大魔王からの招待状

<7.突きつけられた事実>

 「なあ、アンタあいつに何言った?」
 穏やかで知的な「恋人の友人」の表情は、すでに一久の顔から消え去っていた。鋭い視線、冷たい声。一瞬のうちにまとう空気を豹変させた男は静かに、けれども厳しく聡子を問い詰める。
 「活動中止中の人気ボーカリストが突然目の前に現れたんだ、そりゃあ驚いたろう」
 あんたの気持も分かるよ、と一久は皮肉っぽく口元を歪めた。
 「誰だか分からない振りして気を引いたんだろう。慎の喉のことは、ファンの間ではちょっとした噂になってたみたいだし」

 「違う」
 聡子は短く否定すると、その場に立ち上がった。震える膝に力を入れて、目の前の人物に視線を定める。
 「呆れた。芸能人ってよっぽど自意識過剰なのね。自分達の知名度を過信しない方が良いんじゃない」
 自分は何も知らなかった、知っていたら近づかなかったとぴしゃりと言った。

 そもそも彼女には、「倉田慎二の恋人」を気取るつもりなど毛頭ない。今日ここに来たのは、慎二について少しでも多くの事を知りたいと思ったからだ。出会ったのは二年前でも、聡子が「倉田慎二」のことを知ったのはつい最近だ。嘘と気まぐれから始まったこの恋を確かなものだと言い切れるほど、彼女は彼について多くを知っているわけではない。むしろ、ほとんど何も知らないと言えるだろう。
 今回ライブに足を運んだのも、「山田次郎」ではない彼を見てみたいと思ったからだ。「倉田慎二」としての彼の居場所や生活を垣間見れば、自分の中での彼の存在を確かなものにできるような気がしたのだ。ブラウン管越しではなく、直に彼を彼の世界を感じたかった。彼が自分の思い出やブラウン管の中の幻ではなく、実在する生身の人間なのだということを確かめて自分を安心させたかった。

 「決め付けないで。何にも知らないくせに」
 はねつけるようにそう言うと、一久は怯むどころか余裕の笑みを浮かべた。
 「へぇ。じゃあ、何であんたは今ここにいる?」
 一久は上体を傾けると聡子と目線を合わせた。彼女の心の底を探るように、瞳の奥を覗き込む。
 「一般人としてのあいつを好きになったなら、どうしてこんな所までのこのこ来た?今日あいつを見て分かったろう、あんたとは住む世界が違うんだって」

 あんたとあいつは釣りあわない。まともな神経の持ち主なら、身を引くだろうに。

 ぼそりと吐き出された言葉は、他のどんな暴言よりも深く聡子の心に突き刺さった。胸の辺りに広がる鈍い痛みに、息苦しささえ覚える。
 「興味本位で近づいたのでないって言うならそれでもいいさ。でも、これ以上続けるのはお互いにとって不幸でしかないとよく分かってるだろう」

 一久のあまりに的確で、残酷な指摘に聡子ははじかれたように顔を上げた。
 「私は……っ」
 そう声をあげた聡子は一瞬その場に固まった。じっと一久の目を見たあとで、諦めたように腕を降ろした。握り締められた拳は身体の脇に力なく垂れ下がり、俯いた瞳はじっとつま先を凝視する。

 「帰ります。山……倉田さんに伝えておいて」
 感情のこもらない声で呟く聡子に、一久は両目を軽く見開いた。
 「驚いた。案外物わかり良いんだな」
 今なら傷も浅くて済むだろうよ、と同情するように肩に乗せられた手は、聡子によって払い落とされた。
 「触らないで」
 俯きながらもしっかりとした声で拒絶の言葉を口にする聡子に、一久は肩を竦めた。
 「やれやれ、気の強い事で。荷物はここに持ってきてやるよ。あんたも慎や皆と顔を合わせづらいだろう」
 その場に立ち尽くす聡子の手からすっかり温くなったペットボトルを取り上げると、一久はその場を立ち去った。響く足音が遠ざかると、聡子は側にあった長椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。

 一久から言われたことが、頭の中を回っていた。
 最低だ、と聡子は思った。
 あんな言葉を浴びせた一久が、ではない。何も言えなかった自分が、だ。
 一久の言葉はひどいものだったが、彼は間違ったことを言っていたわけではなかった。どれもこれも、聡子自身が心の奥でずっと考え続けてきたことなのだから。
 会場の外でポスターを見たときから感じていた違和感はこれだったのか、と聡子はぼんやりと考えた。男が声を取り戻すことができて良かったと改めて安堵する一方で感じた、胸の奥の一番柔らかい部分を爪の先でつままれるような、ごく僅かな……けれども鋭い痛み。ずっと見ないように、感じないようにしていたが、聡子は気付いてしまった。心底楽しそうに歌う男の姿を心の底から喜べていない自分に。
「…………」
 音楽の世界に戻り、こうして順調に活動できているということは、男にとってこれ以上ない幸福なのに。そんな幸福に嫉妬する自分を、聡子は醜いと思った。
 「バカみたい」
 聡子は自嘲気味に呟いた。男の素性を知った上でその手を取ったつもりだったのに、自分は結局何も分かってはいなかったのだ。

 一久が戻ってきたら、荷物を受け取ってすぐにここを出よう。そうして、二度と慎二には会わない。電話もメールもしない。
 きっと、そうするのがお互いのためなのだ。
 「今なら傷も浅くて済む……ね」
 きっと、一久の言うとおりなのだろう。今ならば忘れられる。何度か泣いて、苦しい思いに胸を焼かれれば、そのうち思い出も焼き切れる。日々の忙しさも、きっと彼女の中から慎二の面影を消すのを手伝ってくれるはずだ。
 そうしていつか、テレビやラジオから流れてくる低い声を聞いても、平気でいられるようになるのだろう。

 涙が出そうになって、聡子は慌てて唇を噛んだ。ここでは泣かない、泣いてはいけない。
 膝頭をきつく閉じて椅子に座り、両手をしっかりと握り締めて、聡子は一久が戻ってくるのを待った。


**back** **next** **top** 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送