遅れてきた大魔王

<10.最後の脅迫デート(2)>

 男がデート場所にと選んだこの海浜公園は、都心から車で三十分ほど走った場所にある。広い敷地内には水族館やアスレチック広場、植物園など様々な施設があり、親子連れやカップルに人気の行楽スポットだ。
 聡子自身も、幼い頃にはよく家族と遊びに来た思い出がある。ウサギやポニーに触る事が出来るふれあい動物園が大好きで、週末が来るたびに連れて行ってくれと親にせがんでいたような気がするが、いつの頃からかぱったりと行かなくなってしまった。最後に行ったのが小学校の遠足の時だから、かれこれもう三年以上行っていない事になる。

 久しぶりに訪れた海浜公園は、様々な所が聡子の記憶とは違っていた。昔遊んだ巨大迷路はペンキが塗り替えられて新品同様になっていたし、水族館は建物全体が建て替えられて、まるで海の底にいるような気分になる巨大なトンネル型の水槽の中で魚たちが悠々と泳いでいた。

 初めこそ『デート』という慣れない状況に戸惑っていた聡子だったが、頭上をゆったりと横切ってゆく巨大なエイや、まるで戦闘集団のように水を切って進むマグロの大群を見るうちに緊張が薄れてきたらしい。水族館を一周する頃には、声を上げて笑うようになっていた。
 ここ数日間、男の前では常に不機嫌そうに眉根を寄せていた顔を今日はいっぱいに輝かせて、イルカのショーやラッコの食事の様子に歓声を上げる。建物の中心にある円柱型の水槽の前には、男に絡み取られた手を振り解くことも忘れて目の前を泳ぐ色とりどりの熱帯魚に見入る聡子の姿があった。

 水槽の脇に掛かった魚の紹介文の一つ一つにまで熱心に目を通す聡子とその様子を見守る男という構図は、傍から見るとほとんど本物のカップルのようだった。長身で整った顔立ちの男と、どう見ても高校生以下という聡子の組み合わせは、他の客の目を引くものだったが、二人は全く気付かない。
 沢山の視線と囁き声を無視して、聡子は魚を、男は魚を見る聡子の横顔を堪能していた。

「あー、面白かった!」
 水族館の外にある展望デッキで、聡子は大きく伸びをした。ずっと水槽の中の魚ばかり見ていたからだろうか、眼前に広がる空の広さが何だか懐かしく感じられる。
 水族館なんて何年ぶりだろうと笑う聡子に、男は満足げに微笑んだ。
「お気に召されて光栄です、お姫様」
 冗談交じりにそう言って、男は聡子の隣に立つと彼女がしているのと同じように手すりに体を預けた。

「随分熱心に見てたもんね。魚、好きなの?」
「普段はそうでもないんだけど、こういう所に来るとつい……」
 時間を忘れて見とれてしまうのだと、恥ずかしそうに髪を掻き揚げた。
「ごめんね、山田。退屈だったでしょう?」
 魚やイルカによほど心を癒されたのだろうか、男に対してこんな素直な言葉まで出てくるとは、海の力はやはり偉大だ。
「んー、そんな事無いよ。聡子ちゃん見てるの楽しかったから」
 この数日間で初めてではないかというほど珍しい彼女の発言にも、男は顔色一つ変えなかった。甘い言葉をさらりと口にして、聡子の顔を覗き込む。
「……っ」

 異性を振り回す事にかけては、男の方がやはり一枚上手だったようだ。突然近づけられた眩しいほどの笑顔に、聡子はとっさに後ずさった。赤くなった顔を隠そうとするように、慌てて顔を背ける。

「あ……きれい」
 視線を海の方へと移した聡子は、思わず感嘆の声を漏らした。
 西の空が赤く染まり、温かくて冷たい光の道が波の上に落ちている。
 対岸にある市街地では、そろそろ夜の仕度が始まったようだ。立ち並ぶビルに、一つ、また一つと明かりが灯る。
 都市高速の高架を走る車のテールランプが、いくつもいくつも流れていった。

「随分、沢山の人間が暮らしているんだね」
 暮れゆく街と海を眺めながら、男がぽつりと呟いた。
「海しかなかったこの場所に、地面を作りビルを建て……。皆、一体どれだけの物を積み上げてきたんだろう」

 どんなに必死に積み上げたとしても、無に還る時は来るというのに。

 男は誰にともなくそう言うと、おもむろにコートの内ポケットに手をやった。
 取り出されたのは、小さなガラス球だった。
 以前、聡子に向かって地球そのものだと言ったそれを、男は顔の高さに持ち上げた。まるで、ガラス球越しに世界を見ようとするように中を覗き込む。

「ねえ、聡子ちゃん」
 唐突な呼びかけに聡子が振り向くと、何かが抜け落ちたような顔をして海を見つめる男の横顔が目に入った。いつも絶やす事の無なかったそつのない笑顔も、今は見る影も無い。

 全ての表情が剥がれ落ちた顔のまま、男は言った。

「何もかも、壊してしまいたいと思った事ってない?」

 聡子は、何も言えずに男の横顔を見つめた。先程までの彼とは、何かが決定的に違っていた。この目は、どこを見つめている?その耳は、何を聞いている?

「明日があるなんて保障はどこにもないんだよ」
 男は聡子の方を振り返ると、淡々とした口調で言った。
「どんなに努力したとしても、それが全て報われるとは限らない。積み上げてきた物が一瞬で崩れてしまう時だってあるんだ」

 丁度今のように、と男はガラス球を聡子の方へ差し出した。聡子の右手に乗せられたそれは小さく、ひんやりと冷たかった。

「いつ崩れるとも知れないもののために、必死になるのは馬鹿げていると思わない?」

 顔を上げると、こちらを見つめる男と目があった。血の通わない声。感情の篭らない瞳。普段とはまるで違う顔を見せる彼は、一体何物なのか。

 今まで本気で信じてはいなかったが、男の言っていた事は本当なのかもしれないと、その時初めてちらりと思った。今まで聡子が見ていた『山田次郎』はツクリモノで、こちらがホンモノ。『恐怖の大魔王』は、今、この世界を滅ぼそうとしているのかもしれない。

 聡子は、男から目を逸らす事が出来なかった。逸らしてはいけない気がして、茶色がかった男の目をただじっと見つめていた。

「ねえ、聡子ちゃん」
 海風に乗って聞こえた囁きは、甘い響きを含んでいた。口の端を僅かに歪めて、男は言う。

「俺と一緒に、世界を滅ぼしてみない?」



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