遅れてきた大魔王


<3.恐怖の交換条件>

「何で居るのよ……」
キラキラと光る朝日に照らされながらすっかり思考停止に陥ってしまった彼女に、男はにっこりと笑いかけた。
「おはよう、聡子ちゃん」
朝のワイドショーのキャスター顔負けの笑顔にも、彼女は全く反応しなかった。
「いや、これは夢よ。悪い夢よ。私、まだ寝ぼけてるんだわ……」
その場に座り込み、額に手を当ててなにやらブツブツと呟いている。
「あのー、もしもし?聡子ちゃん?」
「ああ、私、疲れてるんだ。だからこんな幻覚を…!」
「聡子ちゃん…?大丈夫?聡子ちゃん?」
「今日は学校休むべきかしら。いやいや、そんな事したら皆勤賞が…」
彼女の考え事はまだ続いているようだ。
その目はすっかり座ってしまっていて、違う世界に足を突っ込みかけているようにも見える。

「聡子ちゃん…」

男は、そんな彼女をとうとう見かねたらしい。
車から降りると、ぐるぐると歩き回る彼女の華奢な肩に手を掛ける。
大きくて形の良い手が肩に触れた途端、彼女はびくりと立ち止まった。

「聡子ちゃん、落ち着いて」
見上げる彼女の瞳が、彼の顔を捉える。
その視線がはっきりと定まってきたのを見届けて、彼は安堵の笑みを浮かべた。
「落ち着いた?聡子ちゃ……」

言いながら目の前の少女の顔を覗き込むが、その言葉は幾分ヒステリックな響きを含んだ声に遮られた。

「何で私の名前知ってるのよ?」
「え…ああ、昨日」
「私は名乗ってないわよ?」

しっかりと握り締められた両手のこぶしを体の脇にピタリとつけて、聡子は男を睨みつける。男は彼女の刺すような視線をものともせずに、完璧な笑顔でこう言った。

「君の事なら何でも知っているよ、県立東陽高校一年三組出席番号二十八番 小島聡子さん」

彼の言葉に、聡子の顔がピクリと強張る。

「あんた、どうしてそれ………まさか……」
「いつも、この先のバス停から学校に行くんだね。住所は……」

男の形のよい唇から、聡子の個人情報が次々と語られた。

その手が掲げているのは、定期券と学生証。
長くて細い指の間から、九ヵ月前の聡子の不機嫌そうな顔が覗いている。

「それ、私の……!」

間違いない。昨日無くしたはずの学生証と定期券だ。
よりにもよってこいつに拾われてしまうとは。

「返して」
「おっと」

定期券と学生証を取り戻すべく伸ばされた聡子の手から逃げるように、男は一歩後ろへ下がる。そのまま、定期を持ったその腕を頭の上に高く掲げた。

男と聡子の身長差は、頭一つ分以上ある。
どんなに高く飛んでも、懸命に伸ばされた聡子の手は、男の手の先の定期券には届かない。

「返してよ」

悔しそうに言う聡子の顔を、男は面白そうに見下ろしている。

「タダで?」
「……拾ってくれたお礼はするわ」

後で菓子折りでも届ければ良いだろうと考えてそう言った聡子だったが、男はそれを聞くとにんまりと満面の笑みを浮かべた。

「デートしよう」

「……なにそれ?」
聡子はぐっと眉根を寄せ、思いきり怪訝な声で聞き返したが、男の笑みは一ミリたりとも崩れなかった。
「拾ったお礼に俺とデートしてよ。そしたら、これ返すからさ」
どうやら、男の考えている「お礼」というのは、菓子折りや商品券の類ではないらしい。

「……バカじゃないの」
聡子は大きく溜息をついた。
こんなふざけた男にこれ以上付き合っていられない。
地面に落ちた鞄を拾い、男に背を向けるとバス停へ向かって歩き出した。

「どこ行くの?」
男の声が、追いかけてくる。
聡子はこみ上げてくる苛立ちを隠そうともせずに、その声に向かって怒鳴り返した。

「学校」
「バス、もう行っちゃったよ」
「次のバスでも間に合うもの」
「定期が無いのに?」
「現金で乗るわ」
「学生証は?良いの?」
「再発行してもらう!定期も買いなおす!」
「じゃあ、コレ、俺が持ってても良いんだー」
「どうぞご自由に!!」

僅かな沈黙の後、再び男の笑い混じりの声が聞こえてくる。

「ラッキー。女子高生の個人情報って、需要高いんだよねー」

男の言葉に、聡子の足がピタリと止まった。

「出会い系サイトに書き込んでみようかな。『十六歳聡子です。恋人募集中☆電話番号は……』」

『女子高生、ストーカーに惨殺』
『犯人は、出会い系で知り合った会社員』
そんな物騒な見出しが、聡子の頭の中を一瞬の内に駆け巡る。

「顔写真付きっていうのがこれまたミソなんだよねー。聡子ちゃん、結構可愛いし」

ダメだ。コイツにだけは渡してはいけない。
なんとしてでも取り返さなければ。

「だあああああああああっ」
聡子はもと来た道を全速力で引き返すと、車に戻りかけていた男のコートの端をむんずと掴んだ。

「アンタね!?そんな事していいと思ってるの!?犯罪よ!犯罪!!」
「心外だなあ。せっかく出会いのチャンスを提供してあげようっていうのに」
「余計なお世話よ!いらないわよ!そんなもん!」
「じゃあ、俺とデートしてくれる?」
「しない!」
「じゃあ、定期は返さない」
「だから、何でそうなるのよ!!」

そう言って振り上げられた聡子の拳を、男は易々と止めてしまった。
彼女の手首を掴む力は決して強いものでは無いはずなのに、なぜだろう、振り払う事がどうしても出来ない。

「放してよ」
「俺とデートするのと、個人情報ネット上に垂れ流されるのと、どっちが良い?」
「鬼!悪魔!」
「ねえ、どっち?」
脅迫めいた言葉を口にしているにも関わらず、男の口調は楽しげで、なおかつ穏やかだった。その笑顔はどこまでも爽やかで、辺りを照らす朝の光よりもずっと眩しい。

「……分かったわよ」

聡子は唇を噛んだ。
定期を落とした自分のうかつさと、それをこんな鬼のような男に拾われた運の悪さを呪いながら、大きく一度息を吸う。

「デートでも何でもしてやろうじゃない」

「ホントに?」

男の顔に、笑顔という名の大輪の花が咲く。
喜びを満面に表したその顔を直視できずに、聡子は思わず目を逸らした。
男のくせにそんな笑顔をするなんて犯罪だ。

「さてと、それじゃ乗って」
男は聡子の手を掴んだまま歩き出した。その足取りは今にも踊りだしそうなほど軽やかだ。
「ち、ちょっと…私、学校…」
抗議の声を上げる聡子を振り向いて、男は口元に悪戯めいた笑みを浮かべた。
「学校行くんでしょ?送ってくよ。ドライブしよう」

それは、平凡な朝の一場面。
いつもと何ら変わる所のない町並みを背景に、聡子の日常が音を立てて崩れていく。
うきうきと助手席のドアを開ける男の後に続きながら、聡子は大きく溜息をついた。


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