遅れてきた大魔王

<7.大魔王の「約束」(1)>

「……おーい、お前ら、そろそろ最終下校時刻だぞ」
 教室の出入り口付近から飛んできた年配の教師ののんびりとした声に、聡子は顔を上げた。
 黒板の上に掛けられた時計は、六時四十五分を指している。最終下校時刻十五分前だ。
「じゃあ、今日はここまでにしよう。月曜も終礼後にここに集合」
 一人の男子生徒がそう言うと、その場にいた数名の生徒がそれまでやっていた作業を止め、机の上にちらばった紙の束を片付け始める。聡子も大急ぎで手に持っていたプリントに簡単な印を付けると、ペンやハサミなどを教室の隅に備え付けられた引き出しの中にしまいに行った。
 慌しく帰り支度をしながら、窓の外に目をやる。日はとうの昔に落ちてしまい、辺りはもう真っ暗だ。ガラス窓に映る自分は、僅かに疲れた表情をしていた。
 無理もない。土曜だと言うのに今日は随分忙しかった。
 朝から昼過ぎまで模擬試験を受け、模試が終わってから今までは、狭い生徒会室の中で全校生徒を対象にしたアンケートの集計に追われていた。
「今年の『送る会』では、どんな出し物をしたいですか?」
 そう書かれたB5のザラ紙に書かれたてんでばらばらな意見を集計するのだ。さらにそれから、その集計された意見を参考に企画を立てて準備をする。それまでに要する労力の事を考えて、聡子は小さくため息をついた。
 
 この学校では、毎年一月末に三年生を送る会が開かれる。
 卒業間近の三年生に、これまでの感謝の気持ちを伝えるために開かれる会で、文化祭や体育祭に並ぶ名物行事の一つだ。一月といえば、送られる当の三年生にとっては間近に迫った大学受験の最後の追い込みの時期に開かれる会なのだが、それでも「受験勉強のいい息抜きになる」と楽しみにしている者も多いという。
 生徒の自主性を重んじる東陽高校では、学校行事のほとんどが生徒自身の手で企画・運営されていた。この送る会も例外ではなく、生徒会役員を中心とする実行委員会のメンバーが毎日遅くまで学校に残って準備をする。実行委員会は、各クラスから二名ずつ選出された委員で構成されている。聡子は、その実行委員の一人だった。
 だからと言って、送る会に興味があったわけではない。そもそも、学校行事全般に対する彼女の態度は淡白だ。興味もないのに実行委員になり、こんなに遅い時間まで学校に残って仕事をしていたのは、何の事はない、クラスの中にそれをやる人間がいなかったからだ。
 一見するとそっけない態度とは裏腹に、聡子はかなりのお人好しだった。元々責任感が強いということもあって、頼まれると嫌だと言えないのだ。よっぽどの理由がない限り、仕方がないなあと引き受けてしまう。周りとしても、しっかり者に見える聡子に任せるのは安心できるのだろう、お陰で小学校の頃から今まで、背負った肩書きの数は数え切れない。
 けれど、聡子はそうした状況について不満に思った事は一度もない。無理難題を吹っ掛けられている訳ではないのだ、出来る人間がやればいい。
 今日の集計だってそうだ。他のクラスから選出された委員のうち、半分以上は委員会や部活の掛け持ちで、終礼後に回収したアンケートの束を提出しただけで慌しく教室を出て行ったが特に腹は立たなかった。同じエネルギーを使うなら、怒るよりも仕事をするほうに使う方が効率がいい。
 
 他の委員に挨拶をして生徒会室を出た。僅かな数の蛍光灯しか灯らない廊下は薄暗く、冷え冷えとしている。聡子は足元からじわじわと這い上がってくる冷気を振り払うように、昇降口へと向かう足を速めた。
 土曜日ということもあり、どの部活も今日は練習を早めに切り上げたのだろう、この時間まで校内に残っている生徒はほとんどいなかった。静まり返った廊下に響く自分の足音を聞きながら、聡子は、今日はもう男は待ってはいないだろう、とぼんやりと考えた。
 普通ならば、昼過ぎには学校を出ていたはずなのだ。朝車から降りるときにも、遅くなるとは言わなかった。何も知らない男がこの時間まで待っているはずがない。

「……仕方ない、今日はバスで帰るか」

 無意識の内に転がり落ちた自分の呟きに、聡子ははたと足を止めた。嫌だ。これでは自分が男が来ない事を残念がっているようではないか。
 彼女は勢いよく首を降って、たった今浮かんできた考えを必死になって否定した。そんなことはない。断じてない。あんないい加減な男に付きまとわれて、振り回されて、自分は迷惑しているのだ。あのヘラヘラとした顔を今日はもう見なくて済むのだ、残念どころかお釣が来るほどのラッキーじゃないか。
 そんな事を思いながら歩いていたからだろうか、校門脇の街灯の陰に長身の人影を見つけたとき、聡子の心臓は跳ね上がった。
 まさか。いや、そんなはずはない。

「聡子ちゃん」

 僅かに掠れた声に名前を呼ばれて、聡子は我に返った。
 当惑しながらも小走りで校門を出ると、人影もまた、彼女の方へ二、三歩踏み出しているのが見えた。薄く笑みを浮かべた整った顔が、オレンジ色の街灯の明かりの下に現れる。

「お帰り、聡子ちゃん。勉強ご苦労様」
 涼しい口調でそう言う男を、聡子は信じられない思いで見上げた。
 帰りが遅くなるだなんて、自分は一言も言わなかった。
 とっくの昔に帰っていると思ったのに。

 「何で……」
 思わずこぼれ出た呟きは呆けたような響きを含んでいて、聡子は思わず口を押さえた。
 そんな彼女に、男はにっこりと笑いかける。
「一緒に帰ろう」
 そう言って男は、彼女の肩に手を置いた。

 一瞬だけ頬に触れた黒いコートの袖は、驚くほど冷たかった。
 一体どれだけの間、あの場所に立っていたのだろう。
 今日は晴れていたとはいえ、十二月の風は冷たい。まして、日が沈んだ後ともなればなおさらだ。
 聡子は、鞄を持った手をぎゅっと強く握り締めた。
 コートの分厚い生地越しにも分かる冷え切った掌。
 街灯の明かりに照らされて白く光る吐息。
 歩き出す男に促されて、学校の側にある駐車場へと向かう。
 何故だろう、抵抗することが出来なかった。
 いつもなら次から次へと口を突いて出てくる憎まれ口も、今日はどこかへ出張中らしい、すっかりなりを潜めてしまって出てくる気配すらない。

 言われるままに助手席のドアを開けて車に乗り込み、シートベルトを締めた。この数日の間にすっかり馴染んだシートの背もたれに体を預ける。
 そんな自分に、今日の私はどこかおかしい、と彼女は小さく溜息をついた。この男の突飛な行動に、すっかり調子を狂わされている。
 男はハンドルを握り、エンジンをかけた。心地良い振動が、車内を満たす。カーステレオから流れてくる音楽は、聡子の知らない外国の歌手のものだった。ゆったりとした静かなメロディと柔らかな女性の歌声が、耳に心地良い。
 窓ガラスの向こう側に見える大通りは、街灯と道路脇に立ち並ぶ店の明かりで明るかった。十二月という時期のせいか、街を彩る光の量がいつもよりも多い。
 暖房が入っている車内は、少しずつ暖かくなってきた。凍えていた指先が、頬が、徐々にほぐれていくようだ。
 不意にこみ上げて来た欠伸をかみ殺しながら、聡子は膝に置いた鞄をしっかりと抱え込んだ。どこか聞き覚えのある曲を歌う、女性歌手の甘やかな声が遠くなる。

「ねえ、聡子ちゃん……」

 大通りに出て最初の信号機。赤い光に車を一時停止させた男が助手席を振り返った時、聡子は鞄を胸に抱えたまま静かに寝息を立てていた。
 いつも眉根を寄せて不機嫌そうな顔をしているその寝顔は無防備であどけない。男は小さく笑うと、再び動き出した車の流れに乗ってアクセルを踏んだ。




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