大魔王からの招待状

<10.雨降って地固まるか>

  「私は、山田次郎を好きになったのよ。でも」
 張り詰めた声で呟いた聡子の頬に、慎二がそっと手を伸ばした。
 「関係ないよ。誰が何と言おうと、聡子ちゃんは俺を好きになってくれたし、俺は聡子ちゃんが好きなんだから」
 それで良いじゃない、と笑いかける慎二の言葉を打ち消すように聡子は激しく首を振った。
 「良くない、違うの」
 小さく首を傾げる慎二の視線から逃れようとするかのように、聡子は俯いた。分かったことを言う。たったこれだけのことなのに、後ろめたくてたまらない。引き絞られるような痛みに、心が悲鳴を上げている。
 「私が好きなのは、山田次郎なの。倉田慎二じゃない」
 「同じ事だよ、どっちも俺だ」
 「同じじゃない!」
 つかまれた肩が熱い。聡子はとっさに慎二の胸を押しやって、抱き寄せられるのを拒んだ。泣きたいほどに心地良いその熱から、どうにかして逃れたかった。
 「今日、はっきり分かったの。あんたは『倉田慎二』だった。『山田次郎』はどこにもいない」

 聡子を抱き寄せようとする慎二の手が止まった。その顔を見るのが怖くて、聡子はぎゅうと目を閉じた。いきなり避けて、逃げて、わけの分からない事を言って。きっと彼は呆れていることだろう。これで彼は自分から離れていく。拒んだのは自分のほうだというのに、鼻の奥に痛みを感じた。目頭が熱い。
 「倉田慎二を好きになったと思っていたの。よく知っているつもりでもいた。でも、私の勘違いだった。好きになったのは山田次郎で、私は山田としてのあんたしか知らなかったのよ」

 今日一日感じていた違和感。それは目の前にいるこの男が「山田次郎」ではなく「倉田慎二」なのだということに対するものだった。会場に入る前に見たポスターの写真の中の彼も、ステージで歌っている彼も、どれも聡子の知らない「倉田慎二」の顔をしていた。
初めて触れた彼の本当の姿に、聡子は戸惑い、そして嫉妬したのだ。他でもない「倉田慎二」としての彼に。

 「それに」
 震える声で、聡子は続けた。慎二は何も言わず、ただ聡子の肩に手を置いて、彼女の言葉を待っている。
 「あんたは何でも持っている。最初は見た目だけ良い変人だと思っていたけど、そうじゃなかった。沢山の人を惹き付ける声も、いい仲間も、みんな持ってた。それに比べれば、私なんてちっぽけだわ。何にも持っていない」
 「それだって、聡子ちゃんがいなきゃ俺は全部なくしてた。取り戻させてくれたのは君だろう」
 「たまたま私だったってだけのことでしょう。あれくらいの事、誰だって言える」
 半分自棄になって吐き出すように言うと、肩を激しく揺さぶられた。そのまま、頭を慎二の胸に押し付けられる。拒む暇もなかった。
 「それ以上言うと、本当に怒るよ」
 押し殺した声が、頭の上から降ってくる。頬に当たる綿のシャツは柔らかく、微かに柑橘系の匂いがした。その中に、潮の匂いまで混じっている気がして聡子の目に涙が滲んだ。いつかも、同じ匂いを嗅いだ気がする。

 懐かしさに心のたかが緩んだのか、聡子は悲鳴交じりの声を上げた。
 「もう嫌なの」
 言葉とは反対に、華奢な手は目の前にあるシャツをしっかりと握り締めていた。額を慎二の胸に押し付けるようにして、くぐもった声を漏らす。頬を伝う涙を、見られたくないと思った。
 「他の女の子にきゃあきゃあ言われてるのを聞くのも、それに笑いかけるあんたを見るのも。テレビや舞台の上で、私の知らない『倉田慎二』の顔してるあんたを見てモヤモヤするのも。挙句、望月さんたちにまで嫉妬して。バカみたい、平気だと思ってたのに」
 ちっとも平気じゃなかった。慎二の前では、自分はまるきり無力な子どもだった。分かっていたはずのことにうろたえて、見当外れな嫉妬をする。優等生という「看板」も偏差値も何の役にも立たない。自分でも呆れるほどに、聡子は平凡だった。何の能力も魅力もない、どこにでもいる小娘だったのだ。
 「いつか絶対に、あんただって気付くもの。私が何の価値もない人間だって」
あんたに失望されるのにも、飽きられるのにも、私はきっと耐えられない。
声にならない呟きは、切実なものだった。

「倉田慎二」と彼の幸福にさえ嫉妬する自分は醜い、と聡子は思った。自分は醜くつまらない人間なのだ。今は世間知らずな女子高生に対する物珍しさで慎二の心は自分の方を向いている。けれど、それも長くは続かないだろう。聡子に飽きた慎二の手によって、あるいはいずれ彼の前に現れるだろう魅力的な女性の手によって、遅かれ早かれ、この滑稽な恋愛ごっこの幕は下ろされる。
 置いていかれる瞬間を怯えながら待つくらいなら、今のうちに自分で幕を引こうと思った。自分の汚さをこれ以慎二の前でさらしてしまわないうちに、彼の前からいなくなりたかった。彼に失望される前に、彼の足を引っ張ってしまう前に。そして何より自分が、彼の優しさから離れられなくなるまえに、断ち切ってしまわなければと思ったのだ。

 「だから嫌なの。離れたいの」
 そう叫んだ瞬間、慎二が聡子の肩を勢いよく引き寄せた。拒むことを許さない力強さで固く抱きしめられる。息をするのも苦しいほどに、身体も心も締めつけられて、聡子は一瞬、泣くのを忘れた。

 「知ってた?聡子ちゃん」
 長い長い沈黙のあとで、ぽつりと慎二が呟いた。
 「聡子ちゃんの学校の敷地内に、俺は入れないんだ」
 関係者じゃないから当たり前なんだけどね、と聡子の肩に顎を乗せて軽く笑う。慎二の吐息にくすぐられて、聡子の髪が僅かに揺れた。
 「だから俺は、学校での君を見ることができない。普段の聡子ちゃんについて、俺は何も知らないんだよ」
 好きな弁当のおかずも得意教科も、仲の悪い先生のことも。友達といるときの君がどんな顔をしているのかさえ、俺は知らないんだ。
 慎二の腕の中で、聡子の肩がぴくりと動いた。
 慎二はそっと聡子を抱きしめた腕を解くと、彼女から身を離した。その途端に不安げな表情をした聡子に微笑むと、涙に濡れた頬を慈しむように撫でた。

 「自分では気づいてないかもしれないけど、聡子ちゃんは可愛いよ。可愛くて、賢くて、俺の知らないことを沢山知ってる。俺はシスウタイスウとかトウソウハチダイカとか聞いてもさっぱりだけど、聡子ちゃんは分かるだろう?」
 「それは……」
 そういう知識が、今の聡子にとって必要なものだからだ。実社会で役に立つものではないのだから、知っていても何の自慢にもならない。
 反論しようと口を開く聡子を制するように慎二は彼女の額にそっと唇を落とした。

 「今日の朝ここに来る前に、聡子ちゃんの学校の前を通ったんだ。通学路には生徒がたくさん歩いててさ。皆、聡子ちゃんみたいな大荷物抱えて眠そうに歩いてるんだけど、すごく楽しそうだったんだ」
 肩に落ちた聡子の髪を指先で弄びながら、慎二は穏やかな口調で話していた。その目は、聡子の顔を愛しむように見つめている。
 「運動場ではダンスだか組体操だかの練習があっててさ、学校全体に活気が溢れてたんだ、朝なのに。このどこかに聡子ちゃんもいるのかなって考えたら、何だか羨ましくなった」
 聡子の髪を撫でていた慎二の手が、再び肩の方に降りてきた。触れられた途端、心拍数が跳ね上がる。

 「俺は高校時代、音楽しかやってこなかったから。そのことに後悔はないんだけど、聡子ちゃんが羨ましいと思ったんだ。興味のあることにも、苦手なことにも、一生懸命になれる聡子ちゃんが羨ましくて、愛しくてたまらなくなった」
 熱っぽい声でそう言われて、聡子は真っ赤になって俯いた。今やお茶の間の人気者な彼に、自分は随分と買いかぶられている気がする。居心地が悪そうに視線をさまよわせる聡子に、慎二はにっこりと微笑んで見せた。
「そんなに自分を卑下しなくても、聡子ちゃんは十分魅力的だよ。これからだって、きっと色んな良いものを手に入れられる……考えてみたら、俺のほうが置いてかれそうだ」
 不安になってきたと眉をハの字に下げる慎二の顔がおかしくて、聡子は思わず吹き出した。嗚咽ではなく、今度は笑いで肩を震わせる聡子に、慎二も安堵の笑みを浮かべた。

「やっと笑った……ねえ、聡子ちゃん」
 慎二は再び真顔になると、聡子の腰を片手で抱いた。肩に置いた手を、首の方へ移動させていく。
 「やっ、山田?」
 空調の効いた部屋の中、汗の引いた首筋を慎二の手がゆっくりとなぞる。首の次は顎のラインを、その次は頬を、耳を。
 大きくて形の良い手は聡子の体温より少し冷たい。それなのに、慎二に触れられたところが熱を持ってゆく気がするのはなぜだろう。
 「……っ」
 部屋には電気が点いておらず、思うように視界が利かないということもあり、肌の上を這っていく手の感触が一層生々しく感じられた。羞恥心と戸惑いから再び涙を浮かべた聡子の瞼に、慎二はそっと口付けると自分の額を聡子の額にこつんとぶつけた。

 「聡子ちゃんは自分ばっかり俺のことを何にも知らないって思ってるかもしれないけど、俺だって聡子ちゃんのことをほとんど何も知らないんだよ。だから、俺は聡子ちゃんのことを今よりもっと知りたいと思うんだ」
 聡子ちゃんは?と目で問われて、聡子はこくりと小さく頷いた。その様子に、慎二は笑みを深くする。
 「焦らなくても、時間はたっぷりあるんだから。いっぱい話していっぱい触って、ゆっくりお互いを知っていけばいいと思わない?」

 それでいつか、「山田次郎」も「倉田慎二」もひっくるめた「俺」を好きになってくれたら嬉しいんだけど。

 冗談交じりにそう言って、悪戯めいた目をした慎二の身体に、聡子は両手を回した。どちらの「彼」も、もう十分過ぎるほど好きなのだという思いを込めて力いっぱいしがみつく。
 聡子が自分から抱きついてくるというこれまでにない展開に、一瞬驚きの表情を浮かべた慎二も、すぐに満面の笑みを浮かべて聡子の背に手を回した。
 「……ごめんなさい」
 自分一人で嫌なことばかり考えて、向き合いもせずに逃げようとして。
 そう呟いて更にきつく抱きつく聡子の背を、慎二はなだめるように撫でた。華奢なその背中が小刻みに震えているのが、ブラウス越しに伝わってくる。
 「……もしかして、また泣いてる?」
 「良いのっ!」
 悲しくて泣いているのでも悔しくて泣いているのでもないのだから。
 肩口を濡らす熱さに、慎二は口元を緩めた。聡子の髪をかき上げて、露になった耳に優しく口付ける。途端にわずかな明かりの下でも分かるほど真っ赤に染まった首筋に、彼は満足そうな顔をした。
 「可愛い……。好きだよ、聡子ちゃん」

 耳にかかる吐息に、甘い声に、頭の中が溶け出してしまいそうになる。心地よい温もりに包まれて、聡子は今更離れようとしたって無駄なことだったのだと、ぼんやりと考えた。
 「山田次郎」も「倉田慎二」も関係ない、自分で気づくよりもずっと前から、心はこの男にとらわれていたのだ。

 「……やっぱり敵わない」
 どうしようもなく悔しくて、けれど泣き出したいほどに嬉しくて、聡子は慎二から身体を離した。
 「私、もっと知りたいわ。あんたのこと。それに、もっと頑張らないと」
  あんたに飽きられてしまわないように、と言うと慎二は憮然とした顔をした。
 「だからぁ……まあ、いいや。それなら俺は、もっともーっと頑張らないとな。今より素敵になった聡子ちゃんが、横から攫われていかないように」
 耳の後ろに差し入れれられた慎二の大きな手がくすぐったくて、聡子は思わず笑い声を漏らした。つられて慎二も笑顔になる。

 しばらく二人で笑った後、笑い声を収めた慎二が静かな声で言った。
 「提案があるんだけど」
 口元には笑みを浮かべて、瞳の奥に企みをちらつかせて、聡子の顔を覗き込む。窓からの明かりに照らされたダークブラウンの瞳で聡子を捉えたまま、慎二はにっこりと微笑んだ。
 「俺たち早速、お互いを知るための努力をすべきだと思わない?」
 言いながら聡子の身体を片手で引き寄せ、もう片方の手で彼女の顎を逃げられないようにそっと掴む。
 「え……ちょっ……何?」
 突然の事態に焦る聡子の問いかけに、慎二はあっさりと答えた。
 「何って……、相互理解?」
 無邪気さを装って首を傾げる様が、絵になっていて憎らしい。

 慎二が何をするつもりなのか、聡子にも分かりすぎるほどよく分かっている。初めてのことではないのだけど、どうにも気恥ずかしくて逃げたくて、聡子は抱きかかえられた体制で必死で背をそらした。

 「話して知るんじゃなかったの?」
 「触って知るとも言ったよ」
 だからって会話を怠っていいはずがあるだろうか。納得いかないという顔をする聡子の耳元で、慎二は低く囁いた。
 「聡子ちゃんが好きなんだ。だからキスしたい……だめ?」

 他の誰にも聞かせない甘い声で言う。きっと慎二は、聡子がこの声に弱いのを知っているに違いない。
反則だ、と思いながら聡子は首を横に振った。途端に満面の笑みを浮かべた慎二が、彼女をきつく抱きしめる。
ああ、やっぱりこの男には敵わない。
 あまりに幸福な諦めを感じながら、聡子は慎二の腕を握り締めた。今の自分はきっと、真っ赤な顔をしているのだろう。触れられた頬が熱い。
 慎二の顔がゆっくりと近づいてくる。やがて振ってくる、甘く柔らかな熱に鼓動を高鳴らせながら、聡子は固く目を閉じた。


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