遅れてきた大魔王 <11.最後の脅迫デート(3)> どこかいびつな微笑を浮かべた男の顔を、聡子は黙って見つめた。閉館時間が近いのだろう、辺りには人影も無く二人の周りは静かだった。 海辺の日暮れは、冷え込むのが早い。吹いてくる風はすっかり冷え切って顔に当たると痛いほどだったが、不思議と寒さは感じなかった。 「私は……」 長い沈黙の後で、聡子がおもむろに口を開いた。 「私は、無駄だとは思わない」 男の表情が、僅かに動いたような気がした。 聡子は、両足に力を入れた。足元のタイルをしっかりと踏みしめる。たとえ男が聡子の答えを求めてはいなかったのだとしても、言おうと思った。 「結果が伴わなくても、答えが得られなくても、それまでの努力は無駄になるわけじゃないと思う」 所々立ち止まりながら懸命に言葉を紡ぐ。目の前にいるこの男が、何物でも関係ないと思った。地球を滅ぼしに来た神の使いでも単なる空想家でもどちらでも良い、いい加減に答えてはいけないと強く感じた。 「積み上げたモノは崩れても、それを形作ってた欠片までが消えてしまうわけじゃない。材料は残っているんだから、また積みなおせば良いでしょう。全く別のモノに生きる事だってないわけじゃないんだから」 それは、十六年間生きてきた中で聡子が見つけた彼女なりの答えだった。勉強や友人関係、クラスの雑用など、一事が万事上手くいったという訳ではない。失敗して落ち込むたびに、次があるさと考えて、のたうちながら前に進んで、そしてある時今まで自分がしてきた事は無駄ではなかったのかもしれないと考えるようになった。積み上げてきたものは傍から見れば取るに足らない物ばかりだが、どれも今の自分を作る上でなくてはならないものだと思っている。 これは、正しい答えではないのかもしれない。たかだか十六歳の小娘の語るきれい事に過ぎないのかもしれない。けれど、そのきれい事こそが、今の聡子にとっては紛れもない真実だった。 「もしかしたら来ないのかもしれない明日のために頑張る事って、私は嫌いじゃない。成功の保障がないものに必死になることが、愚かしいとは思わない。だから……」 聡子はそこで言葉を切ると、大きく息をついた。冷たい息を吸い込むと、鼻の奥がつんと痛んだ。よほど緊張していたのだろう、喉がカラカラだ。 「だから、私にはコレは壊せない。どんなに理不尽でも、不確定でも、ここで最後まで生きていく」 けれど、あんたが壊したいのなら好きにすれば良い。と締めくくって、聡子は男の手にガラス球を戻した。 ガラス球を男の手に置いた時、一瞬だけ指先が男の手に触れた。その瞬間、能面のようだった男の顔が、ひどく無防備な物に変わった気がした。そこに浮かんだのが安堵なのかそれとも落胆なのか、聡子は確かめようとしたが出来なかった。 手の平に触れた指先をガラス球ごとつかまれて、そのまま勢い良く腕を引かれた。バランスを崩してよろめいた聡子の頭を、男は空いた方の手で自分の肩口に引き寄せる。 「ちょ…山田!?」 慌てて男の胸を拳で叩くが、男の手の力は緩められる事はなかった。この距離まで近寄って初めて分かる微かな柑橘系の香水の匂いに、聡子の体温は一気に四十度くらいにまで上昇する。何が何だか分からなくてジタバタと暴れる聡子の耳元で、男が小さく囁いた。 「ごめん、ちょっとだけ我慢して」 耳元で言われてやっと聞こえるほどの大きさの声はいつにも増して掠れていて、泣いているようにも笑っているようにも取れた。男は今、どんな顔をしているのだろうか。 聡子は振り回していた腕を下ろして、黙って男の肩口に頭を預けた。トクトクトクと僅かに早まっているらしい、男の心臓の音が聞こえる。指先はすっかり冷え切っているのに、顔だけがやけに熱かった。 しばらくそうしていた後で、男が短く息を吸うのが分かった。聡子を抱きしめる腕に、更に力が込められる。今度は一体、何を言うつもりなのだろうか。聡子はとっさに身構えたが、頭上から聞こえてきた声は彼女の予想を裏切るように随分と気の抜けたものだった。 「……あー、やっぱり聡子ちゃんはいい子だなあ」 「はあ!?」 無理やり顔を上げると、目の前には、いつもの笑顔を浮かべた男の顔があった。男は片手で聡子の頭をわしわしと撫でながら、感慨深げに頷いた。 「いやー、やっぱり聡子ちゃんだ。俺が見込んだだけの事はある」 「はああああああ!?何よ、それ」 「まー、それは企業秘密って事で」 ちょっと待て、さっきのアレは一体何だったのか。私の心配を返せと騒ぎ立てる聡子を宥めながら、男は先程ガラス球を取り出したポケットの中から小さな袋を取り出した。口を緩めてガラス球を入れると、聡子の目の前に差し出す。 「これは聡子ちゃんが持っててよ」 「いや……でも、あんた調査は……」 当惑気味に呟く聡子に向かって、男はにっこりと笑いかけた。 「うん、だから調査は終了。この星は存続させる事に決めた」 男はぽかんとした表情の聡子の手を取ると、その手の中に袋を押し込んだ。彼女がそれを落としてしまわないように、しっかりと握らせながら言う。 「俺が持ってると、またいつ気が変わって壊したくなるか分からないから。聡子ちゃんだったら、大事にしてくれるだろう?」 何てったって、最後までここで生きていくんだから、と閉じられた手に軽く口付ける。おどけたようなその仕草と、からかうような口調に聡子が文句を言おうとした時、建物の出入り口に備え付けられたスピーカーから閉園時間を知らせる音楽が流れてきた。 「お、もうこんな時間だ。聡子ちゃん、そろそろ帰ろう」 男は何事も無かったかのようにそう言うと、館内に向かって歩き出した。 「ちょっと!話はまだ終わってない!!」 「ほら、聡子ちゃんも急がないと。それとも、ここに居残って今晩は魚と合宿する?」 建物の出入り口へと続く段差を上りながら振り返った男は、コートのポケットに片手を突っ込み、冗談交じりにそう言った。悪戯そうに細められた目からは先程までの冷たさは感じられない。 笑顔で手招きをする男を見て、聡子はまたはぐらかされた、と思った。 何一つ明らかにしないまま、男は聡子を煙に巻く。男はきっと最後まで、手の内を明かすつもりはないのだろう。聡子一人が男の手の上でじたばたともがいているだけなのだ。 「あんたってほんッと何考えてるのか分からない」 手の中のガラス球を握り締めて悔し紛れにそう言うと、男は館内へと続くドアを開けながら「そりゃどうも」と声を立てて笑った。 「すっかり遅くなっちゃったね。家の人、大丈夫?」 頭上に広がる満天の星空をフロントガラス越しに見上げて、男が言った。車内に備え付けられたデジタル時計の表示は、もう八時を過ぎている。 連絡はしてあるから心配ない、と聡子が言うと、男はさすが聡子ちゃん、抜かりがないねと安心したように微笑んだ。 「蛍の光」の物悲しいメロディに急きたてられるように海浜公園を出た後、男は食事をしようと言って、海岸沿いの道からは少し奥まった場所にある小さなレストランに聡子を連れて行った。イタリアの家庭料理を出すのだというそのレストランは、高台の上にあり、窓から見える夜景がとても綺麗だった。 普段家族と行く全国チェーンのファミリーレストランとは全く違う静かで落ち着いた雰囲気の店内に「こんな所で食事なんか出来るだろうか」緊張した聡子だったが、そんな心配はすぐにどこかへ行ってしまった。料理が運ばれてきた途端、それまでの緊張などすっかり忘れて、デザートまで残さず平らげられてしまったのだから、美味しい物の力はすごい、と改めて感心してしまう。 「でも、いいの?夕飯までご馳走になって」 水族館も昼食も払ってもらったのだから夕飯までご馳走になるのは悪い、と鞄から財布を出しかけた聡子に、男はいいのいいの、と片手を振った。 「俺が聡子ちゃんと一緒に食べたかったんだから」 地球最後の食事くらい可愛い女の子と食べたいよ、と言って笑う男から視線を外して、聡子は窓の外を見た。市街地では大量のネオンサインと車のヘッドライトのせいで一晩中昼のように明るいが、この辺りは夜の八時過ぎともなればもう真っ暗だ。断続的に聞こえてくる波の音は、安らぎと、ほんの少しの寂しさを含んでいる。 食事の時も、男のエスコートは完璧だった。慣れない店に戸惑う聡子を上手く席まで誘導し、相変わらずの巧みな話術で彼女の緊張を解きほぐしてくれた。 注文をするときのウェイターとのやり取りや、聡子に好みを尋ねる口調から、男がこういった場面に随分慣れているのだという事が窺えた。聡子は何も言っていないのに食後のデザートまで頼むとは、大した気の回しようだ。 真っ白な皿に綺麗に盛り付けられたジェラードを食べる聡子の向かい側で、男は小さなカップに入ったコーヒーを飲んでいた。甘党だというわけではないらしいこの男は、普段は一体どんな女性の為に甘いデザートを頼むのだろうか。 食事中も、帰りの車の中でも、男はよく喋った。イルカショーでのイルカのとぼけた仕草が笑えただとか、イソギンチャクの中身はどうなっているんだろうだとか、他愛もない事を次から次へと話す。 「ねえ聡子ちゃん、昆布ってさ、どうして海の中で出汁が出ないんだろうね」 「浸透圧があるから。……ねえ、その質問、どこかで聞いた気がするんだけど」 「なーんだ、そうだったんだー。聡子ちゃん、あったまいー」 快活な笑い声。男は、デッキでのやり取りの事など忘れたかのように明るく振る舞っていた。今までと同じ声、同じ瞳。表面上は何も変わりないように見えたが、全く同じというわけではなかった。あのやり取りを堺に、確かに何かが変わってしまったという事は感じられるのだが、それが何なのか聡子には分からない。 正体の掴めない漠然とした違和感は、聡子に、この馬鹿げたデートの終わりを否応にも意識させた。あと三十分、車が聡子の家に着いて定期券が返されたら、聡子と男を繋ぐ接点はなくなる。男は一体何物でどこから来たのか、これからどうするつもりなのか。この数日間聡子に付きまとったのは何故だったのか。聞きたい事は山ほどあったが、何も言い出せないまま関係のないお喋りに時間を費やしていた。男のほうも、聡子の思いに気付いているのかいないのか、そういったことについて一切触れようとはしなかった。核心の周りをぐるぐると当ても無く巡るような、空虚で臆病なやり取り。互いに踏み込む事も踏み出す事も出来ないまま、だた、時間と外の景色だけが飛ぶように過ぎていった。 聡子の感じる違和感をよそに、車は順調に国道を抜けて聡子の住む住宅街の細く入り組んだ道に入った。聡子は朝と同じ住宅街の入り口で降りようとしたが男は家まで送っていくと言って譲らず、結局は聡子が折れて自宅までの道案内をする事になったのだ。 「まったく、いいって言ってるのに。家族に見つかったら何言われるか……」 額に手を当ててぼやく聡子に、男は苦笑しながら言った。 「だけど聡子ちゃん、夜道は危ないからね。あそこで降ろしてハイサヨナラで何かあったら、俺が寝覚め悪いからさ……次、どっち?」 「……右」 バックミラー越しに合った視線をさり気なく逸らしながら、聡子は小さな声で答えた。男の口から『サヨナラ』という言葉を聞いた時の動揺を、悟られたくなかった。 しばらく走ると、20メートルほど先に茶色い屋根の家が見えた。玄関の明かりが明々と灯っている。聡子はここでいいと言って車を止めた。 「聡子ちゃん家って、あそこ?」 「そう。送ってくれてありがとう、後は自分で歩ける」 今日は楽しかった、と男の方を見ないまま言うと、聡子はシートベルトを外した。膝の上のバッグを持ち直してドアの取っ手に手を掛けた彼女を、男が慌てた声で止める。 「待って、聡子ちゃん。忘れ物」 振り返ると、男がジャケットの内ポケットから小さくて平べったい包みを出すところだった。差し出されるまま受け取ると、中身は聡子の定期と生徒手帳だった。この数日間、取り返したくてたまらなかったもの。そのために見知らぬ男と登下校し、あまつさえはデートなどという馬鹿げたことまでやったのだ。それなのになぜだろう、今はちっとも嬉しくない。 「約束どおり、返すよ。今まで付きまとってごめんね」 その後も男は何か言っていたようだが、聡子は聞いていなかった。ただ黙って、手の中の包みを見つめていた。 「じゃあ、本当にこれで。引き止めて悪かったね。聡子ちゃんと話すの、楽しかったよ」 「山田」 ありがとうと言いかけた男の言葉に、聡子の唐突な呟きが重なった。 「聡子ちゃん?」 「あんたはこの後、どうするの?」 思わず口から滑り落ちた言葉。言うまい、聞くまいと決めていたのに。 聡子の言葉を聞いた男の顔が一瞬強張るのが分かった。あまりに予想通りの反応に、言った瞬間後悔したが、今さら後に引くことなんて許されない。 一瞬崩れた穏やかな笑みを、男はすぐに繕った。何でもない風を装って、嘘なのか本当なのか分からない事を言う。 「俺は、元いた所に帰るよ。調査は終わったからね、創造主に報告してまた通常の監視業務に戻る」 「もう、こっちに来る事はない?」 「創造主が、また地球を滅ぼす気になったらね」 そんな事、起きない方が良いんだけどね、と笑う男の口調はどこまでも穏やかで冷静だった。余計なもの全てを振り切るような潔さを含んだその声に、聡子は手の中の定期を握り締める。 今になってどうしてこんな気持ちになるのか、自分で自分が分からなかった。この男の側にいると、どんどん自分がおかしくなる。自分が自分でなくなるような心許ない感覚に眩暈さえおぼえた。今すぐここから逃げ出したい。だけど、男の側から離れたくない。いくつもの矛盾した想いがまるで波のように唐突に押し寄せてきて、聡子が今まで築いてきた「冷静で現実的な自分」を押し流す。生まれて初めて経験する得体の知れない感情に、彼女は途方に暮れた。 一体どうしたら、この思いから抜け出せる? 「…………」 「聡子ちゃん?」 無駄だという事は分かっている。けれど、他に方法が見つからなかった。この気持ちを自分の中に押し込めたまま消化するなんて器用な真似は、今の聡子には出来そうもない。聡子は顔を上げた。とにかく楽になりたい一心で男を見上げると、考えるよりも早く想いが口からあふれ出た。 「地球が滅びても良い、私はもう一度あんたに会いたい」 言うんじゃなかったという後悔と、これで楽になれるという安堵感。頭の中で渦をまく感情に、身動きさえ取れなくなった。一分一秒が永遠にも感じられるような張り詰めた空気が車内に満ちる。 いたたまれなくなって下を向こうとした聡子の髪に、男の手がそっと触れた。そつのない笑顔も、追いかけてもするりと逃げていく抜け目の無さも全て剥がれ落ちた男の顔は、いつもよりも少しだけ幼く見えた。痛みをこらえているような、それでもひどく優しい顔をして、男は聡子を見つめている。 「山……」 名前を呼ぶ声は、唐突に遮られた。視界を覆う男の影に何が起きたのか分からずに、聡子は身体を固くした。肩に添えられた男の手が、ひどく大きく感じられる。 「聡子ちゃん」 間近に感じられる男の吐息に、聡子は我に返った。聡子の名前を呼ぶ声の、切羽詰った響きとは裏腹に、ひどく冷めた色をした男の瞳が、彼女の思考を一気に現実へと引き戻す。 「…………っ」 唇に残る仄かな熱。その温もりの理由に気付いた瞬間、聡子は肩に置かれた男の手を驚くほど激しい勢いで振り払った。暗闇のなかでもそうと分かるくらいに赤く染めた顔をくしゃくしゃに歪めて、男の肩を思い切り押しやる。恐らく予想だにしていなかっただろう聡子の行動に思わずよろめいた男の、慌てた声が聞こえたが、何を言っているのか判別する余裕すらない。触れ合った唇の柔らかさも、額に自分の物ではない前髪が当たる感触も、全てがあまりに唐突でどうしていいのか分からなかった。 聡子は、一層大きくなった息苦しさに泣き出しそうになりながら車の外へと逃れ出た。後ろを振り返る事もせずに、街灯の頼りない明かりに照らされた夜道を走る。逃げるようにして家の中に入ると、そのまま階段を駆け上がった。帰宅に気付いた家族が階下から声を掛けてきたが、それにも答えずに自分の部屋に駆け込む。ドアを後ろ手に閉めると、そのままずるずると崩れ落ちるようにその場に座り込む。そうしてやっと一人になると、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。 電気が点いていない部屋は暗く、がらんとしていた。街灯の白い光がレースのカーテン越しに差し込んで、フローリングの床の上に溜まっている。 嫌じゃなかった。なのに、涙が止まらないのは何故だろう。 聡子は、今もまだ増すばかりの息苦しさに、唇を固く噛み締めた。どれだけ涙を流しても、苦しさは外に出ていってはくれないらしい。 それなら、この涙は一体何で出来ている?ただただ苦しいばかりだというのに。 電気も暖房も点けないまま、聡子はドアに背中を預け、声を殺して泣き続けた。全てが冷え切った、暗く静かな部屋の中で、ただ、男に触れられた肩と唇だけが熱かった。 * * back * * * * next* * * * top * * |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||