遅れてきた大魔王

<12.再び来た大魔王(1)>

 びゅう、という心細い音と共に風が辺りを吹き抜けていく。街路樹の銀杏の木がざわざわと揺れて、金色の葉が数枚、街灯の白い明かりの中に舞った。
 聡子はコートの襟を掻き合わせると、その場に屈みこんだ。登下校の時間帯には多くの生徒が行き来するこの歩道橋も、今は人気もなく、ひっそりと静まり返っている。
 ペンキの剥げかけた柵に身体を預けると、コ−トの袖をまくって腕時計を見た。午後九時十五分、既に四時間以上この場所に立ち続けている。寒さで感覚のなくなった指先に吐き掛ける息は、暗闇の中でもそれと分かるほどに白い。
 「…………」
 聡子はコートのポケットに手を入れ、男に渡されたガラス玉を無くしていないことを確かめた。ほっと息をつきながらガラス球を取り出して手の平の上に乗せる。ずっとポケットの中に入れていたせいだろうか、ひんやりと冷たいはずのガラス球はほんのりと暖かい。

 この数日のうちにすっかり定着してしまった待ち合わせ場所に、今朝男は来なかった。見通しの良い大通りをいくら見回しても、黒い車も、そこから子ども染みた笑いを浮かべて手を振る男の姿も、どこにも見つけることは出来なかった。
 土曜の朝まで男が車を止めて待っていた場所には既に赤茶けた落ち葉が溜まっていて、男が聡子の目の前に現れることはもう二度とないだろうという事を否応にも感じさせた。

 定期券はもう返したのだ、男が聡子の送り迎えをする理由はどこにもない。「おはよう、聡子ちゃん」という、おどけたような響きを含んだ声を聞くことも、恐らくもう二度とないだろう。もともと、全く別の世界の人間だったのだ。何かの間違いでたまたま繋がりを持っただけ。偶然が終われば後に残るものは何もない。
 そう、頭では分かっていた。
 けれど、それでも。
 あともう一度だけ、会いたいと思った。
 悔しいけれど、自分でも信じられないけれど、ただ会いたくて仕方がなくて、終礼が終わるとすぐにこの場所に来てしまった。
 初めて男に会ったこの歩道橋の上にいれば、不意に男が現れるような気がして、無駄だと知りながらもすっかり暗くなった今もまだ立ち去る事ができずにいる。

 聡子は、ガラス球を目の前にかざした。僅かだが確かに感じるガラス球の重み。深い青色をしたその小さな球は、月の寒々とした白い光を反射して鈍く光った。
 昨日の事は、夢ではなかったのだ。身を切るような冷たい潮風も、男の不安定な表情も、フロントガラス越しに広がる星空も、抱き寄せられた腕の力強さも。どれもしっかりと聡子の記憶に焼きついているのに。それなのに、男がここにいないだけで記憶が急速に現実味を失い、思い出へと変わっていく。足元を流れる車の群れを柵越しに眺めながら、聡子は男の、僅かに掠れた低い声を思い出した。
「…………そういえば、『またね』って言わなかった」
 聡子は、制服の胸ポケットにガラス球をそっと入れた。これを持っていれば、ほんの僅かでも男と繋がっていられるような、いつかどこかで会えるような、そんな気がした。

 「でね、去年は……」
「信じられない、あの森田先生が?」
「そうなのよ。先輩の話だと、毎年恒例なんだって。今年もこっそりネタを暖めてるみたいよ」
 聡子は友人の上坂瑞希と連れ立って、オレンジ色の西日に照らされた大通りを歩いていた。通りにある店のショーウィンドウには、淡い色の服や小物が並び始め、そこだけ一足早い春が来たように華やかだ。学年末テストも終わった二月下旬、吹いてくる風はまだ冷たいが昼間の柔らかな日差しは、季節の変化を感じさせる。
 瑞希の話に耳を傾けていると、反対側の車線を黒い車が走ってくるのが見えた。とっさに車に意識を集中させている自分に、聡子は心の中で苦笑した。あれから一年以上経つのに、まだ黒い車や黒いコートの男性を目で追ってしまう癖が抜けない。聡子は隣を歩く友人に相槌を打ちながら、彼女の人生の中で最も不可解で最も気持ちの弾んだ数日間と、「恐怖の大魔王」と名乗る正体不明の男の眩しいほどの笑顔をぼんやりと思い出していた。

 夜遅くまで男が現れるのを待っていた次の日、聡子は熱を出して学校を休んだ。寒い中遅くまでフラフラしていたのだから当たり前だ、一体何をしていたのかと朝様子を見に来た親には散々呆れられてしまった。ベッドから起き上がる事もままならず、小学校の頃から守り続けてきた皆勤記録は虚しくも九年九ヶ月で途切れたが、不思議とそれを悔しいとは思わなかった。自宅のベッドの上で毛布に包まりながら、肩の荷が一つ下りたような気分になったのをよく覚えている。

「ねえ聡子、他に何か必要なものはあったっけ?」
 学校を出る前に二人で書いたメモ用紙を熱心に見ながら瑞希が言った。
瑞希は、二年生になって新しく出来た友達だ。出席番号が前後していて席が近かったせいか、瑞希の方が積極的に聡子に話しかけてくれたせいか、頻繁に言葉を交わすようになり、親しくなったのだ。明るく屈託のない性格の瑞希は、どちらかと言えば人見知りの気がある聡子とは全くタイプが違うのだが、なぜかとても気が合った。彼女に誘われて放送部にも入部し、違う学年の友達も出来た。部活にも委員会にも学校行事にも興味はなかったはずなのに、今ではすっかり放送部の中堅部員として瑞希や他の仲間と一緒に部活動に精を出し、行事の前には忙しい忙しいと言いながら校内を走り回っている。今日、大通りをバス停とは全く逆の方向に歩いているのも、近くにあるショッピングセンターで卒業式の後に行う三年生の追い出し会の準備の買い物をするためだ。瑞希の話によると、顧問教師や時にはOBまでも交えて、かなり盛大に開催される会らしく、現役部員は二年生を中心に、皆、準備に余念がなかった。
 学校帰りに友達と街を歩く楽しみを、去年までの聡子は知らなかった。何か一つの物を成功させるために奔走する事の尊さも。心地良い疲れと高揚感、それに充実感を感じながら通りを歩いていると、瑞希が不意に呟いた。
「聡子、変わったよねえ」
「え?」
「うん、なんかね、雰囲気が柔らかくなった」
 瑞希の言葉通り、この一年余りの間に聡子は大きく変わった。皆勤賞という目標が消えた事で、何かが吹っ切れたのだろうか、まず、何もかも自分で背負い込もうとするのをやめた。出来ない事は出来ない事としてクラスの他の同級生に頼むようになったのだ。最初は少し緊張したが、頼まれた方は皆、聡子が想像していたよりもずっと感じ良く引き受けてくれた。「人に頼る」という事を覚えると、ずいぶん気持ちが楽になった。自分の中に張り巡らせていた糸を少しだけ緩めると、世界がぐんと広がった気がした。
 あの時男が言っていた「肩の力を抜く」とはこういう事を言うのかもしれないと、聡子は時々考える。男は、あれから一度も聡子の前に現れる事はなかった。彼が本当に「恐怖の大魔王」だったのかそれともただの詐欺師だったのか、今となっては分からずじまいだが、聡子はどちらでも構わないと思うようになっていた。あの調子が良くてつかみ所のない男との出会いは、確かに彼女の中の何かを変えたのだ。男と出会った事で、聡子は言葉には出来ない沢山の事を、大切な想いを知った。男の意図がどういうものであれ、感謝するべきだろう。

 ショッピングセンターで必要な物を一通り買い込んだ後、聡子は欲しいCDがあるという瑞希に付き合ってCD売り場に足を運んだ。この曲は好きだ、来週の昼休みはこのアーティストの特集を組んでみようだと話しながら、新譜やお気に入りの歌手のアルバムなどを見て歩く。
 売り場では、最新のヒット曲が次から次へと大きめの音量でひっきりなしに流れている。甲高い声が特徴の女性ボーカルの曲が終わり、ややゆっくりとしたテンポの曲に移った。発売されたばかりなのだろうか、明るい調子のイントロは聡子には聞き覚えがないものだったが、続いて聞こえてきたボーカルの声はとても好ましいと思った。程よい低さで耳によく馴染む男性の声。のびのびとした声で紡がれる歌詞は、どうやら、誰か大切な人への感謝の想いを歌ったものらしい。初めて聞く曲のはずなのに、なぜかひどく懐かしい気がするのが不思議だった。
『不確定な日々を生きるのにウンザリしていたんだ 君に逢うまでは』
 心地良い声は、聞き覚えのあるものだった。何かの挿入歌にでもなっていたのだろうか、とぼんやりと考えてみるがどうしても思い出せない。
『積み上げたモノが崩れても積みなおすんだ 何度でも』
「……!」
 ドラムの刻むリズムとギターとキーボードの奏でるメロディに載せて歌われた言葉に、聡子は一瞬息を止めた。
『明日地球が滅びても僕は歌おう 不確定な明日に君とまた出会えるように』
 確かに初めて聞いた曲なのに。同じアーティストの曲を聞いたこともないはずなのに。それなのに、この声を、言葉を知っているような気がしてならなかった。気のせいだ、こんな考えは馬鹿げていると思いながら、店内に据え付けられたスピーカーを睨むように見る。
 この歌の向こうには、誰がいる?
「ねえ、瑞希この曲……」
 隣にいる瑞希に掠れた声で話しかけると、瑞希は聡子の必死な表情に首を傾げながら一枚のCDを差し出した。
「知らない?この人たちよ。デビュー後すぐに活動休止になっちゃったけど」
 最近活動再開して、今日がその復帰作の発売日なのだという。差し出されたCDのジャケットには真っ青な空とバンド名が印刷されていた。そういえば、男の車でラジオが流れていた時に、紹介されていたのがこのバンドだったような気がする。
「あ、あれ見て!あの人たちがそう!」
 瑞希の華奢な指の指す方向に目をやると、売り場の中央にある大型モニターにプロモーション映像が映し出されていた。それを捉えた聡子の目が、一層大きく見開かれる。
「ごめん、私用事思い出した。先に学校に戻ってて」
「あ!ねえ、ちょっと聡子!」
 聡子は瑞希からCDを奪うようにしてレジに持っていくと、お金を払って売り場を飛び出した。あの日から肌身離さず持っていたガラス球が、胸ポケットの中で大きく跳ねた。

 聡子は何人もの人にぶつかりながら大通りを全速力で駆け抜けた。学校の校門が見えても彼女の足は止まらない。背中に下ろした髪が風にあおられて乱れたが、それにも構わず前方に見える歩道橋目指してひたすら足を前に動かした。
 買ったばかりのCDを胸に抱えて、息を切らせながら階段を駆け上る。
 確信は何もなかった。いるはずがないとは思っていたが、同時に、会えるとしたらここ以外にはないとも感じていた。根拠のない望みだと分かっていても落胆するのが怖くて道を走っているときも階段を上り始めてからも、歩道橋の上を見ることができなかった。
 俯かせた顔を上げようとしないまま最後の一段を上りきったとき、視界の端で何か黒い物が揺れた気がした。
「ちょっとそこのお嬢さん」
 歌うように言う声は、もう掠れてはいなかった。
「そんなに急いでどうしたの?」
 笑い混じりの声は、もう何度も頭の中で再生したものだった。聡子はゆっくりと顔を上げた。日は西の空へ傾き、辺りは既に薄暗かったが、見間違えるはずがなかった。視線の先には、先ほど大型スクリーンの中で歌っていた男が歩道橋の柵に体を預けて立っていた。
 男は聡子と目を合わせると、一年前と変わらない悪戯めいた笑みを浮かべて言った。
「久しぶり、聡子ちゃん」
 長い足を組んで立つ姿も、笑顔も、何一つ変わってはいなかった。黒いスーツは着ておらず、ダウンジャケットにジーンズという出で立ちだったが、確かに「恐怖の大魔王」だと名乗ったあの男だ。
 男は、何も言えずにただ男の顔を凝視する聡子の方へと歩み寄ると、すっかり冷たくなった彼女の髪をそっと撫でた。
「髪、随分伸びたね」
「……なんで……」
「聡子ちゃんが言ったじゃない。『また会いたい』って。好きな子のリクエストには応えようとするもんでしょ?普通」
「……山田……」
 今にも泣き出しそうな声で呟いた聡子に、男は頷きながら髪を撫でていた手を顔の方へと移動させた。
「……じゃない!!!」
 男の指が頬に触れる瞬間、聡子は勢い良く頭を振った。男は突然の彼女の大声に驚いて、差し出した手をとっさに引っ込める。
「……さ、さとこちゃん?」
 今度は男が唖然とする番だった。当惑する男のジャケットの裾を掴むと、聡子は顔を真っ赤にして言った。
「やっぱり違ったじゃない!山田次郎なんかじゃなかったじゃない!人の事散々振り回しておいて突然消えるし、消えたと思ったら歌うたってるし、あんた一体何なのよ!?」
 目には涙を浮かべながら必死な表情でまくし立てる聡子の右手にCDが握られているのを見止めると、男は怒鳴られているにも関わらずにやりと笑った。
「もしかして聡子ちゃん、それ聞いた?」
「聞いたわよ!たった今!どうしてくれるのよ、心臓止まりそうになったじゃない!」
 もう「恐怖の大魔王」などという馬鹿げた言い訳は通用しない、さっさと本当の事を言えと迫る聡子に苦笑しながら、男は言った。
「言い訳はしないよ、今度はちゃんと本当の事を言う」
今日はそのために来たんだから、と言うと、男は僅かに明るさの残る空を仰いで話し始めた。


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