遅れてきた大魔王 <1.最悪な出会い> それは、12月のある日の事。 夕暮れ時の冷たい風に乗って、彼は突然現れた。 「ちょっとそこのお嬢さん」 黒いナイロン製の指定鞄を肩に掛け、同じく学校指定の紺色のコートの襟を掻き合わせて歩いていた聡子は、歩道橋の上で一人の男に呼び止められた。 誰か他の人間に声をかけたのだろうとも思ったが、歩道橋の上には聡子の他にそれらしい人影は見当たらない。ようやく自分が呼ばれているのだと認識して声のした方向に顔を向けると、男は沈みかけた夕日を背に、歩道橋の手すりに軽く持たれてすらりと伸びた脚を無造作に組んでいた。 男の黒いウールのコートの裾が風にはためき、背後の木がざわざわと鳴る。 西日が逆光になっているせいで顔はよく見えないが、恐らく笑っているのだろう。 あまりに現実離れした目の前の光景に、聡子は一瞬、寒さを忘れた。 「この辺りで、一番高い場所ってどこですか?」 少し掠れてはいるが、低くて良く通る声。 その声に聡子がはっと我に返ると、男は手すりから離れて聡子の方へ歩み寄ろうとしている所だった。 「あそこのマンションの屋上だと思いますけど」 随分と変なことを訊く男だ、と思いながら、聡子は早口で男の質問に答えた。 「じゃあ、私はこれで」 いつもよりも早いスピードで動く心臓の音を隠そうとするように、聡子は短くそう言うと、その場を立ち去ろうとした。その腕を、皮の手袋に覆われた男の手が掴む。 「ありがとう、それからさ……」 男はそう言うと身を屈め、聡子の顔を覗き込んだ。 「俺と一緒に、地球でも滅ぼしませんか?」 「………はあぁ?」 聡子は猛烈に後悔した。 ああ、しまった。こんなのに関わるんじゃなかった。 冷静になって見ると、目の前にいる男の姿はこれといった盛り場など持たないこの小さな街の風景から随分浮いたものだった。 黒いスーツ黒いネクタイ。ジャケットの胸元から覗く臙脂のシャツ。ダークブラウンの前髪を掻き揚げて笑うその姿に、一瞬でもきれいだと見とれた自分が恨めしい。 出来る事なら今すぐ回れ右をして帰りたいが、とんでもなく胡散臭いこの男は、立ち止まった聡子の腕をしっかりと掴んでいる。 聡子は、自分の戸惑いを相手に悟られないよう、精一杯愛想の良い声と顔を作って言った。 「病院なら、あっちにありますよ?」 聡子の言葉に男は苦笑しながらも、腕を掴んだ手を離そうとはしない。 「そんなに警戒しなくても、俺、怪しい者じゃないから」 初対面の人間に向かって『地球を滅ぼそう』なんてふざけた事を言う人間の、一体どこが怪しくないというのか。 「ちなみに、警察はあっち。お好きな方へどうぞ?では、さようなら」 「冷たいなあ」 絶対零度の声でそう言い放ち、掴まれた腕を振り解こうとしたが、男は全く動じない。 逆に、強い力で腕を引かれてバランスを崩し、ふらりとよろめいてしまった。 男はそんな彼女の肩を抱きとめながら、低く囁く。 「ねえ、この世が滅びるところ、見たくない?」 耳元で響く男の声に、聡子の首筋が赤く染まる。 自分の腕の中で身を固くする少女を見て、男は満足げに微笑んだ。 なおも彼女の耳元に唇を寄せて甘い声で囁こうとしている彼は、鞄をきつく握り締めた聡子の右手には全く気付かない。 「実は俺、恐怖の大…」 「ふざけんじゃないわよ!」 男の囁きを、聡子の怒鳴り声とボフッという鈍い音が掻き消した。 聡子が振り上げた鞄が、男のわき腹に命中したのだ。 課外授業一時間と正規授業六時間、合計七時間分の教科書やノートが詰め込まれた鞄は、男に相当なダメージを与えたはずだ。 男は片手で腹を抑えてうずくまりながらも、再び聡子の手を掴もうと手を伸ばすが、ひょいとかわされてしまう。 「大魔王だか大魔神だか知らないけど、ナンパなら他所でやりなさい、このバカ男!」 聡子は、地面に突っ伏した男に向かってそう怒鳴りつけると、踵を反して駆け出した。 怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にして鞄を胸に抱きかかえ、歩道橋の階段を駆け下りる。そのままの勢いでバス停まで走ると、家の方へと向かうバスが丁度来たところだった。 さっきの男が追いかけてこないことを確認しながら、急いでステップに足を掛ける。鞄の側面に付いたポケットを探るが、いつもそこにあるはずの定期券が出てこない。大方、さっき振り回したときに他の物の中に紛れてしまったのだろう、降りるまでに探せばいいと思い直して整理券を一枚手に取り、一番後ろの座席に腰を下ろした。 先程の興奮はまだ収まらず、心臓が普段よりも速いスピードで盛大に脈打っている。 「何なのよ、一体」 聡子は思いつく限りの罵詈雑言を口の中でぶつぶつと繰り返しながら、窓ガラスに頭を預けた。 あの男、絶対どうかしている。 ナンパならこんな小さな町じゃない、もっと大きな繁華街に行けばいい。 こっちはあんな奴のお遊びに付き合っているほど暇じゃないのだ。 「……っていうか、ナンパするならもうちょっとマシな誘い文句使いなさいよ」 『地球を滅ぼす』なんて馬鹿げた事は、今時幼稚園児だって言わないだろう。そんな事を言われて『きゃあ、私、地球の終わりって見てみたかったのぉ!!』と付いていくようなおめでたい女がいたら、ぜひともお目にかかりたいものだ。 バスが、先程の歩道橋の下を通り過ぎる。 聡子は、後ろを振り返った。 男はもうあの場所から立ち去っている事だろう。 今頃は、重い鞄を振り回す、地味で乱暴な女子高生の事などすっかりと忘れて、別の娘に声を掛けているに違いない。 僅かに掠れた甘い声で、今度は一体どんな言葉を囁くのか。 そんな事を考えながら、歩道橋の上に視線を向ける。 彼女の予想を裏切って、男はまだ歩道橋の上にいた。 欄干に頬杖を付いて、片手をひらひらと振っているのが遠目にも分かる。 「………」 目が合った、と思うのは気のせいだ。 バスと歩道橋の距離はどんどん広がっている。 相手に自分が見えているはずが無い。 振り返った瞬間に見えた男の顔が、微笑んでいたように見えたのは気のせいだ。 光の加減でそう見えただけ。 仮に笑っていたとしても、それは自分に向けられたものではない。 聡子の耳に、あの歌うような口調が蘇る。 吐息さえも感じられるような、低い声。 『この世が滅びるところ、見たくない?』 「……馬鹿みたい」 聡子は前に向き直ると、顔をしかめた。 ほんの数分話しただけの見ず知らずの男に、すっかり調子を狂わせられている。 彼女は大きな溜息をつくと、座席に身を埋めて再び窓にもたれた。 窓ガラスが普段よりも余計冷たく感じられて、自分の顔が火照っていた事に気付く。 これはきっと…いや絶対に、車内に効いた暖房のせいだ。 それ以外の理由なんてどこにも無い。 「………」 車内は暖かく、静かだった。 体に伝わるエンジンの振動が眠気を誘う。 聡子はあくびをかみ殺しながら、膝の上に置いた鞄を持ち直した。 眠ってしまおう。 こんな時は眠るに限る。 目が覚めてバスを降りる頃にはきっと、いつもの自分に戻っているに違いない。 あの男にも、もう二度と会うことは無い。 あの囁きも、あの視線も、全て悪い夢だと思えばいい。 「……馬鹿みたい」 バスが次の停留所に着いた時には、聡子は鞄を胸に抱きしめたままぐっすりと眠り込んでいた。 * * back * * * * next * * * * top * * |
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