<四つ子ちゃん異聞>

 私の家の近くには、小さな小学校がある。
 鉄筋コンクリートの校舎に、広い運動場。校門の脇にずらりと並んだプランターには、季節の花々が絶えず咲き誇っている。
 小さな靴箱、背の低い洗面台。
 全てが子どもに合わせて作られた建物。
 子どものための空間。
 子どもたちの間で「学校の七不思議」や「学校の怪談」が語り継がれるのも、この独特の雰囲気が不思議なものをひきつけるからなのかもしれない。

 春の終わりの夕暮れ時。私は、緑の葉が生い茂る桜並木の下を歩いていた。昼間の暑さがまだ残っているのか、空気は生ぬるい。私は手に持った籐籠のバッグをぶらぶらと遊ばせながら、アスファルトに伸びる二つの影に目を落とした。
 私の隣に並んだ、私のものよりも一回りほど大きい影。三ヵ月後に結婚式を控えた私たちには、週末ごとにやらなければならないことが山ほどある。今日も、結婚後の新居を探して一日中歩き回って日が暮れてしまった。
 家まで送ってもらう途中、少し寄り道をしていこうと思い立った私は、彼の腕を引っ張って誰もいない小学校の門をくぐった。今日見た部屋についてああでもないこうでもないと言い合いながら、ゆっくりゆっくりと静まり返った校内を校庭に向かって歩いていく。
 周囲に立ち並ぶ家々から、微かに聞こえるテレビの音。ご飯よという呼び声。漂ってくる魚の焼ける匂い。色も形もまちまちな家の一件一件に、それぞれ違った家族が住んでいて、それぞれ違った幸せがある。
 私たちは一体、どんな家族になるのだろう。どんな幸せを築くのだろう。
 私は、隣を歩く彼の手の中に、自分の手を滑り込ませた。先程よりも更に長くなった二つの影が、一つに繋がった。

 校庭の入り口まで来た時、突然彼の携帯電話が鳴った。
 「あ、会社からだ」
 彼は私に向かって、片手で「ごめん」という仕草をすると、通話ボタンを押した。
 「ハイ、竹下です……図面ですか?……」
 私といる時とは違う彼の声を背中で聞きながら、私は辺りを見回した。灰色の校舎も、校庭も、花壇の花さえも夕日を浴びてオレンジ色に輝いている。
 私はクローバーの群生している場所を見つけて、電話中の彼を残したまま校庭の片隅に歩いていった。むせ返るような草の匂いに、四つ葉のクローバーを懸命に探した子供の頃を思い出す。懐かしいような、泣きたいような不思議な気分が胸に広がるのを感じた。

 ふと気が付くと、視界の隅に、小さな人影が一つぽつんとたたずんでいた。
 小さな頭、すとんと頼りなさげな肩、細い脚。その影は、明らかに小さな子供のものだった。
 近所の子供だろうか。こんな時間にたった一人で、一体どうしたのだろう。
 「ねえ、こんな時間に何して…」
 言いながら、その子供の方に足を踏み出したその時

 「お前、強くなりたい?」

 子供特有の高い、可愛らしい声。
 感情を押し殺したような、ひどく張り詰めた声で、その子供は私にそう尋ねた。
 私の足がピタリと止まる。

 ……四つ子ちゃんだ……

 私が小学生の頃、子どもたちの間で噂されていたお化けだ。
 目を合わせて話をし、適切な答えができないと恐ろしいことがおこり、うまく答えると幸せになるという話に、まだ幼かった私は震え上がった。まさか、大人になってから出くわすなんて思ってもみなかった。


 「お前、大きくなりたい?」

 子供は更に私に尋ねる。こちらに背を向けたまま。
 これは、一体どういう事だろう?回れ右をしてその場を立ち去ることも、単なる子供の悪戯だと笑い飛ばすことも出来ずに、私は黙ってその場に立っていた。
 もしもこれが、本物の「四つ子ちゃん」なのだとしたら、私は一体どんなひどい目に遭うのだろう。すぐに逃げるべきだろうか。大声を出して、彼に助けを求めるべきだろうか。
 私の思考を断ち切るように、子供は再び口を開いた。

 「あたしは……」

 生ぬるい風が、私と子供の間を通り過ぎていく。

 「あたしは、大きくなりたい」

 私は顔を上げた。雲の影が、クローバーの上を滑るように流れて行く。

 「あたしは、強くなりたい」

 小さな肩は、心なしか震えていた。細い腕の先にある手は、ぎゅうと硬く握り締められていた。

 ……ああ、そうか……

 あの子は、私だ。
 運動が苦手で、内気だった十数年前の私だ。
 同級生にいじめられ、うずくまって泣いていたちっぽけな私だ。
 私の頭の中に、忘れかけていた日々が蘇る。
 友達のいなかった私にとって、校庭の隅のクローバーだけが唯一の心の慰めだった。休み時間の度に小さな私は、一生懸命四つ葉のクローバーを探した。

 「あたしは…」

 そう、あの子は私だ。
 四つ葉のクローバーを見つければ、全てが良くなると信じて必死で探していた私だ。「強くなりたい、大きくなりたい」と何度も繰り返しながら、地面に目を凝らしていた私だ。
 私の……私以外の沢山の子供たちの孤独や、悲しみ、それに何より、何かを必死に願い、求める気持ちがこの場所には残っているのだろう。

 私は、未だにこちらに背を向けたままの子どものほうへと歩いていった。恐ろしい事が起るかもしれないということなどすっかり忘れて、私は子どものほうへ手を伸ばした。私と、子どもとの距離がどんどん縮まっていく。
 私の過去と現在とが、近づいていく。

 私は草の上に跪き、小さな肩を後ろからそっと抱きしめた。子どもは一瞬体をこわばらせたが、逃げようとする気配も見せずに私の腕の中でじっとしていた。子どもを抱きしめた腕に、何か温かなものが落ちた。私は、子どもを抱きしめる腕に力を込めた。

 「大丈夫だよ」

 大きくなれるよ、強くなれるよ
 心の中で繰り返しながら、おかっぱの小さな頭を何度も撫でる。子ども特有の、すべすべとした細い柔らかな髪。人間ではないかもしれないその子供の頬は、とても柔らかく、暖かかった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。
 「千香子」
 耳慣れた声に名前を呼ばれて、私ははっと振り返った。仕事先との電話を終えたらしい彼が目の前に立って、こちらを見下ろしていた。日はすっかり落ちて、辺りは既に薄暗い。
 「ごめんな、待たせて……どうしたんだ?こんな所に屈みこんだりなんかして」
 「ちょっと、女の子が…」
 私の言葉に、彼は僅かに眉根を寄せ、首を傾げた。
 「女の子?どこに?」
 ここにいるじゃない、と言おうとして私は口をつぐんだ。さっきまで私が抱きしめていたはずの子どもがいなくなっていたのだ。
 私は慌てて立ち上がり、おかっぱ頭の小さな子どもの姿を探した。
 鉄棒の側にも、ブランコの上にも、桜の木の下にもいない。
 広い校庭のどこにも、あの子どもの姿を見つけることは出来なかった。
 「千香子?」
 彼が再び私の名前を呼ぶ。
 私はなんでもないの、と言いながら彼の手を取り、歩き出した。クローバーの茂みが遠ざかる。私は歩きながら、彼の横顔に話しかけた。
 「ねえ、『四つ子』ちゃんって知ってる?」
 「ああ、子どもの頃に聞いたことがあるよ。クローバーのお化けだろ」

 四つ子ちゃん、四つ葉のクローバーの化身。
 幼い祈りが生んだ幻。
 私の答えは、きっと間違ってはいなかった。
 そして私は「未来」という名の幸福を手に入れた。

 「私ね、『四つ子ちゃん』に会ったのよ」
 不思議そうな顔をして私を見る彼。私はにっこりと微笑んで、夕闇に沈むクローバーの茂みを振り返った。

 あなたの未来は、きっと幸せに繋がっているから。
 だから、前を見て、安心して歩いておいで。

 隣にいるこの人と、今もこれからも幸せな時間を紡いでいこうと心に誓いながら、私は校庭を後にした。


* * NovelTop * *  * * Home * *

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送