遅れてきた大魔王

<5.噂の「あの人」>

「…じゃあ、今日はここまで」
 教壇の上に立った教師の無機質な声に被さるように、三時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。まるで全て計算されていたかのように見事なタイミングに、教室のあちこちから漏れる感嘆の溜息。
 来年定年を迎えるこの化学教師は、毎回チャイムと同時に授業開始の挨拶を行い、チャイムと同時に授業を終える。「生徒の授業時間も、休み時間も侵害しない」という口癖の通り、四月から今まで一度も開始時間に遅れたことも無ければ、話が時間内に収まらずに授業時間を延長したこともない。あまりに正確なその時間配分は、生徒達にとって大きな謎の一つで、「実はストップウォッチを隠し持っている」「体内時計が異様に発達している」「実は彼は超能力者で、背後に掛かった時計を見ることが出来る」など、様々な噂が後を絶たなかった。淡々とした口調のせいか、授業自体は少々面白味に欠けるものではあったが、生徒たちにはそれなりに慕われている部類に入る教師だ。

 聡子の通う東陽高校では、午前三時間、午後三時間というやや変則的な時間割になっている。朝礼の前に更に一時間課外授業があるので、午前中に四時間授業を入れていては生徒の胃袋と集中力が持たないだろうという、学校側の配慮だろう。
 授業終わりの挨拶もそこそこに、空腹を抱えた生徒達は一斉に昼食の準備を始めた。
 パンやうどんを買うために食堂へと走ったり、弁当の包みを鞄から出したり、洗面所に手を洗いに行ったりと、教室の中は途端に賑やかになる。
「次回は、飽和蒸気圧についてやるからな。56ページを予習しておくように」
教室を去り際に教師が言い残した言葉も、元気の良い話し声や笑い声に掻き消されて宙に浮いてしまっていた。

 聡子は体を斜めに傾けて、前の時間の板書の残りを素早くノートに書きとめた。
 いつも黒板の左端に立って話をする癖のあるこの教師の授業では、窓際最前列の彼女の席からはどうしても見えずに、授業中には書ききれない箇所が出てきてしまう。それでなくても、チョークの粉をもろに被り、先生の目に付きやすいこの席は席替えの時にはいつも交換に出される「評判の悪い」席だ。だが、彼女自身はこの位置を結構気に入っていた。各教室に二台ずつ置かれたストーブの内の一つが、教壇脇の窓際…聡子の真ん前に置かれているため、ストーブから発せられる熱を独り占め出来るのだ。
 聡子はノートから顔を上げてシャープペンシルをペンケースにしまうと、うーんと両手をストーブの方へ伸ばした。ゆらゆらと揺れる空気は暖かい。机にうつ伏せた背中には、日光が当たって気持ち良い。紺色のブレザーが熱をぐんぐん吸収して熱いほどだ。冷え性の聡子にとって、これほどありがたい事は無い。
 二ヶ月前の自分の籤運の良さに感謝しつつ、机の横に掛かった鞄を覗き込む。弁当箱を取り出そうと鞄の中に手を突っ込んだ時、背後から彼女の名前を呼ぶ声がした。
「小島さん、一緒に食べよう」
 振り返ると、同じクラスの女子生徒が3〜4人固まってこちらを見ていた。今月の初めにストーブの使用が始まってから、昼食を一緒に食べるようになった子達だ。彼女達にとっての目的はあくまでもストーブであって聡子自身ではない事は、自分でもよく分かっていた。でも、その事に腹を立てて彼女達を拒絶するほど自分は子供ではないつもりだし、理由はどうあれ声を掛けてもらえるのは嬉しい。聡子はにっこりと笑って頷くと、彼女達が座りやすいように机の位置を少しずらした。

 弁当やパンを食べながら、他愛も無い話に花を咲かせる。昨日の○○というドラマが面白かっただとか、数学の高田が四組でキレて机をひっくり返しただとか、駅前にある○○というケーキ屋が美味しいだとか、話題は次から次へと変わって途切れる事がない。ひっきりなしに喋っているように見えるのに、手元の弁当箱の中身は着実に減っていっているのだから大したものだ。
 もっぱら聞き役専門の聡子は、賑やかに展開される彼女達のお喋りににこにこと頷きながら弁当を口に運んでいた。聡子が母親特製の厚焼き玉子を口の中に入れた時、それまで別の話で盛り上がっていたお弁当仲間のうちの一人が、「そういえば…」と言いながら彼女の方を見た。
「小島さんって、あの人と付き合ってるの?」
 ややのんびりとした口調で発せられたその言葉に、その場にいた全員の視線が聡子に集中する。まさか自分の方に話が振られるなんて思ってもいなかった聡子は、玉子焼きを吹き出しそうになって慌てて口を押さえた。
「……っと、あの人ってどの人の事?」
 落ちつけ、聡子。まだあいつの話だと決まったわけじゃない。
 努めて平静を保ちながら聞き返すと、今度はさっきとは別の、聡子の隣に座っていた女の子がにやにやと意味深な笑みを浮かべながらわき腹を突いてきた。
「またまた、とぼけちゃって……最近いつも送り迎えして貰ってるじゃない」
 ……ビンゴ、大当たり。
聡子は引きつった笑いを口元に浮かべた。

 彼女達の言っている「あの人」とは、間違いなくあいつの事だ。

山田次郎(仮名)。
自称、恐怖の大魔王。

他人の学生証と定期券を拾い、未だに持ち主に返すことなく保有している不届き者。

 さらさらとしたダークブラウンの髪。大都会のネオン街が似合う、甘く軽薄そうな笑顔。聡子の好みからはまるでかけ離れた……いや、死んでも関わりたくない部類に属する男の運転する車に乗っての登下校。これは聡子にとってかなりの屈辱だ。車から降りるときに浴びる周りの生徒の好奇の視線が思い出されて、彼女は寒いわけでもないのにぶるりと背中を震わせた。

 二日前の朝に男の車から降りたときには、あんな男とはもう会うことは無いだろう…いや、何があっても関わるものかと思っていた。始業時間ギリギリに教室に滑り込み、鞄の中から教科書を取り出す時になって定期券と学生証を取り返しそびれた事に気付いたが、仕方がないと諦めたのだ。あんな男に振り回されるくらいなら、定期代や生徒指導主事のお小言なんて何でもない。万が一個人情報が流出して面倒事が起こった時に備えて担任や両親には事情を話しておこう、など、今後やるべき事柄を箇条書きにしたメモまで作り、何度も何度も読み返しもしていた。
 けれど、別れ際に言った「またね」の言葉通り、男は三度現れた。聡子をからかうのがよほど楽しかったらしい、ご丁寧にも校門の真ん前に立って終礼を終えた彼女を待ち伏せていたのだ。


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