大魔王からの招待状

<2.舞台裏ホットライン>

 慎二は控え室を出ると、トイレとは逆の方向に歩き出した。本番前を前に最後の点検に追われるスタッフに会釈しながら、蛍光灯の青白い光の反射する廊下を進む。リノリウム張りの廊下は、スニーカーの踵が当たるたびにペタペタと乾いた音を立てた。
 必要なものは舞台に既に運び込んでしまっているためか、機材の搬入口付近には人影はなかった。慎二は満足そうに頷くと、搬入口へと続く分厚いスチール製の扉に体を預けた。ジーンズのポケットの中から携帯電話を取り出し、鼻歌交じりに開く。何度かボタンを押してお目当ての番号を呼び出すと、慎二は携帯電話を耳に当てた。無機質な呼び出し中の電子音がしばらくなった後、ほんの少しの間をおいて声が聞こえた。

「……もしもし」
 いつもよりも低めに抑えられた声。きっと、周りを気にしているのだろう。「なんだってこんな時に……」と眉をひそめながら携帯電話を耳に当てている彼女の姿が目に浮かぶ。不機嫌そうな彼女の表情を思い浮べて、慎二は思わず口元を緩めた。
「お客様、会場内での携帯電話のご使用はご遠慮ください」
「だったら掛けて来ないでよ」
 間髪入れずに返された反論はもっともで、慎二は「確かに」と笑った。
「チケット本当にありがとう。友達も喜んでる」
 周りに聞かれないようにしているのだろうか、早口で礼を言う彼女の声に、慎二はそりゃあ良かった、と微笑んだ。
「俺の方こそ、来てくれてありがとう。会場まで迷わなかった?」
 常に冷静で優秀な彼女だが、あれでなかなか抜けている所がある。無事に着けたかと尋ねると、彼女はうん、と答えたあとで何かを思い出したかのように声のトーンを僅かに上げた。
「地図を送ってくれるのはありがたいけど、もうちょっと真面目に書いて。あれじゃポスターの案内図を見たほうがずっと分かりやすいわ」
 怒っているようなその口ぶりに、慎二は昨夜コンビニのファックスから送った地図を頭の中に思い浮べた。確か、ライブに行ったことが一度もないという彼女が迷わないようにと、最寄のバス停から会場までの道筋を描いて送ろうと思いペンを取ったのだ。初めは真面目に描いていたが、数ヶ月ぶりに会う彼女の事を考えているうちに、はしゃぎ過ぎてしまったらしい。交差点を渡る猫のイラストは要らなかったかな……などと考えながら、慎二は電話の向こうにいる彼女に謝った。
「ごめんね、はしゃぎすぎた。聡子ちゃんに会えるって思ったら嬉しくて。……あ」
 進学校に通う彼女は、来年の春に大学受験を控えている。慎二自身は経験したことがないので分からないが、大学受験というものはそれはそれは過酷なものらしい。そして、世の受験生にとって夏は「天王山」と言われるくらい大切な時期だ。
「忙しい時に時間取ってくれてありがとう」
 夏期講習や模試の予定を狂わせてしまったならごめん、と声の調子を落とす慎二に、彼女は笑っていいの、と言った。
「どうせ、部活の大会や体育祭の準備優先で、勉強なんか二の次なんだから。それに」
 彼女はそこで言葉を切ると、短い沈黙の後で消え入りそうな声で言った。
「……私も、会いたかったから」
 受話器を通して聞こえてくる声は今にも周りの喧騒に掻き消されそうなほど小さかったが、慎二は聞き逃しはしなかった。
 耳に入った言葉を頭の中で何度も何度も反芻し、記憶の中に刻み込む。
 慎二は満面の笑みを浮かべると、受話器に向かって囁いた。
「可愛いね、聡子ちゃん。そういうところが好きだよ」
 とびきり甘く媚惑的な声で。この声は、ライブでもレコーディングでも披露しない。彼がこれほど色気のある声を出す事は、世界中で彼女しか知らない。
「なっ……何バカな事言ってるのよ」
「ひどいなあ、本気なのに」
「からかわないで!!……ああー、もう、友達が待ってるから!じゃあね」
 頑張ってという言葉と共に、電話は慌しく切られた。慎二は通話終了のボタンを押すと、満足そうな表情で携帯電話を見つめた。

 相変わらず強気な彼女と話すのは面白く、ついついからかいたくなってしまう。真面目な彼女のことだ、今頃はきっと真っ赤になった顔を隠しながらホールに入っているのだろう。
「さて、俺もそろそろ行きますか」
 慎二は小さく呟くと、廊下を元来た方向に歩き出した。
 あと少しで彼女に会える。自分が一番好きな「倉田慎二」を彼女に直接見せることができる。本来の自分の姿を見て、彼女はどう思うだろう。惚れ直してくれるだろうか。
 今日のライブは何が何でも成功させなくてはならない。
 けれどその前に。
「……便所」
 やはり、本番前に一度は行っておかなければ。
 慎二は携帯電話で時刻を確認すると、トイレへ向かって走り出した。


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