遅れてきた大魔王

<13.再び来た大魔王(2)>

「まず、これは聡子ちゃんも気付いてるだろうけど、俺の名前は山田次郎じゃない」
「そんなの最初から知ってたわよ。やっぱり偽名だったんじゃない」
 人を騙すつもりなら、そんな分かりやすい偽名を使うなと、ぴしゃりと言う聡子を宥めながら、男は続けた。
「まあ、とっさだったし大目に見てよ。……本名は倉田慎二、職業はミュージシャン……あの時は休業中だったけど」
 そういえば、男……倉田慎二が歌っているバンドは長い間活動休止していたと瑞希が言っていた。聡子が男に出会ったのは、その休止中の事だったのだ。男は聡子の手の中のCDを指差した。
「そのバンド名に聞き覚えない?」
「あんたの車に乗ったときにラジオで聞いた気がするけど……」
 全く知らない名前だった、と聡子が首を横に振ると、男は口元を薄く歪めた。
「やっぱり知らなかったんだ……。二〇〇三年十二月にメジャーデビュー。デビューシングルが百万枚を超える大ヒットでテレビやラジオで一躍脚光を浴びる。続くセカンドシングルの売れ行きも好調だったが、二〇〇四年五月、サードシングルのリリース直前に突然の活動休止宣言。以来、一年以上沈黙を保ったまま今に至る……それが俺たちの経歴だよ」
 十二月にデビューして、翌年の五月に活動休止。二〇〇三年の冬といえば、聡子にとっては高校受験の真っ只中、テレビを見る暇もラジオを聞く暇もなく受験勉強をしていた頃だ。高校に入ってからも新しい生活に慣れるのに精一杯でゆっくりと音楽を聞くゆとりなどなかった。音楽の世界でも何でも、最近は流行り廃りが激しい。実質半年ほどしかメディアに露出していないなら、聡子が知らないのも無理はないのかもしれない。
「でも、何でそんな短い間しか……」
「歌えなくなったんだ、俺が」
 異変に気付いたのは、三枚目のシングル用の曲のレコーディングの時だったという。十分に発声練習をしたのにもかかわらず、何だか変な感じがする。初めのうちは気のせいだ、しばらくすれば元に戻ると思っていたが、何をしても声は一向に良くならない。日に日に掠れていくばかりで、とうとう、歌うのに必要な声量さえも出なくなってしまった、と男は淡々とした口調で語った。
 「病院に言ったら、喉にポリープが出来てるって言われたんだ。デビューして半年、急に忙しくなったから喉に負担がかかったんだろうって。悪性でないだけマシだったけど、目の前が真っ暗になった」
 不意に、冷たい風が歩道橋の上を吹き抜けた。暦の上では春だとはいえ、この時期の夕暮れ時はまだまだ寒い。思わず首をすくめた聡子に男は小さく微笑むと、こっちへおいでと手招きをした。聡子が躊躇しながらも男の側へ行くと、男はその肩を思い切り引き寄せた。あっと声を上げる間もなく、男は聡子を自分のダウンジャケットの内側に抱きこんでしまう。
「ちょっと、何する……」
「こうしてた方が暖かいでしょ」
 抗議の声を上げる聡子を見下ろして、男はにっこりと笑いかけた。間近で見る男の笑顔に顔を真っ赤にした彼女が大人しくなるのを見届けると、視線を明かりの灯った町並みへと向ける。
「出来た位置が悪いって言われたよ。下手したら声帯を傷つけてしまうって。手術が成功する確率は六十パーセント、その後元通りに声が出るようになる確率はそのうち三十パーセント。……俺がまた歌えるようになる確立は、二パーセント以下だった」
 一番好きなものを、それも大勢の人から認められたものを、ある日突然失うというのは一体どんな気持ちなのだろう。聡子は首を仰向かせて男の顔を見上げたが、夕闇の中で遠くを見つめているらしい男の表情を見ることは出来なかった。
「高校の時からずっと今の仲間と音楽をやってきたんだ。うまくいかない事もあったけど、とにかく仲間といることが楽しくて、音楽が好きで、その気持ちだけでここまで来た。デビューが決まったときは皆で宴会してさ、曲がヒットした時には飛び上がるくらい嬉しかった。スポットライト浴びてステージに立って、俺には音楽しかないって本気で思った」
 だからこそ、許せなかったのだと男は言った。
「二度と歌えなくなるっていう事もそうだけど、それ以上に、仲間の足を引っ張る自分がどうしようもなく嫌だった」
 喉の事を聞いたとき、仲間は男の事を責めなかった。恨み言一つ言わずに治るまで待つと言ってくれた。
「手術をすれば治るかもしれない。けど、どうしても決心が付かなかった。手術に失敗して、望みが完全に消えるのが怖かったんだ」
 バンドの仲間は待つと言ったが、いつまでたっても手術を受けようとしない男に、レコード会社を初めとする彼らの周り人間が業を煮やし始めた。仲間には、他のバンドからの引き抜きの声も掛かっていた。ボーカルを他の人間に交代させて活動再開させるという話すらも囁かれた。
「聡子ちゃんに会ったのは、病院に行った帰りだったんだ」
 喉の手術に関しては日本一と言われている医者の診察を受けたのだという。男が口にしたのは、聡子もよく知っている地元の国立大学の付属病院の名前だった。
「日本一の名医なら……って思ったけど、返ってきた答えは同じだった。本当にもう駄目だ、と思ったよ」
 このまま手術を受けないでいれば、遅かれ早かれ、彼はバンドから外されるだろう。歌う事の出来ないボーカルなど必要ないのだ。手術を受けても失敗すれば同じ事。彼が唯一のものと信じた音楽への道は、永久に閉ざされてしまう事になる。
「俺が音楽をやめた後も、仲間は何らかの形で演奏し続けるだろう。嫌な話だけど、俺以外の人間があいつらの演奏で歌っているところは見たくなかったんだ。足を引っ張ってるって分かってても、バンドの一員でいたかった」
 男の声が暗く翳った。聡子の髪に顔を埋めるようにして、男は言う。
「聡子ちゃんと会ったとき、本当は死のうと思ってたんだ。このまま二度と歌えないなら、手術を受けて失敗して『歌えない』俺じゃなく、『歌えるかもしれない』俺のままで終わりたい、ここで死ねば最後までバンドの一員でいられる、って」
 本当にバカで嫌な奴だよな、と声を立てて笑う男の腕を、聡子はジャケットの生地ごと思い切り握り締めた。過去の話だと分かっていても、そうしていないと男がどこかへ行ってしまうような気がしてならなかった。
「ここで聡子ちゃんに声を掛けたのは死に場所を探すため。それと、驚かせたかったんだ。俺たちのファンには、聡子ちゃんくらいの歳の子が多かったから」
 短い間とはいえ、かなりの人気を誇っていたのだ、数多くのテレビ番組に出演し、雑誌の取材も数え切れないほど受けた。メディアで取り上げられなくなってから半年以上たつとはいえ、声を掛ければきっと驚くだろう。
「でも、私は驚かなかった」
 男の腕の中で呟いた聡子の言葉に、男は静かに頷いた。
「悔しかったよ。たった半年でもう忘れられたのか、俺たちの人気なんてこんなもんか……って。だから、ちょっとからかってみようと思ったんだ。幸い定期と学生証を落として行ってくれたからどこの誰かは分かったし、次に待ち伏せるのは簡単だった」
 車を借りて、定期に書いてあったバス停の側で待ち伏せた。最も効果的に驚かせられるように、どこでどの情報を出すかも全て計算済みだった。
「驚かせて、付きまとって、そうしたら俺の事覚えててくれるかなって思ったんだ。せめて誰か一人の記憶に俺を遺して逝きたかった」
 聡子ちゃんにしてみたらたまったもんじゃないよな、俺の身勝手で定期取られて振り回されたんだから、と男は聡子の髪を撫でた。時折額に触れるその手は冷え切っていたが、どこか暖かい。
 聡子と過ごした数日間、男はずっと自分の命を絶つ事を考えていた。でも、男は今ここにいる。しかも、声を取り戻した歌手として。
「いつまで死ぬ気だったの?」
 男の暗い決意を変えたのが何だったのか知りたくて聡子が尋ねると、男は穏やかに微笑んで聡子を包んだジャケットを掻き合わせた。先程よりも一層強く抱きしめられる形になり、聡子は思わず男から目を逸らして俯いた。暖かいのはいいが、これはかなり恥ずかしい。聡子の当惑を知ってか知らずか、男は声の調子を変えることなく話しだす。
「最後のデートの時までかな。聡子ちゃん、俺に言ったじゃない。積み上げたものが崩れても、それまでが無駄だったことにはならないって。それを聞いたときに、今まで自分の中で絡まってたものがほぐれた気がしたんだよね……うまく言えないけど」
 男は、ちょっとからかうつもりで声を掛けた子にここまで諭されるとは思わなかったとしみじみとした声で言った。
「でも……」
 男は聡子の髪を撫でていた手を止めた。その声は、意味ありげな響きを含んでいる。
「……ひっ」
 頭の上から降りてきた男の指が自分の頬に触れて、聡子は反射的に体を固くした。男の指先が先程よりも冷たい気がするのは、自分の頬が火照っているからなのだろうか。
「決定的だったのは、やっぱり最後のアレかな。『地球が滅んでも……』」
「だあああああっ!そんな事……!!」
 途端に暴れて男から離れようとする聡子を腕の中に留めて、男は彼女の耳元に口を寄せた。
「言ったよね〜?今にも泣き出しそうな顔でさ〜。いやー、可愛かったなあ。この子俺の事そんなに好きだったのかー、みたいな」
「ちっ、違う!あれは……」
 耳元で話されたのと、自分で思い出しても恥ずかしい事を言われたのとで聡子は耳まで赤くなり、男の腕の中でバタバタともがいた。どうにかして逃れたいと思うのだが、男は解放してくれるつもりはないらしい。それどころか、聡子の顔を覗き込もうとすらしてくる。やっぱりこいつは要注意人物だ。一筋縄では敵わない。
「まー、いいじゃん。本気だったって事にしておいてよ。聡子ちゃんのあの言葉は、本当に俺の支えだったんだから」
 男は笑いながらそう言うと、再び真剣な声に戻って続けた。その響きは以前よりもより深く真っ直ぐで、耳に心地良い。
「本当に嬉しかったんだ。それから、諦めずに頑張ろうって思った。俺も、聡子ちゃんにまた会いたかったから」
「……え……?」
 男が視線を上向かせるのに釣られて、聡子も空を見上げた。ビルとビルの間に、一番星がきらめいている。
「次に会うときには、誇れる自分で聡子ちゃんの前に立ちたかったから。うまくいってもダメでも、俺に出来る精一杯の事をやらなきゃいけないと思ったんだ。二パーセントの可能性に賭ける決心が付いたのは、聡子ちゃんのお陰なんだよ」
 聡子の前から姿を消した後、男は再び病院に行って手術を受ける旨を医師に伝えた。しばらくして行われた手術は無事成功し、心配されていた声への影響も最小限で済んだのだった。
「手術を渋ってた頃も含めると随分歌っていなかったから、元通りの声を取り戻すのは大変だったよ。ボイストレーニングも何もかも一からやり直しでさ」
 本当はもっと早くに会いに来たかったが、歌えるようになるまではと決めていたらしい。驚くほどの努力と精神力で、男は声を取り戻した。その後、バンドも活動を再開した。男の音楽の道は再び開かれたのだ。
 大切な物を取り戻し、大切な場所に戻った後で、男は聡子に会いに来た。
「もう忘れられてるかと思ったけど、走ってくる聡子ちゃん見て安心したよ」
「忘れるわけ……」
 言いかけて、男がにやにやと笑いながらこちらを見下ろしている事に気付き、慌てて口をつぐむ。聡子は半ば無理やりに話題を変えた。普通に話そうと思うのに、なぜか不機嫌そうな声が出てしまう。
「でも、ここに私が来るってどうして分かったのよ?」
 会えたからいいようなものの、すれ違いになったらどうするつもりだったのか。しかも、活動再開して間もないとはいえ、男はテレビにも出る有名人だ。現に、先ほどはCD売り場の大型スクリーンに顔が大写しになっていた。そんな彼が長時間道の真ん中に立っていれば、大騒ぎになるだろう。
 眉根を寄せて首を傾げる聡子に、男はにっこりと微笑んだ。
「ここに来れば会えるような気がしたんだ。昔から言うだろう?迷った時は原点に戻れって」
 聡子は、それは男特有の無茶苦茶な理論ではないかと思ったが、口に出すのはやめておいた。それに、会える気がしたのは聡子も同じなのだ。男と自分との間に見えない繋がりがあるような気がして、少しだけ嬉しい。
 聡子が黙っていると、男が「まあ……」と独り言のように呟いた。
「ここが聡子ちゃんの通学路なのは知ってたから、会えないはずがないとは思ってたけどね。今日は俺たちのCDの発売日だから、きっとCD屋に行けばどこでも俺の声が流れてるだろうし」
 プロモーション映像でも見れば否応でも自分の事を思い出すだろうから、と言った男に、聡子は訝しげな眼差しを向けた。
「あんた、もしかして……」
「うん、この辺り一体のCD屋に新曲をかけてくれるように頼んだ」
 少しでも聞いてもらえるチャンスを増やさなきゃ、と言う男のあっけらかんとした笑い声に、聡子は頭を抱えた。そうだ、男はすでに聡子の家も学校も通学ルートさえも知っている。男にとっては偶然らしい必然を作り出すことなんて難しい事でもなんでもない。何も知らなかったのは自分だけ。最後まで男の手の平の上でじたばたもがいているだけだったのだ。
「あとは、聡子ちゃんが俺に会いに来てくれるかどうか。これが、俺の最大の賭けだったよ」
「あんたって……」
 男は聡子の体を自分の方へ向き直らせると、体を屈めた。今まで頭上にあった男の目線が丁度見つめ合える位の高さに下りてきている。
「聡子ちゃんのお陰で、俺はまた歌う事ができた。ありがとう」
「いや……そんな、私だって」
 男のお陰で今の自分があるのだ。それなのに、面と向かって礼を言われると気恥ずかしい。どうして良いか分からなくなって視線を泳がせていると、男は聡子の左手を掴み、そっと口づけた。
「好きだよ、聡子ちゃん」
 男は聡子の髪をかき上げ、耳元に口を寄せると囁いた。
「お嬢さん、僕と一緒にこの世界を楽しみませんか?」
 視線を合わせて甘い声で。いつだって、聡子はこの男には敵わない。今だってそう、男の低い声に頭の芯が痺れている。髪をすくう骨ばった手に、全神経を集中させてしまう。
 けれど、あっさりと白旗を揚げてしまうのは悔しくて、聡子は男から身を離した。くるりと後ろを向くと、柵に手を掛けて夕闇に沈む町並みを見る。
 聡子は胸ポケットの中から、ガラス球を取り出した。足元を走る自動車のヘッドライトの光を反射して時折光を放つそれを、親指と人差し指で摘んで目の前にかざした。小さな球体に閉じ込められた家々の明かりやビルの輪郭は、どれも歪んで見えた。
「不確定な明日に……」
 きっと、世界はいつだって不自然に歪んでいるのだ。理不尽で不確定で不安定。
 でも、だからこそ美しい。
 聡子はガラス球を握り締め、男の方に向き直った。真っ直ぐに男の目を見て、にやりと不敵な笑みを浮かべる。
「望むところよ」
 そうして少しだけ背伸びをして、生まれて二回目のキスをした。


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