遅れてきた大魔王

<4.彼の名は、恐怖の大魔王>

目の前を見慣れた町並みが流れていく。
ビルや街路樹がいつもより少しだけ大きく見えるのは、聡子の視線が下がったせいだろう。
いつもはバスの窓から見下ろす全国チェーンの弁当屋の幟を、今朝は見知らぬ男の車の助手席から見上げている。そんな自分が未だに信じられずに、聡子は今朝起きてから数十度目の溜息をついた。

何故、自分は今ここにいるのだろう。
こんな風にどこの誰とも分からない男と肩を並べて、車に揺られているなんてどうかしているなんて、私らしくない。

冷静に考えれば、あの時他にいくらでも方法はあった。
少々の面倒と不快な気分を我慢して、学生証の紛失届けを出し、再発行してもらう。
その時に、生徒指導主事と担任にこの不審な男の事を話せばいい。
ネット上に聡子の身に危険が及ぶような書き込みをするというのなら、警察に相談すれば良いだけの事だ。
親だって、話せばきっと守ってくれる。
自分がどのように動くべきか、どう対処したら良いのか、彼女の理性は教えてくれていたはずだ。
しかし、その理性の声は、男の低い声にかき消された。
脳内に光る危険信号は、まばゆいばかりの笑顔の前に霞んでしまった。
手首に添えられた男の手を振り払う事が出来なかった理由を見つけられないことが悔しくてたまらない。
聡子は唇をきっと噛むと、制服のスカートの端を思い切り握り締めた。

 カーステレオからは、彼女の知らない外国の歌手の囁くような歌声が低く流れている。隣でハンドルを握っている男は上機嫌で、カーステレオから聞こえてくるゆったりとしたメロディを口ずさんでいた。
 チャコールグレイのスーツの上着のポケットから取り出されたのはガムの包み。現在人気絶頂にある男性アイドルが出演しているテレビコマーシャルも話題になっている、清涼感が売りの新製品だ。男は片手でハンドルを操りながら、器用に銀紙の包みを開いて口の中へ放り込むと、残りを聡子の方へ向けた。

「食べる?」
「いらない」

冷たい声でそう答える彼女に苦笑しながらガムをポケットの中へ戻す男を、聡子は横目でじろりと睨んだ。

一体何なんだ、この男は。

犯罪まがいの言動にも関わらず、男の態度にも口調にも、危険な雰囲気は感じられなかった。確かに先程は、男の爽やかな笑顔が悪魔のそれのように凶悪に見えたが、少なくても今、鼻歌交じりにガムを噛んでいる男の整った横顔はとても聡子に対して危害を加えようと考えているのだとは思えない。

そんな事を考えながら男の顔を盗み見ていると、視線に気付いたのだろうか、男が横目で聡子の方を流し見た。
一瞬目が合い、慌てて顔を背ける。
男の顔を見つめていた事を気付かれただろうか。
動揺する心を落ち着けようと、聡子は窓ガラスに額を押し付けた。目の前を流れていく見慣れた町並みをほとんど睨むように眺めながら男に尋ねる。

「アンタ、何者?」
「俺?恐怖の大魔王」

前言撤回。やっぱりこいつは要注意の危険人物だ。
誰が聞いても冗談だと思うような事をさらりと言ってのける男に、聡子は冷ややかな視線を送った。
「とぼけるのもいい加減にして」
「とぼけてないんだけどなー」
男の声は笑い混じりだがどこか真剣で、真面目に言っているのかそうでないのか全く分からない。
「大体、恐怖の大魔王なんて職業、あるわけ無いじゃない」
「それがあるんだよねー」
ふて腐れた声で小さく付け加える聡子に、男はおどけた口調でそう言った。車内に流れる曲はいつの間にか、アップテンポの歌謡曲に変わっている。
男は曲に合わせてリズムを取るように、左手の人差し指でハンドルをトントンと叩いた。

「俺はある組織に所属していてね、世界の創造主が俺の上司…君たちの間で言う神様って奴かな?…なんだ。創造主の下には、宇宙の各地に散らばって創造主の耳となり目となり、手足となって働く調査員ってのが無数にいる」

聞きようによれば色気があるとも言える低い声で語られる途方も無い話を、聡子はあっけにとられて聞いていた。
よくもまあ、これだけすらすらとホラが吹けるものだ。

「で、俺はこの地球担当の調査員ってわけ。俺の脳と創造主の脳はリンクしていて、俺が見たもの、聞いたものは全て創造主に送られる」

先の交差点の信号が青から黄色へと変わるのを見て、男はブレーキに足を掛けた。徐々に速度を落として、交差点の前で車は音もなく止まった。目の前の横断歩道を、たくさんの人が通りすぎていく。その中に、自分と同じ高校の制服を着た生徒を見つけて、聡子は思わず顔を伏せた。どうか、今通り過ぎたのが知り合いじゃありませんように。この車に乗っているのが自分だと気付かれませんように。こんなに目立つ男と一緒にいるところなんて、死んでも見られたくない。

「俺たち調査員は、普段はこことは別次元の場所で自分の担当地域を監視してるんだ。下界…それも、自分の担当地域に降りる事は滅多に無い。その場に下りると、視野が制限されて目の行き届かない部分も出てくるからね」
「なんで、その滅多にこっちにこない調査員が、こんな所で車転がしてるのよ?」

思い切り皮肉な口調でそう問いかけた聡子に、男は微笑みながら頷いた。

「これが今回の仕事だからだよ。『地球に降り実際に人間の中に混じって暮らしてみて、この星が本当に存続する価値のあるものなのかどうか見極める』……創造主は、この星を滅ぼそうとしている」

男の口から出さらりと流れ出た言葉。それは決して大きな声で語られた訳ではないが、聡子はそれを聞き逃さなかった。

「滅ぼそうとしている?そんなわけ……」
「あるんだよ。現に、最近世界中のあちこちで地震や津波が起こっているだろう?異常気象にも悩まされているそうじゃないか。そういうのは全て、滅びの前兆だ」
確かにこのところ、地震や津波などの自然災害が多く発生している。口元にたたえた笑いはそのままに、男は続けた。

「人間は、色々な物を手に入れすぎた。多くを求めすぎたんだ。発展するのは良い事だと思うけど、これはちょっとやりすぎだね。これじゃあ他の生き物は生きていけないし、地球自体もすっかり疲弊してしまっている……こういう事態が起こるって事は、分かっていたはずなのにね」

男が自嘲気味にそう言った時、信号が青に変わった。
再び車は朝の混雑する道の中を滑るように走り出す。

「俺が来る事まで予言してた人間もいたってのに……未来は変えられなかったんだなあ」

男の来訪を予言していた人間……それはきっと、ノストラダムスの事を指しているのだろう。数年前まで、彼の予言について一部の人々の間でああでもないこうでもないと騒がれていたからよく覚えている。けれど、あの予言は今よりも数年前の事を指していたのではなかったか?

「お言葉ですけど」
聡子は薄く開いた唇の間から、ふっと溜息にも似た笑いを漏らした。
「恐怖の大魔王が来るって言われていたのは、一九九九年の夏よ?今は二〇〇四年の冬。いくらなんでもちょっと遅すぎるんじゃない?」

勝った。男の嘘はこれで終わりだ。
さあ、とっとと本当の事を話しなさい……聡子はそう思ったが、隣の男の口元から余裕の笑みが消えることはなかった。

信号が青に変わり、車は再び走り出す。

「甘いなあ、聡子ちゃん」

男はバックミラー越しに聡子の顔を見ながら言った。

「昔からよく言うじゃないか……天災は、忘れた頃にやって来る、って」

悪戯めいた口調からは、男が何を考えているのか全く読み取ることが出来ない。
漆黒の瞳に、今にも吸い込まれそうな錯覚さえ覚える。
ダメだ。この男のペースに乗せられてはいけない。
聡子は俯いて目を閉じると、しっかりしろと自分自身に言い聞かせた。

はあー、とこれ見よがしに大きく溜息をついた後で、彼女は質問を再開した。
窓の外を凝視して、決して彼の方を見ようとはしない。

「私の聞き方が悪かったわ……あなたの名前は一体何?」

一言一句区切りながらゆっくりとした口調で問う。そうする事で、今にもキレそうな自分を抑えているのだろう。

「名前?地球上での?」
「それ以外に何があるって言うのよ」
「色々あるんだけどねー、うん。この世界でなら、山田次郎かな」

偽名だ。間違いなく偽名だ。
聡子は、膝の上に乗せた手を強く握り締めた。
四つの小さな指の骨が、手の甲にくっきりと浮き出る。

「それ、偽名でしょう」
「ウン」
「偽名教えろって言ってんじゃないのよ!!本名名乗りなさい!本名!」
「いやー、本名は長くなるから……」
「ほーう、長いの!?どれだけ長いのか聞いてやろうじゃない!!言ってみなさいよ!」

そう言ってこちらを睨みつけてくる彼女を、男は横目でちらりと見た。
彼女の怒りは、当の昔に臨界点を超えている。
フロントガラスを蹴り上げそうな勢いで怒鳴る彼女に苦笑しながら、彼はハンドルを右に切った。そして、おもむろに口を開く。

「アーノルド・アングルモア・ロレンス・ヤマダ……」

たった今でっち上げた「本名」に違いないのに、名前を語る男の口調には全くよどみが無かった。途中で詰まることも、言い間違える事も無く人名を次々と並べていく。

「ジロウ・アルフォード・ミェンパオ・ニュウナイ・アサハヤーイ……」

聡子は眉根を寄せて男の顔を見た。名前にしては明らかにおかしい言葉を言っていても、男のポーカーフェイスは崩れない。

「ヨルオソーイ・ネムレナーイ・オキレナーイ・ハヤクテウマーイ……」

十メートルほど先に、牛丼屋の看板が見えた。
男の思考が手に取るように分かってしまって、聡子はがっくりと肩を落とした。このどうしようもない脱力感は何だろう。

「アルギンサン・アルキンサン・アルドウサン・アルトウサン…アル…」
「……もういい」

聡子は額に手を当てて、座席の背もたれにぐったりと身を沈めた。

「あんたの名前は山田ね。山田次郎。……もういいわよ、それで」

この男と話しているとひどく疲れる。
これから課外を入れた七時間、みっちり授業を受けなければいけないのに、一体どうしてくれるのか。
これ以上ストレスが溜まる前に、一刻も早く車から降ろして欲しいという聡子の心の声が届いたのか、男は急に車を道の端に寄せるとブレーキをかけた。信号も何も無い場所で急に停車した事を不審に思って、聡子は男を見上げた。
怪訝な顔を向ける彼女に、男はにっこりと笑いかける。

「着いたよ、学校」

男の言葉につられて窓の外を見ると、確かにそこは学校の脇の路地だった。少し行った先にある角を曲がればすぐに校門だ。
思ったよりもずっと早く目的地に着いてしまったことに聡子があっけに取られていると、右斜め上から男のからかうような声が降ってきた。

「学校に着いたのにも気が付かなかったんだ。そんなに俺とのドライブ楽しかった?」
「そんなわけ……」

男の言葉は半分は当たっているが、あとの半分は全くのハズレだ。
時が経つのも忘れていたのは男との会話に苛立つあまり興奮状態にあったからで、楽しかったからという理由では断じて無い。

聡子はそう反論しかけたが、男は全く動じなかった。
見る者誰もが見とれるであろう笑顔を浮かべたまま、彼女の頬に手を伸ばす。

「あるね。顔にそう書いてある」

男の指のひやりとした感触を頬に感じて聡子は僅かにたじろいだ。その一瞬の隙を突いて、男は助手席の方へと素早く体を傾ける。

「ちょ……」

右肩に感じる男の重み。
右頬に当たった「何か」は、指先よりも柔らかく、確かな熱を持っていた。

ペパーミントの香りのする吐息が鼻先を掠めた時、聡子の頭の中に先程男が噛んでいたガムのCMの一場面が浮かんだ。

年上の女性の頬にキスをし、耳元に囁きかける美形のアイドル。
爽やかなミント味に似合わない、妙に色っぽいその表情は、見ているほうが気恥ずかしくなるほどだった。

瞬間、聡子の目が大きく見開かれた。
頬に当たっていた物が何かを理解した彼女は、勢いよく後ずさる。

「何するのよ!!」

震える手で右頬を押さえ、助手席のドアに体を押し付けて怒鳴る聡子を、男は面白そうに眺めた。

「最近の女子高生はキスぐらいじゃ動じないもんだって聞いてたけど……可愛いなあ、聡子ちゃん」
「どこで聞いたのよ!そんな根も葉も無い話!」
「それはもちろん事前調査で……もしかして、初めてだった?」
「黙れ!このド変態!」

男の指摘に、聡子は真っ赤になって言い返す。どうやら、図星だったようだと判断して、男は口元に浮かべた笑みを一層濃くした。

「ホントに可愛い。何なら、唇まで行っちゃう?」
「誰が行くか!」

再度迫ってくる男の頬めがけて、聡子は右手を振り上げる。
だが、その手は男の頬に到達する事はなかった。

「冗談だよ」

男は言いながら、掴んだ聡子の小さな手を自分の方へと優しく、しかし有無を言わせぬ力強さで引き寄せた。
そのまま手の甲に口付けると、男はあっさりと彼女の手を解放する。

「そんなことより、いいの?学校」

言われてはっと腕時計を見ると、長針が真下に下りていた。

「嘘でしょ!?」

路上での男とのやり取りの分を差し引いても十分に間に合う時間に家を出たはずなのに、これでは遅刻ギリギリだ。

「もう…、何なのよ、全く」

自分に対してとも男に対してともつかない文句を口の中で唱えながら、慌しくシートベルトを外して助手席のドアを開ける。
車から降りてドアを閉めようとしたその時、男が助手席の方へと身を乗り出して聡子を見上げた。

「またね、聡子ちゃん」

人懐こいその笑顔を無視して、聡子は乱暴にドアを閉めた。
バタンという大きな音がするよりも早く身を翻して駆け出す通りには、彼女と同じ制服姿の学生の姿は既にまばらだ。課外開始5分前を告げる予鈴の音を追いかけるように、重い鞄を抱えて校門目指しひた走る。

右頬と右手の甲に未だに微かな熱が残っている気がして、聡子は顔をしかめた。
何が「自称・恐怖の大魔王」だ。とんだ疫病神ではないか。ああ、気分が悪い。教室に着いたらまず顔と手を洗わなければ。荒い息を吐きながら、聡子は金輪際あんな男に関わるもんかと固く心に誓っていた。


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