遅れてきた大魔王

<8.大魔王の「約束」(2)>

 ふと目を開けると、ガラス窓に映る寝ぼけ顔の自分と目が合った。ここはどこだろうという疑問がちらりと頭を掠めたが、目の前にあるダッシュボードを見て、ここが男の車の中で、今は家に送ってもらう途中なのだという事を思い出した。
 隣を見ると、眠りに着く前まで男が座っていた運転席は空だった。車を停めてどこかへ行っているらしい。いつの間にかラジオに切り替わったらしいカーステレオのスピーカーからは、陽気なリズムの音楽とDJの軽快な喋り、それにリスナーのものらしいやけにくぐもった笑い声がスピーカーから聞こえてくる。リスナー参加型のクイズか何かの最中らしい。

 暖房の効いた車内でコートを着込んだまま眠ってしまったからだろうか、頬が熱かった。まだ完全に眠りの中から抜け切れない頭を、窓ガラスに預ける。ひんやりとした外気がガラス越しに伝わってくるのが心地良い。意識が徐々にはっきりとしてきて、頭が本来の稼動スピードを取り戻すと同時に、忘れていた現実が大群となって押し寄せてきた。

「……あ」

 ここはあの男の車の中。今はどこかへ行っているらしい男は、彼女が眠ってしまった事を知っているに違いない。寝顔だってきっと見られてしまっただろう。間抜けな顔で眠る自分を見て男が大笑いする様子を想像して、聡子はシートの上で凍りついた。男が戻ってきたら、からかわれるに違いない。いや、もしかしたらこっそり写真などを撮っていて、それをネタに自分を脅す気かもしれない。あの男の事だ、可能性は十分ある。
 そもそも、あんな得体の知れない男と二人きりなどという状態で眠ってしまうなんて無用心にも程がある。眠っている間に何かされたらどうするのか。まさか、隣で眠ってしまえるほど自分は男の事を信頼しているとでもいうのだろうか。ありえない、冗談じゃない。
 大体、あの男はどこに行ったのか。車のエンジンはかけたままだからすぐ戻っては来るだろうが、何となく気味が悪い。そして、ここはどこなのか。男はどういうつもりでここへ連れて来たのだろうか。男は今、何をしているのか。

「もしかして……」

 誘拐、人身売買、快楽殺人。テレビや新聞の中のものでしかなかった言葉が、急に現実味を帯びたものになって聡子の頭を駆け巡った。あの男は、やはりとんでもない危険人物だったのだ。そんな男にみすみす近づき、巻き込まれる。もう二度と家には帰れないかもしれない。せっかくやり貯めておいた英語の予習も、全て無駄になってしまうかもしれない。未だにスピーカーから流れ続けるケタケタという笑い声が、妙にヒステリックなものに聞こえ、耳を塞ぎたい衝動に駆られる。

「…あー、馬鹿だ私」
 胸に抱えたままの鞄に顔を埋めて呻く聡子の隣で、ドアが開く音がした。外の冷気と一緒に、男の声が降ってくる。

「聡子ちゃん?」
「わっ!?」

 心臓が口から飛び出しそう、とはこの事だ。とっさに顔を上げると、目の前には男の顔があった。先程までの想像のせいか、思わず助手席のドアぎりぎりまで後ずさってしまう。
 男はそんな聡子を見て不思議そうに首を傾げた。その手には、缶ジュースが握られている。
「どうかした?」
「どっ…どうもしない!それよりあんた、どこに行ってたのよ?」
 聡子の問に、男は事も無げに「ジュースを買いに」と答えた。

「聡子ちゃん、疲れてるみたいだったから、ちょっと休憩しようと思って。ぐっすり眠っているのに起こすのは可哀想でさ……と言っても、まだ十五分くらいしか経ってないけどね」
 男はそう言うと、手に持っていた缶ジュースのうち一本を聡子の方に差し出した。聡子がそれを受け取る寸前、男は急に何かを思いついたようににやりと笑うと、彼女の顔を覗き込んだ。
「俺がいなくて寂しかった?」
「まさか!」

 力の限りに否定する聡子に、男は笑ってジュースの缶を手渡した。白を基調にした紅茶の缶は、まだ温かい。
 「…ありがと」
 聡子は、男に聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声で呟いた。

 スピーカーから流れるラジオ番組ではもうクイズコーナーは終わったらしい、くぐもった声は聞こえなくなっていた。壊れたミッキーマウスのような声をしたDJが一人でひっきりなしに喋り続けている。

『ラジオネーム「タカトビ」さんからのリクエスト…いつも部活帰りに聞いています。活動休止になってだいぶ経つけど今でも超大好き……』

 メッセージに続けて語られたバンド名は、聡子の知らないものだった。少し前にクラスの女の子が話していた気がするが、よく覚えていない。
 やたらと早口の曲名紹介が終わるか終わらないかという所で、不意に、男がカーステレオの操作ボタンに手を伸ばした。軽快なテンポで鳴り響いていたギターとドラムの音が、唐突に途切れる。

 再びCDに戻ったステレオからは聡子が眠る前と同じ静かな音楽が流れ出した。

「騒がしいのは好きじゃない」
 男は誰にともなくそう言うと、自分用にと買った缶コーヒーのプルタブを開けた。何口か飲んだ後で、助手席の聡子の方を見る。
「聡子ちゃんは偉いね」
 その言葉に「何を一体…」と言いかけた聡子を片手で制して、男は続けた。
「俺は実際に見てるわけじゃないから本当の所は分からないけど、聡子ちゃん、何にでも手を抜いたりしないだろう。勉強でも、部活動でも、係の仕事でも」

 聡子は、手の中の紅茶の缶に目を落とした。確かに、男の言うとおりだ。それが実行されているか否かをともかくとして、少なくとも、そうありたいとは思っている。

「いつも頑張ってるんだから、たまには肩の力抜いても良いんじゃない?」
 男はそう言うと、ハンドルを握り、車を発進させた。聡子は男の横顔を見上げた。励ましてくれたのだろうか。渡された紅茶は、こっくりと甘く暖かい。

「ところでさ、聡子ちゃん」
 目は前方から離さずに、男が口を開いた。

「明日は日曜だよね。学校もお休みだろう?」

 確かに明日は日曜日。明日は模試も課外授業もない。部活動もやっていない聡子には、明日は学校に行く用事がない。丸一日休みだ。と言うことは、男の送迎も明日は休み。明日は丸一日この男の顔を見ずに済むのだと気付いて、聡子は心の中でガッツポーズをした。

「そう、だから…」

 明日は送り迎えは必要ない。そう聡子が言うよりも先に、男が言った。

「デートしよう」

 まるで明日の天気を問うようなさり気ない口調で、思わず聞き逃してしまいそうな自然な響きで告げられた言葉。けれど、聡子の耳はそれを聞き逃しはしなかった。

 『デート』
 その聞き慣れない単語に、思わず飲んでいた紅茶を吹き出しそうになる。

「デート!?」
「うん、デート」
「誰が?」
「俺と聡子ちゃんが」
「何で!!冗談じゃ……」

 慌てた口調でそういう聡子を、男は横目でちらりと見た。その目は、余裕たっぷりに笑っている。

「ないなんて言わないよね?最初に約束したじゃない。定期を返す代わりにデートするって」

 確かにした。「デートでも何でもしてやろう」と啖呵を切ったのもよく覚えている。けれど、その約束はもう果たしているではないか。

 そこまで考えた時、男が言った。聡子の考えなどお見通しとでもいうように、低く笑う。
「言っとくけど、今してるのはデートじゃないよ。これは単なるドライブ」

 ドライブとデートの違いは何なのか。その定義を教えて欲しい。
 聡子は、苦い薬を飲んだ後のような顔をして男を睨んだ。刺すようなその視線を男は軽く受け流す。

「そう怒らないでよ。デートしてくれれば、ちゃんと定期も返すからさ」
「…え?」

 聡子は、男の横顔をまじまじと見た。その口の形から、目の動きから、先程の言葉が嘘である証拠を見つけようと試みるが、男のポーカーフェイスは崩れない。

 聡子に疑いの眼差しを向けられて、男は「信用ないなあ」と苦笑した。
「俺は嘘はつかないよ。嘘をつくのは人間だけだ」
 静かな声で言うその響きからは、少なくとも悪意は感じられなかった。

「もしも君が断ったら、俺は人間を思いやりに欠ける生き物だと認識するよ。あのガラス球だって、早々に壊させてもらう……まあ、君がこの星が滅んでもいいから俺と会い続けたいって言うなら話は別だけど」
「まさか!!!」
「だよねー、お人好しの聡子ちゃん。いくら俺との別れが名残惜しくても、そんな事は出来ないよね?」
「違う!アンタ前提間違ってる!!!」
 聡子の怒鳴り声に、男は声を立てて笑った。その声に、聡子の苛立ちは更に募る。
「最ッ抵!」
 聡子は、バックミラー越しに男を睨みつけた。男は、涼しい顔をして運転を続けている。

「……ほんッとに本当でしょうね?」
「ほんッとにホント。大魔王、嘘つかない」
 十年以上前に流行った童謡の節にのせて歌うようにそう言った後で、男は声のトーンを低くした。
「どうする?聡子ちゃん」

 微かに掠れた低い声。甘い響きの余韻が、車内を満たす。

 ああ、まただ。

 聡子は、鞄の持ち手を思い切り握り締めた。
 嫌だと言うことは簡単なのに。また、男のペースに流されてしまう。

「……明日、何時?」
 喉の奥から絞り出されたような、悔しくてたまらないといった様子の声。恨みがましそうに男の横顔を見上げる聡子に、男は口元に浮かべた笑みを大きくした。

「聡子ちゃん」
「何よ?」
「かっわいー」

 途端に顔を真っ赤に染めて怒る聡子。思わず拳を振り上げた後で、男が運転中である事を思い出した。行き場がなくなった左手を持て余すように、紅茶の缶を両手で握り締める。

 カーステレオからは、速いテンポの音楽が流れていた。まるでスキップでもするかのようなリズムに合わせて、男がハミングする。どこまでも陽気なその声には、男がいつも口にする「恐怖の大魔王」の威厳など微塵もない。
 自分はやはりからかわれているのだろう。男のついた手の込んだ嘘に、踊らされているだけなのだ。

「…………」

 聡子は男から視線を外し、外の暗闇に目を向けた。
頭を預けた窓ガラスの向こう側では、もう一人の自分が喉の奥に何か硬い物を詰まらせたような顔をしてこちらを見ていた。
 男が言っていることは全てデタラメ。あの「止まれ」の信号よりも真っ赤な嘘に振り回されている私はおかしいと、自分でもよく分かっている。

 けれど、嫌じゃない。

 そう思っている自分に気付かないまま、聡子は紅茶の缶を口元に運んだ。
 すっかり冷めてしまった紅茶は甘ったるく、微かに苦かった。



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