遅れてきた大魔王

<番外編 お返しは突然に (1)>

 「じゃあ、時間になったら呼びに来ますんでよろしくお願いします」
彼らを案内してくれたアシスタントディレクターは、そう言いながら狭い廊下を忙しなく走っていった。慎二はその後ろ姿に頭を下げると、目の前のドアのノブに手を掛けた。真っ白で無機質なそのドアには、自分たちのバンド名が書かれた紙がセロハンテープで貼り付けられている。
 狭い楽屋の中には、独特の空気が満ちていた。リノリウム張りの床と、壁面にずらりと並んだ大きな鏡。かすかに漂う化粧品の匂いは、前にここを使った出演者のものだろう。
二年前と何も変わらないそれらは眩暈を覚えるほどに懐かしく、慎二は一瞬その場に立ち尽くした。
 半開きにしたドアの前で固まっている彼の背中に、苦笑交じりの声が掛かる。
「感慨に浸るのは中に入ってからにしようぜ」
 はっと後ろを振り返ると、世界中で二番目に大切な仲間の顔があった。皆、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。見透かされていたのかという決まりの悪さを照れ笑いで隠して、慎二は勢いよく部屋の中に足を踏み入れた。

 部屋の中央に置かれたテーブルの上のお茶のペットボトルは五本。慎二はそのうちの一本を手に取り、部屋の中を見回した。
 最後の調整は既に済ませてあるため、ここでやるべき事は特に無い。皆思い思いにくつろいでいる。

 部屋に備え付けられたモニターで、他の出演者が演奏するのを見ているのは一久だ。今演奏しているのは、ピアノの弾き語りが売りのアーティストだから同じ鍵盤奏者として気になるのだろう。じっと演奏に聞き入る様は、常に冷静沈着な彼らしい。
 武人と陽平の二人は、荷物を降ろすが早いか早速携帯用の碁盤を広げて石を並べ始めた。思えば学生時代から、この二人は暇さえあれば碁ばかり打っている。二年前には四百五十対四百三十五で、武人の勝ち数の方が多かったが今はどうなのだろう。

 昔と何も変わらない仲間の様子にああ本当に戻ってきたのだと改めて実感しながら、慎二は緑茶を口に含んだ。程よい冷たさが喉に心地良い。
 手術からもうすぐ一年、喉はもうすっかり元に戻っていた。物を飲み下す時も何の違和感も感じない。

「あー」
 思わずもらした呟きに、向かい側にあるソファーに座っていた瑛太が顔を上げた。彼の膝の上には、最新号の音楽雑誌。先月の初めに五人揃って取材を受けた編集部のものだからよく覚えている。あのインタビューも、記事になって載っているのだろうか。
「慎、お前喉は?」
「良好」
 慎二がぴっと親指を立てると、瑛太はそうかと言って安心したように笑った。開いた口元から覗く八重歯は、相手に冷たい印象を抱かせがちな彼の顔をほんの少しだけ幼く見せる。彼のこの笑顔に魅了される女性は少なくない。
「あーあ、こんなにすぐに治るならさっさと手術しておけば良かった」
 リハビリの方が時間がかかったと笑いながら言う慎二の言葉に、瑛太も頷く。
「全くだよ。散々俺らを待たせやがって。病院に行くって言ったきり失踪するしさ」
 一時は最悪の事態も考えたと冗談交じりに言う瑛太から、慎二はさり気なく目を逸らした。その心配、実は的中してましたなんて殺されたって言えない。

「けど、よくお前決心したよな。あんなに嫌がってたのに」
 空白の数日間の後、東京に戻ってきた彼は既に手術の日取りまで決めていた。来週から入院するからというあっけらかんな彼の言葉に、半年以上渋っていたのにこの変わり様は何なんだと瑛太達四人を含め、関係者全員が驚くやら呆れるやら。あの時期に掛けられたのは、励ましの言葉よりも怒りや疑い交じりの声のほうが多かった気がする。

 手術に対してあれほど後ろ向きだった自分の気持ちを変えた出来事について、慎二はまだ誰にも話してはいなかった。もちろん近いうちに話そうとは思っているし、機会があれば彼女を仲間に紹介したい。けれどもう少しだけ、自分と彼女二人だけの秘密にしておきたかったのだ。
 すぐ後ろから、武人の唸り声が聞こえてきた。どうやら戦局は、陽平に有利に動いているらしい。
「まあ、いろいろありまして」
「何だよ、教えろよ」
「そのうちな」
 慎二はそう言うと、ジャケットのポケットから巾着袋を取り出した。成人男性が持つには似つかわしくない可愛らしい巾着の突然の出現に驚いたのか、慎二の手元をまじまじと見る瑛太。

「何だそれ」
「俺のお守り」
 恥ずかしげも無くそう言うと、瑛太はますます奇妙な顔になった。それがおかしくて、悪いとは思いながらもついつい笑ってしまう。
 笑い声を口元でかみ殺す慎二に、瑛太は憮然とした顔で首をぐるりと回すと、ペットボトルに手を伸ばした。
「ファンの子からか?」
 随分変わったプレゼントだなという瑛太の言葉に、慎二は笑いながら首を振った。
「違うよ、俺がファンなんだ」

 彼女の前では余裕のある振りをしてしまうけれど、本当はあの意志のこもった瞳に、僅かにへの字に曲げられた口元に、柔らかく真っ直ぐな黒髪に焦がれてやまないのは実は彼の方なのだ。
 自分でもばかばかしいと思うほど彼女のことがいとおしい。

 顔の筋肉が徐々に緩みだした慎二を見て、何だそりゃ付き合い切れんと瑛太がペットボトルのキャップを閉めて立ち上がったとき、入り口のドアががちゃりと開いた。
「本番でーす」
 部屋中に響いたその声に、慎二は勢いよく立ち上がった。
 部屋を出る寸前、彼は手の中の巾着袋をもう一度見た。

 さあ、もう一度夢の舞台へ。
 ショータイムの始まりだ。


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