遅れてきた大魔王
<2.悪夢のような再会>

翌朝は、良く晴れた気持ちの良い天気だった。
朝の澄み切った空気はぴしゃりと冷たく、薄い雲が広がる空に、黄色い光が広がっている。
駅前商店街の店の色あせたシャッターも、いつもの五割増立派に見える。
そんなすがすがしい早朝の大通りを、聡子はこれ以上と言ってないほどの不機嫌な顔で歩いていた。
「……最悪」
例の如く重い鞄を持ち直し、ドスの効いた声でそう呟く。
低血圧のせいで普段から朝には弱い彼女だったが、今日は特に機嫌が悪かった。
彼女の機嫌をいつもの朝よりも更に45度ほど傾けたのは、昨日歩道橋の上で出会った奇妙な男。
あの男に関わったせいで、彼女の調子はすっかり狂ってしまった。
まず、バスを乗り過ごした。
いつもなら、目的の停留所まであと百メートル、というところで自然に目が覚めるのに、昨日はすっかり眠り込んでしまい、目が覚めた時には隣街の営業所にいたのだ。
終点になって目が覚めずに座席までやってきた運転手に起こされたのは、バス通学を始めて以来の屈辱だ。
更にひどい事に、鞄の中にあるだろう思っていた定期券は見つからなかった。
バスの中で鞄の中身を全てぶちまけたが、教科書の間からも、鞄の中敷の裏側からも、埃と糸くずとキャンディの包み紙以外のものは出てこない。恐らく昨日、男に向かって鞄を振り回したときに、ポケットから転がり落ちたのだろう。
結局、乗り過ごした分と、更に本来降りるべきバス停までの運賃千四百八十円を現金で払う羽目になってしまった。お陰で、ただでさえ軽い聡子の財布は財政破綻一歩手前だ。一緒に定期入れの中に入れていた学生証も見当たらない。
定期券は半月前に買い換えたばかりだった。あと2ヶ月半も残っているのに落としてしまうなんて、自分は何て馬鹿なんだろう。道端で落としたのだから、恐らく今頃は誰かに拾われていて、聡子の手元に戻る事は無いだろう。
代わりの定期代の事を考えると頭が痛いが、定期の購入には、学生証がいる。学生証まで手元に無い今は、新しい定期券を買うことすら出来ない。
「再発行、面倒なんだろうなー」
聡子は溜息をついた。
担任、学年主任、生徒指導主事に事情を話して、書類を書いて、証明写真を用意する。写真を用意したり、書類を書いたりするのは構わないにしても、先生に再発行を頼むのがどうにも面倒臭い。特に、今年の生徒指導主事は体育教師の松崎だ。声と図体と態度がやたらと大きいその体育教師が、聡子は入学した時からずっと苦手だった。スカートもソックスも校則通り、生活面は勿論、成績面でも注意を受ける事が無いように気を付けてきたつもりだった。出来るだけ関わりたくなかったのに。『学生証を失くした!?たるんどる!』と、勝ち誇った顔で怒鳴り散らす松崎の赤ら顔を想像して、聡子はがっくりと肩を落とした。
「……あー、これからどうしよう」
財布の中には、千五百円しか入っていない。
学校までのバス代が往復六百三十円……。明後日以降、一体どうやって学校へ行ったら良いのだろう。
「……全く、あの男〜!」
聡子は、とぼとぼとバス停に向かった。
パンパンに膨らんだ鞄が、心なしかいつもより重く感じられる。
本当に腹が立つ。
あのふざけた態度の男にも。
その男に動揺してバスを乗り過ごし、定期と学生証を失くした自分にも。

『さ〜とこちゃ〜ん』

「……やば、幻聴まで聞こえてきた」
しかも、自分の名前を呼んでいる。
幻聴に名前を呼ばれるほどあの男の事を考えていたのかと思うと、恥ずかしいし腹立たしい。自分で自分を怒鳴りつけてやりたい衝動を必死で押さえつけ、聡子は急ぎ足で交差点を渡った。
「忘れるのよ、聡子。アレは夢アレは夢アレは夢……」
自分に言い聞かせるように低い声で呟きながら、下を向いて歩く。

『さーとーこーちゃーーーーん』

聡子の必死の努力もむなしく、幻聴は一向に鳴り止まない。
それどころか、声はどんどん大きくなっている気がする。

「忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ」

『聡子さーん、聡子さーん、もしもーし?』

声はなおも聞こえてくる。
からかい混じりの声が、聡子の背中にぶつかって早朝の街にこだまする。
「忘れろ忘れろ忘……」

『こーじーまーさーとーこーさーん』

「うっさいわね!大声で何度も呼ばないでよ!!」
勢い良く振り返った直後、聡子はその場に固まった。
次いで、昨日の千倍の量の後悔が津波のように押し寄せてきて、彼女の理性を押し流す。頭の中が真っ白になりながらも、聡子はやっとの事で呟いた。

「……何でいるのよ……」

彼女の目の前に止まった黒い車。
全開になった運転席の窓から身を乗り出して、爽やかな笑顔で手を振っていたのは外でもない、昨日出会ったあの男だった。

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