大魔王からの招待状 <9.逃げる小島と追う山田> 「山田……どうして」 僅かに開かれた唇の間から転がり落ちた言葉に、慎二は荒い息をつきながら答えた。 「さっき、そこで一久に会って……黙って帰るつもりだったの?」 問いかけるその目は笑ってはいない。聡子は、慎二の顔を真っ直ぐ見ることができずに俯いた。 「すぐ帰って来いって、家から電話があったのよ。尾上さんに伝言は頼んだんだけど……」 「聡子ちゃん」 強い調子で名前を呼ばれて、聡子は引き寄せられるように顔を上げた。断ち切ろうと心に決めた想いが、体の内側を焦がしていく。いけないことだと分かっているのに、その顔を見ただけで心臓が跳ね上がるのを抑えられない。これ以上、この心をかき回さないで欲しい。お願いだから。 「あいつが変な事言ったんだろう。本当にごめ……聡子ちゃん!?」 聡子は沈痛な面持ちで話す慎二に背を向けると、その場から逃げ出した。身体を出来る限り丸めて、全速力で廊下を走る。 耳を塞いで、目を閉じて。一刻も早く、彼の姿の見えないところに行かなければと思った。彼の声の聞こえない所に行かなければと。そうしなければ、自分はきっと囚われてしまう。 「聡子ちゃん」 背中にぶつかる声と足音に、聡子は喜びと絶望感で泣きそうになった。離れなければいけないのに。お互いにとってそれが一番いいのに。 合計で二キロはあるかという聡子の勉強道具を小脇に抱えながら、慎二が聡子を追いかけてくる。先ほどのライブで相当の体力を消耗した身体とは思えないほど、その脚はよく動いていた。 「何で逃げる!」 慎二が、余裕のない声で叫んだ。 「知らない!あんたこそ、追いかけて来ないでよ!」 「聡子ちゃんが逃げるからじゃないか!とにかく止まって!」 「嫌!」 「止まらないと押し倒すよ」 「んなことしたら、『週刊新潮』に訴えてやる!!」 ほとんど怒鳴りあいに近い応酬の間にも、聡子と慎二の間の距離はどんどん縮まっていった。ちらりと後ろを振り返った聡子は、すぐ後ろに迫った慎二から逃れようと必死にスピードを上げる。 運動部に所属したことはないが、聡子は脚の速さにはそれなりの自信を持っていた。50メートル走のタイムは女子の中ではなかなかの成績だし、体育祭のリレーでは走者に選ばれることもある。そんな彼女と五分の走りを見せるとは。しかも、あれほどの荷物を持って。男女の体力差を考えても、慎二の走りは尋常ではない。一体何なのだこの男は、と聡子は舌打ちをした。こんなに脚が早いなんて聞いていない。 やはり自分は、「倉田慎二」について何も知らないのだ。 そう思って僅かに視線を落とした時、前方のドアが突然開かれた。とっさの出来事に思わずスピードを緩めた聡子の腕を、慎二の腕が素早く捕らえる。 「やっ……放してよ!」 必死になって身をよじったり、慎二の胸板を叩いてみたりと聡子は抵抗を試みたが、慎二はぴくりともしなかった。肩で息をしながら、聡子を見下ろしている。 「何で……」 慎二はそこで言葉を切ると、聡子を捉えていない方の腕を伸ばして手近にあったドアのノブを回した。 「あ……えっ!?」 掴まれた腕を勢いよく引かれて、聡子は慎二の胸に倒れこんだ。半分引きずられるようにして数歩歩くと、周りが暗くなった。がちゃりと扉が閉まる音に、聡子はようやくここが廊下に面した空き部屋なのだと理解する。 「ちょっと、何する……」 「黙って」 ドアの向こうを、複数の足音と人の声が通り過ぎていく。それらが完全に聞こえなくなるのを確認すると、慎二は息を吐いて聡子から身体を離した。けれど、掴んだ腕はそのままだ。 細身の身体からは想像しづらいが、慎二は握力が強い。強く掴まれた腕に痛みを感じて、聡子は顔をしかめた。 「山田……痛い」 小声で訴えると、慎二はぱっと手を放した。慌てた声でごめんと何度も謝罪する。 「……もういいから。それより、そこどいて欲しいんだけど」 静かにそう言いながら慎二の手から鞄を取ろうとした。しかし、ドアノブに伸ばされた手は慎二の身体に阻まれた。 「それはだめ」 「どうして?私、もう帰りたいの」 うんざりと溜息をついてみせると、慎二は困ったように頭を振った。 「分かった。じゃあ、送っていくから……」 「いい、一人で帰れる」 だから鞄を返してくれと頑なに言い張る聡子に、慎二の顔が曇った。 「そんなに俺といたくない?」 傷ついたようなその声に、聡子の胸はずきりと痛んだ。自分なんかのために、そんな顔をしてはいけないのに。 「違う」 「じゃあ何で」 慎二の手から鞄が滑り落ち、重たい音を立てて床に落ちる。聡子がそれを拾おうと手を伸ばすより早く、慎二の両手が聡子の肩を掴んだ。 「……っ」 ブラウス越しに食い込む指に、聡子は抗議の眼差しを送ったが、慎二は手を離そうとはしなかった。 「何で避けるの」 「避けてなんか」 視線を逸らそうとしたが、慎二の強い眼差しはそれを許しはしなかった。慎二は腰を屈めて聡子と目線を合わせてきた。電気の消えた部屋の中、窓から差し込む僅かな街灯の光に照らされたその瞳は、どんな隠し事も見抜いてしまうのではないかというほど真っ直ぐに聡子の心を射抜く。 「一久の言ったことは」 「あれはもういいの」 慎二の言葉を遮るように、聡子は口を開いた。諦めにもにた溜息をつき、吐き出すように言う。 「本当のことなんだから」 眉根を寄せる慎二の顔を、聡子は正面から見据えた。もう逃げられない。 「私が好きなのは、山田次郎なの」 **back** **next** **top** |
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