遅れてきた大魔王

<番外編 お返しは突然 (2)>

「さーとこちゃーん」
 どこからか聞こえた声に、聡子はびくりと立ち止まった。
忘れたくても忘れられない低い声。もう何度思い返したか分からないその声はあの頃とは違い、掠れてはいなかったが聞き間違えるはずがない。
「聡子?」
「なっ、なんでもない!私今日は寄るところあるから、じゃあね」
 隣で首を傾げる瑞希に慌てて別れを告げると、聡子は逃げるように校門から離れた。可能な限り体を縮め、ものすごい速さで人目に付きにくい路地まで走る。何かに怯えているようなその表情は、恋人の声を耳にした女子高生の反応にしては少々変わったものだった。

 鞄で顔を隠しながら恐る恐る辺りを窺ったが、それらしい人影は見当たらなかった。
「なーんだ」
 気のせいか。
 ほっとする反面がっかりする自分がいて、聡子は僅かに眉根を寄せた。
 会いたいあまりに幻聴が聞こえるようになるなんて。いくら相手が強烈なインパクトの持ち主とはいえ、そんなの悲しすぎる。

「焦って損した」
「何を?」
「!?」
 突然思わぬ方向から腕を引かれ、聡子は声にならない悲鳴を上げた。ただでさえ重い鞄を持っているのだ、その上腕を引かれたらひとたまりも無い。バランスを崩して大きくよろめいた体は、力強い腕に抱きとめられた。

「やあ久しぶり、聡子ちゃん」
 目深に被った帽子から覗く悪戯めいた眼差し。聡子は驚きの声を上げた。
「山田!」
 男が音楽の世界に戻ってから約一ヶ月。復帰第一作の新曲は、発売直後から今までずっとヒットチャートの上位にランクインされ続けている。
テレビの歌番組やラジオのゲスト出演。雑誌を開けば憎らしいほど爽やかな笑顔の男と目が合う。
 どのメディアからも引っ張りだこ、超多忙な日々を送っているはずの彼がどうしてこんな所にいるのだろう。
「何でここに?」
「聡子ちゃんに会いたかったから」
 本気なのか冗談なのか分からない口調でそう言いながら覆いかぶさってくる男を、聡子は渾身の力で押し戻した。

 そりゃあ聡子だって、男に会いたかった。突然この場に現れてくれた事に驚くと同時に喜びを感じていることも確かだ。その喜びに浸って手放しにはしゃぐ事が出来ればいいのだけれど、悲しいかな聡子はどこまでも現実家だった。
「仕事はどうしたの?」
 そう尋ねる聡子の背中に、男は上機嫌で腕を回した。
「休んだ」

 バシン。
 景気のいい音を立てて、男の顔は聡子の両手に挟まれた。
「仕事しなさい、社会人」
「……聡子ちゃん痛い」
 男に小声で訴えられて、聡子は慌てて手を離した。
「あ……ごめん、つい」
 男にとって、顔は声と並ぶ大事な商売道具だ。傷つけては大変だ。そんなに強く叩いたつもりはないが、跡が残ったりしないだろうか。
 心配そうな顔をする聡子に、男は大丈夫だよと笑いかけた。
「仕事の事なら心配ないよ。それに、どうしても今日会いたかったんだ」

 男は口角を持ち上げると、身を屈めて聡子と視線を合わせた。
「さて問題です。今日は何の日でしょう」
「数学の日」
 円周率の数字にちなんで定められた記念日。こんなマイナーな記念日を知っているとは、彼女は相当の数学好きらしい。
「何でまたそんなマイナーな」
 もっと他に思い出す日があるだろうに。
「三月十四日といえばホワイトデーでしょ、聡子ちゃん」
 お返しはきちんとしないとと片目をつむった男を、聡子はきょとんとした顔で見た。
「え、でも私、何もあげてない」
 彼女がそう言うと、男はその言葉を待っていたとばかりに満面の笑みを浮かべた。吸い込まれそうなダークブラウンの瞳の奥で、鋭い光が一瞬きらめく。これは絶対に、何かを企んでいる顔だ。

 左手で聡子の腰を抱き寄せて逃げられないように固定した状態で、男は空いた右手をジャケットのポケットに突っ込んだ。そこからおもむろに取り出されたのは、色褪せた巾着袋。大好きだったウサギのキャラクターのプリントに、聡子はあっと声を息を呑んだ。
 それは、バレンタインデーに聡子が歩道橋の柵にくくりつけたものだった。次の日の朝歩道橋を通った時には既になかったから捨てられたか持っていかれるかしたんだろうと思っていのに、男のポケットから出てくるなんて。二週間ほど前に再会した時にはそんな事一言も言っていなかった。全くわけがわからない。

 予想通りの彼女の反応に、男は口元に刻んだ笑みを一層深くした。驚きのあまり声も出ないといった聡子の表情を楽しむように、男の長い指が彼女の頬をつうっと撫でる。
「くれたじゃない、チョコレートじゃなかったけど」

 すっかり思考停止状態に陥ってしまった聡子の耳元に口を寄せると男は低く囁いた。歌うように、誘うように。
「のど飴美味しかったよ、ありがとう」

 さくらぐみ、こじまさとこちゃん。

 自分の無駄に色気のある声に酔わされたのと自分の行動を男に知られていた事への羞恥心とで聡子は首まで真っ赤になった。何て情けない。夜中の12時過ぎに書いた、渡すつもりのなかったラブレターを大声で朗読されるのに匹敵する恥ずかしさだ。絶対に知られる事はないと思っていたのに、この男はやっぱり別次元の住人なのではないだろうか。
 男の前ではどんな隠し事も無駄なような気がして、聡子は眩暈を覚えた。
「……あんた、やっぱり本当は人間じゃないんでしょう」
 疲れた声で呟くと、男はさあどうでしょうと声を立てて笑った。否定しない所が恐ろしい。

 男はぐったりとうなだれた聡子の頭を宥めるように撫でると、巾着袋を差し出した。
「はい、これ返すよ」
 言われるままに受け取った袋は、ずしりと重かった。
 布にしては奇妙な重量感に聡子が怪訝な顔をすると、男はにっこりと笑って袋を開けるように促す。
 一体何が出てくるのかと恐る恐る中を覗き込むと、入っていたのは腕時計だった。銀色の文字盤にカフェオレ色のベルト。のど飴一パックのお返しにしてはあまりにも高価だ。
「こんなのもらえない!」
 聡子は時計を男につき返したが、男はまるでとり合ってくれなかった。
「まあ良いじゃん。社会人を甘く見てはいけない」
 などと訳の分からない事を言いながら聡子の左手を取ると彼女の抵抗も物ともせずに時計をくるりとはめてしまう。文字盤の大きさも、ベルトの太さも聡子の腕に丁度いい。カフェオレ色のベルトは制服のブレザーの紺ともよく馴染んでいて、まるでもう随分前から彼女の腕にはまっているようだった。
 男はしばらくの間、聡子の華奢な手首に収まった時計を満足そうに眺めていたが、突然あっと声を上げた。
「時間だ、行かなきゃ」

 じゃあまたね、聡子ちゃん。
 心にすうっと染み込むような心地良い声と共に視界が暗くなり、唇を熱が掠めた。
「なっ……」
 とっさに口を押さえたがもう遅い。男はにやりと笑うと聡子に背を向け、歩き始めた。
 数メートル先の路肩に止められたタクシーに乗り込むその後ろ姿をぼんやりと見つめているうちに、理不尽な怒りがこみ上げてくる。

 一体全体何なのだ。いつも突然現れて、まるで台風のように聡子の心をかき乱して去っていく。こちらがどんなに怒っても喚いても、楽しそうに笑っているだけなのだから余計に腹が立つ。あの男、聡子をからかって楽しんでいるに違いない。

 けれど。

 からかわれていると分かっているのに、いつも振り回されてしまう。どんなにあがいてももがいても、結局は男のペースに巻き込まれる。
 きっと何よりも腹立たしいのは、あの男に惹かれてしまう自分自身なのだ。
 聡子は小さく溜息をつくと、腕にはめられた時計を指先でそっと撫でた。

 夕暮れ時の町を吹きぬけていく風は、もうすっかり春のものだった。見上げた街路樹の枝先に新芽が膨らんでいるのを見つけて、聡子は小さく微笑んだ。
 心に温かな風が吹く。やがて芽吹く未来は、きっと明るいものだろう。
 


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