからのど飴を出して聡子に勧める。
「食べる?」
「いらない」
 初めて男の車に乗った時からもう何度も繰り返されているやり取り。聡子はいつも断るのに、男は尋ねるのをやめなかった。自分が口に入れる前に必ず聡子の方に包みを差し出すのだから、案外律儀な性格なのかもしれない。それとも、ただ単にこのやり取りを楽しんでいるだけなのだろうか。

 三十分ほど走っただろうか、車は国道からそれて海沿いの道に入った。海を臨む比較的新しい道路と案内板を見て、聡子はあっと小さく声を上げた。目的地が分かった気がする。

「海浜公園でしょう」
 聡子が確信を持ってそう尋ねると、男は「ピンポーン」と言いながらハンドルを左に切った。駐車場のゲートを通り、入場門近くに車を止める。

「ハイ、到着〜」
 おどけた口調でそう言う男に短く礼を言うと、聡子は助手席のドアを開けた。海から吹く風が髪を勢い良く吹き上げる。まるで身を切るような冷たさに思わず首をすくめると、襟足に何かふわりとした柔らかい物が触れた。
 何だと思って見てみると、男物のマフラーだった。肩から垂れ下がった端を、男の手がもう一方の肩に掛ける。

「寒いでしょ。これ、巻いてて」
 その声に顔を上げると、男の邪気のない笑顔が目に飛び込んできた。まるで本物のデートのような雰囲気に聡子は戸惑い、首に巻かれたマフラーを慌てて外そうとする。
「いいから、いいから。そのまま巻いときなさい」
「だってこんな……私、別に寒くない!」
 アンタの方がよっぽど薄着で寒そうだという聡子の主張に、男は声を立てて笑った。
「俺は大丈夫だよ。このコート、結構暖かいし」
 それに…、と男はコホンと一つ咳払いをしてから続けた。
「寒くなったら、聡子ちゃんに暖めてもらうから」

 歌うようにそう言うと、男は聡子の手を取った。長い、骨ばった指が聡子の華奢な指と絡み合う。
「ちょっと!」
 何のつもりだ、これは。聡子は途端に真っ赤になって抗議の声を上げたが男は繋いだ手を解こうとはしなかった。
「まあ、良いじゃん。デートだし」
 軽い口調でそう言った男に、聡子はそういう問題じゃない!と怒鳴り返す。何とかして振りほどこうと躍起になる彼女に、男は小さく苦笑した。

「そんなにムキにならなくても……。もしかして、男と手を繋ぐの、初めて?」
「どうだって良いでしょう!そんな事!」
 図星を突かれて、聡子の顔は更に赤くなる。あまりに真っ直ぐな彼女の反応に、男は笑みを大きくした。
「聡子ちゃん、可愛い」
「なっ……」

 怒りと恥ずかしさで絶句する聡子を引きずるようにして、男は入場口へと歩き出した。
「まー、そんなに怒らないで。楽しもうよ、せっかくのデートなんだからさ」
 最後のね、と付け加えてにっこりと微笑みかける男。まるで作り物のように完璧なその笑顔から目を逸らして、聡子は首に巻かれたマフラーに顔を埋めた。

 男の言動は、優しさからなのか、それとも聡子をからかって楽しんでいるだけなのか。男の真意がどこにあるのか、考えてみるのも面倒になって聡子は空を見上げた。冬の日の弱い日差しが火照った顔を遠慮がちに照らす。思いやりでも悪ふざけでも、どっちでもいい。どうせ、今日で全て終わるのだ。そう考えた時に不意に感じた違和感を、聡子は溜息と一緒に吐き出した。


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