遅れてきた大魔王

<6.待ち伏せと不当な取引>

 一昨日の放課後に受けた衝撃を、聡子は一生忘れないだろう。いや、忘れたくても忘れられないに違いない。
 終礼を終えて校舎の外にでると、校門の脇に「山田次郎」が立っていた。朝と同じチャコールグレイのスーツと黒いコートに身を固め、長い足を持て余すように斜めに組んでいる。 もう二度と見たくなかった人物を前にして、彼女はその場に凍りついた。

 男は通り過ぎる生徒を片っ端から捉まえて「ねえ、小島聡子さんってまだ学校にいる?」と訊ねていた。ホストまがいのあんなに目立つ格好で、あんなに目立つ場所で、あんなに大声で、人の名前や学年やクラスやあまつさえは出席番号まで言い回るなんて信じられない。どれだけの生徒の記憶に自分の名前がインプットされたのかと思うと、眩暈がする。
 
思わず回れ右をしてもと来た道を戻りかけたところで、男が聡子に気が付いた。

「あ、いたいた。さっとこちゃーーーーん」

 一体どうして拡声器まで持っているのだ、あの男は。機械によって更にボリュームを増した自分の名前を呼ぶ声に驚いて、聡子は三十センチほど飛び上がった。

 肩を竦ませておそるおそる振り向いた聡子に、男は更に拡声器で話しかける。
「聡子ちゃん、まだ帰ってなかったんだね。良かったー」

 ちっとも良くない。出来る事ならコイツとは顔を合わせずに帰りたかった。今日に限って終礼での担任の話が長かったのが恨めしい。

「俺、ずっとここで待ってたんだ。すれ違いになっちゃったらどうしようかと思った」

 正門以外に出入り口のないこの学校では、すれ違いなど起こるはずがない。けれど、すれ違えたらどんなに幸せだっただろう。どこか乗り換えられる塀や潜り抜けられる生垣はなかったかと校内の見取り図を頭の中で広げたが、彼女の記憶する限りそんなものはどこにもない。

「聡子ちゃん、一緒に……」

 聡子は無言で前庭を突っ切って校門を抜けると、男の手から拡声器を奪い取った。きぃぃんという雑音に顔をしかめながら乱暴にスイッチを切る。周りを取り巻く他の生徒の、驚きと好奇が入り混じった視線がどうにも居心地が悪くて仕方がない。とにかく一目に付かない場所に行かなければと、有無を言わせぬ勢いで校舎からは死角になる学校脇の路地へと男を引っ張っていった。

「帰ろう」
「何やってんのよ!こんなとこで!」

 普通の大きさに戻った男の声にかぶせるように、聡子は怒鳴り声を上げた。手にした拡声器を今にも真っ二つにへし折りそうな様子の彼女を、男はきょとんとした顔で見ている。

「何って…聡子ちゃん待ち」
「誰が待ってろって言ったのよ!?そしてこれは一体何なのよ!?」
「俺。朝に言っからさ、『またね』って。あ、これは拡声器ね。喉に負担掛けちゃいけないなーと思って持ってきた」

 男は整った顔を長い人差し指で指して、にっこりと笑った。いい年をした大人である男の邪気のない笑顔は、聡子の神経を一気に逆撫でる。

「へ〜え、『またね』って言ったから来たの?喉に気を使っているから拡声器なの?有言実行なのね。体を大事にしてるのね。素晴らしいわ」
「マジで?いや〜、聡子ちゃんに褒めてもらえるなんて嬉しいねえ〜」
「褒めてない!皮肉よ皮肉!大体ねえ、『また』なんて社交辞令に決まってるじゃない。そんなの信じる人間なんて誰もいないわ」

 顔を真っ赤にしながらそうまくし立てる聡子。精一杯に背伸びをして挑みかかるような視線をこちらに向けてくる少女の顔を、男はまじまじと眺めた。

「聡子ちゃん」
「何よ?」
「それ、本気で言ってる?」

 問いかける男の目は至って静かだ。先程まで見られたこちらをからかっているよう雰囲気や不敵さはどこにも見られない。聡子は思わず踵を地面に降ろした。

「ほ、本気に決まってるじゃない。何か文句ある?」

 仮にも自分よりも年上の人間に対して、失礼な態度を取っているのは自覚していた。自分の言葉が、どんなに冷たく薄情なものに聞こえるかも。だから、開き直った態度を取って身構えた。どんなに口で綺麗事を言っても、結局誰も考える事は同じなのだと。あんただって、心の中では同じ事を思っているんじゃないか。薄っぺらい説教なんて聞きたくない、そんな思いで聡子は目の前にいる男の顔を仰ぎ見た。
 そんな彼女の思惑を知ってか知らずか、男はコートのポケットの中の左手をごそりと動かした。

「いや、文句はないけど………」

 男は言いながら、聡子の方へ手を伸ばした。頭のてっぺんに、僅かな重みが掛かる。

「そういう考え方って、寂しくない?」

 とっさに頭の上に手をやった時には、男の手はもう聡子の頭から離れていた。張り詰められた緊張の糸が不意にぷつりと切れたようで、聡子はぽかんとした表情のままその場に立ち尽くした。そんな彼女の顔を男は面白そうに一瞥すると、頭の上に置かれたままの手を取った。

「まあ、要は俺が聡子ちゃんにもう一回会いたかったって事なんだけどね」

 口元に再び笑みを宿して、男は聡子の顔を覗き込んだ。長い睫毛に縁取られた瞳は、色素が薄いせいなのだろうか、僅かに茶色がかって見える。その小さな円形の窓の中に自分の呆けた顔が映っているのを見た瞬間、聡子は現実に引き戻された。

 どうしようもない決まりの悪さに襲われて、慌てて男の手を振り払う。

「私は会いたくない!」

 一言そう怒鳴り、回れ右をしてその場を立ち去ろうとした聡子の肩を男の右手がぐいと掴んだ。後頭部が男の肩にぶつかって、不本意ながらも男に後ろ向きにもたれかかってしまう。
 男は低く笑いながら、聡子の耳元に顔を近づけた。

「そんな事言って良いの?困ったことになるよ?」
 
男の吐息が耳をくすぐる。自分の体温がみるみる上がっていくのを感じながら、聡子は努めて冷静な声で言った。

「定期の事ならご心配なく。学生証だろうが何だろうが、悪用したけりゃすればいいわ。あんたに何されても怖くないから」
「定期どうのなんていう些細な事じゃないよ。君が俺を怒らせたら、もっと大変な事になる」

 男はそう言うと、持っていた拡声器を聡子の目の前に掲げた。

「これ、なーんだ」
「拡声器」

 何を分かりきった事を聞くのかと、呆れた調子を隠そうともせずに即答すると、男の唇から溜息にも似た笑いが漏れた。

「そうじゃなくて、これ」

 男の言葉と共に拡声器が僅かに持ち上げられて、拡声器を握る男の手が彼女の視界を塞いだ。その手の下で、きらりと光る物がある。聡子はその光の発生源に目を落とした。
 光っていたのは、拡声器の持ち手の先に付けられたキーホルダーだった。直径二センチほどの青いガラス球が、冬の午後の弱い日差しを反射してキラキラと輝いている。

 男は聡子の視線がガラス球に向けられている事を確認すると、満足そうに頷いた。

「さて聡子ちゃん、ここで問題です。このキラキラ光るものは一体何でしょう?」

 何の特別な装置も、飾りも無いごく普通のガラス球だった。色は、まるで吸い込まれるかのような深い青。こんな色をしたガラスを、聡子は今まで見たことが無かった。表面には、所々濃い緑色の模様がある。大小さまざまな大きさをした模様は、まるで海に浮かぶ島のようだ。

 これと似た物を、聡子は小学生の頃に学校の理科準備室で見た事があった。確か、天体の模型だった気がする。

「地球みたいだろう?」

 彼女の考えを読んだかのように、男が耳元で囁いた。

「いや、むしろ地球そのものだ」

 低く抑えられているはずの男の声が、やけに響いて聞こえる。
 聡子は男の顔を振り仰いだ。
「どういうこと?」

 男は聡子の顔を見下ろすと、にやりと笑った。

「これはね、創造主からの預かり物なんだよ。この星を滅ぼすための一種の起爆スイッチ…ってやつかな。これが割れれば、地球も崩壊する」

 鼻歌交じりの口調とは裏腹に、男の目は全く笑っていない。髪と同じダークブラウンの瞳は、冷たく、硬質な光をたたえている。

「俺の仕事、言ったよね?この星を審査することだって。俺は創造主の目であり、耳であり、手足だ。この星を滅ぼすか否かは、全て俺の判断に委ねられているんだよ。もしも審査の途中でこの星は存続する価値がないと判断した時には、この球を壊すように言われてる」
「な……」

 何を馬鹿な事を、と言い掛けた聡子の言葉を目線で封じて、男は彼女の肩まで伸びた髪に空いている方の手を伸ばした。黒く真っ直ぐな髪を指先で弄びながら、のんびりとした口調で言う。

「正確に言うと、この星が滅びるわけじゃないんだけどね。環境が著しく変わって、今地球上にいる生き物が…少なくとも君達人間は確実に…生活できなくなるってだけの事なんだよ。どうせ、俺が何もしなかったとしても、このままのペースで行けばいずれは起こる事なんだ。百年や二百年早まってもどうって事ないだろう」
「冗談じゃないわ。困るわよ!すっっっっごく!!」

 聡子は、勢いよく頭を振って男を睨みつけた。乱れた髪を直す事も忘れて、声を荒げる。
 そんな彼女の抗議の声にも、男は眉一つ動かそうとはしなかった。彼女の耳の横で、ガラス球をこれ見よがしに前後左右に大きく揺らしながら淡々とした声で言う。

「困るのは君達だけだろう?この星自体は残るわけだからね、何の問題もないんだ。地球にとっては、上で暮らしている生き物が何だろうと…そもそも、生き物がいようといなかろうと全く関係ないんだよ。…まあ、他の生き物には気の毒な話だけど、馬鹿な隣人を持って運が悪かったと思ってもらうしかないな。ねえ、聡子ちゃん」

 聡子はふいとそっぽを向いて、男の同意を求めるような視線をかわした。左肩には、男の手が置かれていた。そんなに強い力を掛けられているわけではないのに、ひどく重く感じた。逃れたいのに逃れられない、そんな奇妙な閉塞感が彼女を襲う。

 目を合わせようとも、口を聞こうともしない聡子を見下ろして、男はやれやれとでも言うように溜息をついた。

「どうしても信じられないっていうなら…試してみる?」

 そう言うと男は、拡声器からキーホルダーを取り外し、それを、聡子の目の高さにまで持ってきた。聡子の鼻先で、青いガラス球がゆらゆらと揺れる。

「1……2……」

 男が口の中で小さく数を数え始めた。きらりと反射する西日が真っ直ぐに目に飛び込んでくる。聡子は思わず目を細めた。

 ただの茶番だという事は分かっていた。

 このガラス球がアスファルトの上に落ちて粉々に砕け散ったとしても、何も起こりはしないだろう。この星がいくつもの深刻な問題を抱えている事は事実だが、それが世界の滅亡に結びつくのはまだまだ遠い先の話で、今日明日のうちに滅びてしまう…などという事はないはずだ。

 そう、分かっていた。
 この男が言っているのは全てデタラメ。

 でも。
 
もしも、その無数の嘘の中にほんの一つでも本当の事が混ざっていたとしたら?
この男に地球を滅ぼすなんて大それた真似はできないだろう。
けれど、対象がこの学校一つだったら?
『滅ぼす』と称して、他の生徒に危害を加える気でいるとしたら?
聡子は、息を詰めて次第に大きく振れていくガラス球を見つめた。

「…さ」

 気が付くと、体が勝手に動いていた。

 男が言い終わるよりも一瞬早く、聡子はガラス球を持つ大きくしなやかな手にしがみついた。手首に小さな丸い物が当たるのを感じて、ガラス球がまだ男の手から離れてはいなかったのだと確認する。
 ほっと安堵の溜息をついて目線を上げると、そこには「してやったり」と言わんばかりの男の笑顔があった。
 日の光に輝く茶色い髪。長い睫毛に縁取られた目を細めて、男は聡子の手を取った。

「さあ、どうする?聡子ちゃん」

 ……また嵌められた。
夕日に照らされた男の笑顔が眩しくて、腹立たしくて、聡子は唇を噛み締めた。


 結局、聡子は男の口車に乗せられて駐車場まで連れて行かれてしまった。以来、男は聡子の学校への送迎を続けている。
 男は、前の日の夕方に家の近くの路肩で聡子を降ろす時に言う「また明日」の言葉どおりに、毎朝同じ場所に車を停めて聡子が通るのを待っていた。どんなに早い時間に家を出ても、どんなに遅くまで学校に残っていても、男は涼しい顔で聡子の目の前にやって来て助手席のドアを開けるのだ。

 送り迎え以外の時間に、男が何をしているのか、聡子は知らなかった。聞いてみようという気も起こらなかった。聞いてもまともな答えなど得られるはずがない。そんな事を聞こうものなら、男はますます調子付くに決まっている。「そんなに俺に興味があるの」からかわれ、はぐらかされて終わるのがオチだ。
 第一、男が昼間どこで何をしていようと聡子には何の関係もない。

(そうよ、そうなのよ。関係ないのよ、変態男)

 考えるのも気分が悪い。思い出すだけで腹が立つ。
腹立ち紛れに、手に持った箸を子持ち昆布と梅干の載った白ご飯にぐさりと突き立てたとき、聡子の向かい側に座った子がうっとりとした声で言った。

「……ね、小島さん、どんな感じ?」

再び自分に皆の視線が集まったのを感じて、聡子はさり気なくかつ素早く箸をご飯から引き抜いた。

「……どんな感じ…って?」

前半部分を聞き逃していたため、何を問われているのか分からない。恐る恐る聞き返すと、他の女の子達もわっと声を上げた。

「だからー、彼氏の車で送り迎えってどんな感じなの?って」
「いいなー。私もやってもらいたいー」
「あんたは無理よ。高校生は運転できないしねー」
「そうそう、卒業したらすぐに高橋君に免許取ってもらわないとね」
「ねえねえ小島さん、どこで知り合ったの?あんな素敵な人と」
「っていうか、どこまで行ってるの?」
「車の中で、どんな事話してるの?」
「彼は何してる人?大学生?それとも社会人?」

 十代の女の子特有の高い可愛らしい声が、いくつも重なり合ってこだまする。四人に一斉に喋られて、聡子は軽い眩暈を覚えた。この人数でこれだ、自分は平成の聖徳太子にはなれそうもない。
 キラキラと期待のこもった眼差しでこちらを見てくる級友達に多少気おされながら、聡子は口を開いた。

「あー、いや、そのどんな感じ…って言われても……」
 
答えは一つ、『最悪です』。この一言に尽きる。けれど、そういったところで一体誰が信じてくれるだろう。
 
「……えーと……ほら……そもそも、あの人彼氏じゃないし」

そう言った途端、女の子達は揃って不満そうな顔になった。

「またまた、嘘ばっかり」
「本当よ、本っっっっっっ当にアイツとはそんなんじゃないんだから!」

そう言う口調に思わず熱が入る。

「あれはね、親戚……そう、親戚のお兄ちゃんなの!母方の。ここ二、三日家に泊まってるのよ」
「それにしては、随分仲が良さそうじゃない」
「いや……それは、あの人、ちょっと変わってて……元々ちょっとユニークっていうか、浮世離れしてたっていうか……そういうところに更に留学なんかしちゃったもんだから、何だか変にフレンドリーなのよ。普通の人とは感覚が違うのよね、きっと」

 普通に喋ろうと思うのに、何だか妙に声が上ずり、早口になってしまう。
 級友達は、どこか釈然としない……と言うような顔をして、聡子の話を聞いていた。
 一つ嘘をつけばその嘘を隠すために嘘に嘘を重ねなくてはならない。嘘は身を滅ぼす元になるという、小学校の時の担任の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
 自分でついた嘘が雪だるま式に膨れ上がっていくのを感じながら、聡子は乾いた声で力なく笑った。



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